2-5.spirante~灯が消えるように~
辺りはすっかり夜になっている。街灯などが眩しく
「今日は助かりました、ありがとうございます」
「いえ……他の皆さんが入会した時も、あんな感じだったんですか?」
「ええ。webで私の顔を見た方も多いですし、あの調子だとまだ諦めていない生徒もいるでしょう」
「大変ですね……」
歩きながら手を離そうと力を緩めたが、
柔和な
「
「理乃、やはり名前で呼んでくれませんか? 貞樹、と」
「でも……先生に失礼です……」
「私が望んでいるのですよ。それに、
「……
「誰が彼女なんかに頼みますか。私の恋人は、理乃、あなただけです」
「だ、だから、ふりですから……それに、池井戸先生の方が釣り合いがとれるように思うんですけど」
「嫌です」
まるで子どものように、しかしきっぱり貞樹は言い切る。手を離してくれないことにも参るが、頑なな態度にも理乃は困ってしまった。
貞樹がこちらを見下ろし、口元をほころばせる。
「葉留が怪しめば、彼女のことだ。面白おかしく騒ぎ立てるでしょう。そうなると私もあなたも困ることになりますが……生徒たちからの追求に」
「それは……」
「ですので、名前呼びをよろしくお願いします。理乃」
ううん、と理乃は唸り、試しに口の中で貞樹の名を呟いてみた。どこか優しい響きだ。微かに唇を開け、勇気を出して軽く声に出す。
「……貞樹、さん」
男性の下の名前を呼ぶなんて本当に昔のこと過ぎて、なぜかどきりとした。心臓が早鐘を打つ。ただ名前をささやいただけだというのに。
戸惑う理乃を尻目に、呼ばれた当の本人は喜びでか顔を緩ませている。
「嬉しいですね、ようやく名前を呼んでくれました」
「まだ出会って少しですよ……? 名前呼びなんて早すぎるんじゃ」
理乃の言葉に、貞樹はなぜか間を置いた。じっと理乃を見下ろしたままだ。理乃が慌ててうつむくと、一呼吸ののち視線が外れる。
「怪しまれないための処置です。理乃、よければこのあとも付き合ってくれませんか。私はもっと、あなたのことを知りたい」
理乃は怪訝に思う。勤め先、趣味、そんなものはある程度、土曜日に話したつもりだ。それ以外に何を話せばいいのだろう。だが、貞樹は提案を取り下げるつもりはないようだ。
「この近くに美味しいラーメン屋がありまして。夕飯がまだならどうか一緒に」
「か、構いませんけど。今日はわたしが支払いします」
「意外に頑固ですね、理乃は。結構。奢られることにしましょう。近いので徒歩で行きます。そののちあなたを送りますから」
「そこまでしてもらうのは……」
「厚意は素直に受けとっておくことですよ。それに私の家にも近いですから」
そう言われては断り切れない。頷くことで返事に変える。
結局、手を離すことも許されないまま、貞樹のエスコートでラーメン屋まで行った。
ひっそりとした隠れ家的なお店だ。外観は白一色。のれんの端に店名が書かれている。中小路にあったためか、理乃はここの存在を知らなかった。
外見とは違い、意外と古めかしい店内は繁盛している。小洒落た様子のない店の中に、結構人が多くいて驚いた。
二人用の席に相対するような格好で座った時、ようやく手が離れる。
理乃は昔ながらの醤油ラーメンと、貞樹は特製の塩ラーメンをそれぞれ注文した。メニューを置いて理乃は水を飲む。
「私たちの出会いは半年ほど前、コンサートホールで、ということでいかがでしょうか」
「え?」
眼鏡を中指で押し上げる貞樹は、明らかに苦々しい
「葉留が探りを入れてくるかもしれませんから。出会いの設定を忘れていました」
「あ、そうですね……半年前、わかりました」
「あとは、休日にデートをしている……と。レッスンは特別に土曜に入れてある、という旨くらいは伝えてもいいでしょうね」
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「なんでしょう」
「どうしてその……恋人のふりを、池井戸先生にお願いしないんですか? もしかして彼氏さんが、池井戸先生にいるからでしょうか……」
「そのようなものです」
返事はあまりにそっけない。名前呼びをする間柄だというのに、と理乃は首を傾げた。
「彼女のことはさておきましょう。理乃はいつも休日、何をしていますか」
「えっと。友達とショッピングに行ったり、家で音楽を聴いたり……あとは」
貞樹と隆哉との出会い、いや、再会は最悪なものだっただろう。自分を助け、庇ってくれた貞樹の厚意。隆哉との関係を告げるのは、それを無下にしてしまう気がした。
「あとは?」
「ど、動画を見てます。動物とかの。それに本も読みます」
「なるほど、動物がお好きなんですか。私も兎が好きでして」
「アプリのスタンプ……だから兎だったんですね」
「年甲斐もないと言われそうですが、可愛い兎のスタンプを見つけると、つい購入してしまうんですよ。情けないことに」
「そんなこと」
と返した時、湯気の上がったラーメンが運ばれてくる。醤油ラーメンは色が濃く、飾り気がない素朴なものだ。貞樹の塩ラーメンからは生姜の香りが漂ってきている。
「ではいただきます。ごちそうになります」
「はい、このくらい……いただきます」
理乃は割り箸を置き、備え付けのレンゲを手にしてスープから飲んでみた。
「あ、美味しい」
「よかった。ここのラーメンは私のお気に入りなんですよ」
「……ちょっと意外です」
「意外とは、何がでしょう」
「だって宇甘さ……貞樹さん、は、その、お洒落でスマートな人ですから。こういうお店には来ないかと、勝手に」
一瞬、自分が何を言っているのかわからなかった。お洒落でスマート、そのとおりだ。考えれば考えるほど、貞樹と釣り合いがとれていないように思う。貞樹には、葉留のように明るくて華やかな女性がお似合いだ。
恥ずかしくなって縮こまる理乃に対し、貞樹は眼鏡を外して平然と笑う。
「普通に牛丼屋などにも行きますよ。美味しいものには目がないので」
「なんか、想像ができないです」
「普通の人間ですよ、私は」
微笑みながら麺を
(食べ方だって綺麗だし、普通を平然としちゃうところが凄いんだけど……)
ひとまず思考を振りほどくように、美味しいラーメンを堪能する。しばらく沈黙が二人の間に下りたが、不思議と緊張した空気にはならない。我ながらたった数日で、随分貞樹へ気を許しているな、と思った。
今まで、飲み会などで男性と二人で会話する時もあったが、ほとんど固まっていた記憶がある。こんなに落ち着いた、沈黙を苦にしない男性と出会うのは初めてだ。
貞樹といると心が安まる。それは貞樹が自分にかけてくれる言葉だったり、和やかな視線のおかげだろうか。貞樹が纏う静かな雰囲気――それにもどこか心身が休まる気がした。
「理乃、チャーシューを一枚食べませんか」
「いえ、悪いです」
「三枚入ってますので。どうぞとって下さい」
「……そ、それじゃあ……一枚」
まるで餌付けされてるようだと思いつつも、美味しそうな焼き目と脂のノリに負けた。程よい硬さと柔らかさが混在するチャーシューも、実に美味だ。
「これも美味しいです」
美味しい具材に、つい表情が緩んだ。自然と笑みが浮かぶ。こちらを見ていた貞樹が、呆けたような表情を作った。
「理乃。今笑いましたか?」
「え、あ……やだ、わたし。つい」
食べ物につられて笑うなんて、と理乃は残った具材を食べることでごまかす。全て食べ終えた貞樹の視線が痛いほどに注がれていた。
「やはりあなたは笑顔の方がいいですよ」
「そ、そうですか……?」
湯気にではなく優しい言葉に頬が熱くなる。この数年、ほとんど人前で素の笑顔なんて見せていなかった。なのにどうしてだろう、貞樹にそこまで心を許していることに、自分でも呆然としてしまう。
これも貞樹の持つ穏やかな雰囲気、空気の成せる技なのだろうか。理乃にはわからない。
スープは少し残してしまったが、満腹まで食べた。二人で「ごちそうさま」を言い合う。
「じゃあ、ここはわたしが支払いますね」
「ありがとうございます、ごちそうになります」
理乃が鞄から財布を出そうとした刹那、スマートフォンのアプリが通知音を鳴らした。
「ごめんなさい、ちょっと出てもいいですか」
「どうぞ」
通話ではない。メッセージだと確認したのち、貞樹に断りを入れてスマートフォンを取り出す。
「すまん」「頼むから来てくれ」――
画面に浮かんでいたのは、隆哉からのメッセージだった。
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