2-4.sereno~のどかな~

 筋雲をたなびかせた夕焼け。橙の実をつけたナナカマド。秋の色が眩しい歩道には、帰路につくサラリーマンなどがたくさんいた。


 理乃が着ている小豆あずき色のスイングスカートが風で揺らめく。南風なのか少しだけ生温い。貞樹さだきのパジャマを入れた紙袋をしっかり抱えながら、地下鉄へと急いだ。


 十七時台は仕事帰りの乗客が多く、座ることはできなかった。いつものことだから気にしていられないが。満員の電車内は熱気で少し、息苦しい。


 電車の待ち時間を含め十五分ほどで目的の駅に着く。電車から降りる人も多い。混雑しているバスターミナルを通り越し、階段を上がって外に出た。


 教室へはそう遠くない。横断歩道を渡り、数分歩けばすぐそこだ。


 今まで静かだと思っていた教室からは人の声がしている。随分賑やかそうで一瞬、気後れしたが、ドアを開けて中に入った。


「いらっしゃいませ」


 受付には、貞樹ではなく一人の女性が座っていた。


 染めた金髪、薄い茶色の目。黄色のワンピースが似合う美女で、こちらに愛想の笑みを浮かべている。多分、年齢は二十歳を過ぎている。自分と同じ年頃だろうか。


 他にもロビーには生徒と思しき女性たちが、手に袋を持って理乃を見ていた。


 彼女たちの会話を邪魔しないよう、理乃は静かに受付の女性へ声をかける。


「こんばんは……」

「はい、こんばんは。すみません、新規生徒さんは募集してないんですよ」

「い、いえ。生徒です。瀬良せら理乃といいます……」

「ああ! はいはい、瀬良さんですね。宇甘うかいが待ってました」

「ここで待たせてもらってもいいですか?」

「どうぞおかけになって下さいね。……そう、あなたが瀬良さんか」


 刹那、女性の瞳が細められた。まるで値踏みするような視線に、理乃は居心地が悪くなる。せわしなくロビーの端っこ、置かれている一人用の椅子に腰かけた。


 生徒たちは楽しそうに談笑している。こちらに視線を送るものもいたが、すぐに興味をなくしたようでありがたい。しかし、受付の女性だけは未だ理乃を見つめている。


(な、なんだろ……知り合いじゃないし)


 会ったことはない。それは間違いなかった。無駄な記憶力が彼女と初対面だと判断する。


 理乃はごまかすように、アップライトピアノに視線をやった――その時だ。


「皆さんまだいらっしゃったんですか」


 どこか疲れた声と共に、コート姿の貞樹が奥から出てくる。甲高い声が上がった。


「宇甘先生、これ、差し入れです!」

「こっちもですっ」


 歩いてくる貞樹へ、生徒たちはまるで捧げるみたいに袋を差し出す。貞樹の顔は厳しさを通り越し、呆れに変わっていた。


「差し入れは結構。それは皆さんが食べて下さい。私は恋人以外から贈り物をしていただくことをしませんので」

「えーっ。でもー」

「少しくらいはいいじゃないですかぁ。これ、高級なクッキーなんですよぉ」


 高級と聞いて、理乃は自分が持つ袋の中身を覗いた。中には簡単な礼として、スーパーで買った安いカステラが入っている。


(わたしの馬鹿。お礼ならもっとまともなものを……)


 自分の迂闊うかつさに顔が赤くなる。日持ちのことにも頭が回らなかった。


「お気持ちだけいただきます……ねえ、理乃」

「は、はいっ?」


 名を呼ばれ、慌てて顔を上げる。ほとんどの人間、貞樹を含めた全員がこちらを見ていた。頭の中が混乱する。注目を浴びるのは、どうにも慣れない。


「ご紹介します。あちらにいるのが私の恋人、瀬良理乃さんです」


 貞樹の台詞に、生徒たちがざわつく。理乃と貞樹を見比べているものもいた。理乃はようやく落ち着き、こっそり溜息を吐き出した。貞樹と自分では釣り合いがとれないだろう。


「こ、恋人……」

「でもーっ。差し入れくらいは! 差し入れくらいは!」

「……だ、そうです。理乃、どうしますか」


 またもやこちらを見る生徒たちの目には、どこかすがる視線も含まれていた。どうしようと悩み、苦笑を浮かべて妥協案をひねり出す。


「な、長持ちするものは……ここに来た皆さんで食べていただく、のは」

「そうですね、そうしましょうか。仕方ない、一度受け取ります。池井戸いけいどさん、皆さんからの差し入れを集めて下さい」

「はいはい、わかりましたよ」


 受付の女性――池井戸と呼ばれた女性が立ち上がり、貞樹と生徒の間に割って入った。


「ということですので! 代わりに皆さんのお気持ちを預かりますね」

「残念ー、池井戸先生にとられちゃった」


 手慣れた様子で袋を手にする池井戸は、講師なのだろうか。理乃は座ったまま目をまたたかせた。もしかすれば貞樹だけでは教室を回せなくなったから、講師を一人、入れたのかもしれない。


 袋を預ける生徒、預かる池井戸の横を通り過ぎ、貞樹が理乃の方に近付いてくる。


「こんばんは、理乃。お仕事お疲れ様でした」

「こ、こんばんは。お疲れ様です……あの、受付にいた人って」

「池井戸葉留はるさんです。事務員とピアノ講師の両方を兼任しています」

「やっぱり。そうなんですね」

「……心配したりしませんか」

「はい?」


貞樹のささやきに、理乃は首を傾げた。こちらを見下ろす貞樹がどこか、消沈した顔を作る。


「それじゃあ皆さん、お疲れ様でしたーっ。日持ちするものはお茶請けで出しますね」

「はぁい……お疲れ様でした……」


 なんだろう、という理乃の疑問をよそに、講師の葉留が明るい声を上げた。生徒たちはすごすごと、どこか口惜しい様子のまま貞樹に労いの声をかけ、教室を後にしていく。


 すっかり静かになった教室。理乃はピアノの音が流れていることに今、気付いた。


「ねえ、さだ。クッキー以外の食べ物、あたしがもらっていい?」


 両腕一杯に袋をかけた葉留が、興味深そうな瞳でこちらを見る。理乃は一瞬、「さだ」と呼ばれた人物が誰だかわからなかったが、貞樹の愛称なのだと思い至った。


「あなたも趣味が悪いですね。結構、好きにして下さい」

「やった。……ねえ、そろそろ瀬良さん紹介してよ。恋人なんでしょ」

「名前はもう、理乃が告げているじゃないですか」

「それ以外のこと。瀬良さん、よかったらお茶しながら話しません?」

「え……」

「だめです。これから二人で食事に行こうと思ってますので」

「いいじゃないのよ、少しくらい。さだのケチ、わからず屋、むっつりスケベ」

「口が悪い。慎みなさい」


 貞樹と葉留の様子はどこか和やかだ。しかも二人とも、名前呼び。自分じゃなくとも、恋人のふりなら彼女に頼めばと理乃はぼんやり思う。


「全く……おや、理乃。その袋は?」

「えっと。借りたパジャマのお返しと……お礼のカステラです」


 安物ですけど、と付け加え、抱えていた袋を差し出した。それを手にした貞樹が嬉しそうに微笑む。


「気を遣わせましたね。カステラは私も好きなんですよ。ありがとうございます」

「いえ……」

「いいわね、カステラ。さだ、あたしにもちょうだいよ」

「嫌です。これは理乃が私にくれたものですので」

「はー、これだから。瀬良さん、色々苦労してるんじゃない?」

「何がですか?」

「さだはこんな澄ました顔してるけど、恋人に対しては嫉妬心凄いし、執着心の塊だし。束縛系? って言うのかな。だから苦労してるんじゃないかなって」

「はあ……」


 ピンとこない理乃は、呆けた返事を出すだけだ。葉留の言った単語が、どうしても紳士的な貞樹に当てはまらない。


「口を慎め、と言ったはずですよ。それより教室の施錠をお願いします」

「わかりましたよ。お二人でどうぞ、楽しく行ってらっしゃい」

「では行きましょうか、理乃」

「あ、は、はい……それじゃあ失礼します、池井戸先生」

「はいはい、またね」


 葉留は明るい笑顔で手を振ってくれた。立ち上がろうとした理乃に、貞樹が手を差し出してくる。手をとるかどうか躊躇した。だが、恋人のふりをしなければならないのなら、手を握るくらいのことは最低限の条件だろう。


 長い指にそっと自らの指を添えると、エスコートするように力を込められた。そのまま指を絡めとられ、冷たい感触に少し、肩が震える。


 恥ずかしさを隠し、理乃は貞樹と共に教室を出た。

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