2-3.stentato~音を引きずるように~
月曜日。あいにくの曇り空の中、出社した
少し休もう、と決めてデスクから離れた。部署内にある休憩室はガラス張りで、中にはコーヒーメーカーなども設備されている。スマートフォンを片手にお茶を入れ、椅子に座った。
(日曜日はありがとうございました……っと)
窓の外、眼下に広がる道には今、ほとんど人はいない。まだ昼前だ。休憩室で一人、お茶を飲みつつ貞樹に返信する。既読はまだつかない。
(体は大丈夫です。仕事が終わったら教室に行きます……これでいいよね)
堅苦しい文面になってしまったけれど、癖のようなものだ。スマートフォンを机に置いて肘をつく。
ちゃんと寝て、食事もした。朝食だって簡単にとってきた。いつもと変わらない日々、そう思うが、貞樹と出会ったことで一変したようにも感じる。
「……恋人のふりって何すればいいのかな」
「ふりってなぁに? なんの話?」
びくりと肩を震わせ、背後を振り返る。そこにはサイドテールを揺らした
抹茶ラテを手に、瑤子は理乃の隣へと腰かける。
「どしたの? ふりがどうのとか言ってたけど」
「な、なんでもないの。……ね、瑤子には恋人がいるよね?」
「うん。それがどうかした?」
「恋人って、……その、何をしたらいいのかな」
「ぶふっ」
理乃の問いが唐突すぎるものだったためか、瑤子が飲み物を吹き出しそうになっている。ぱくぱくと口を開け閉めし、唇についたラテを豪快に袖で拭う彼女の顔は、驚きに満ちていた。
「何、
「ちっ、違うの。瑤子、少し声が大きい……」
「ごめんごめん……いや、恋愛に興味ないと思ってたから、瀬良ちゃん。そんなこと聞いてくるなんてびっくりよ」
「わたしにだって昔は彼氏がいたよ。すぐに別れたけど」
「じゃ、聞く必要ないじゃん? その昔通りにすればいいわけでー」
ラテを飲み直す瑤子に、ううん、と理乃は困ってしまう。数ヶ月付き合った彼氏、その思い出はあまりいいものではない。君といても退屈だ、と言われた記憶が確かにある。
デートは一応した。しかしアクティブだった同級生とは合わず、ボウリングやキャンプに誘われても全く楽しめなかったのだ。
「付き合いは学生時代の話だし、合わなかったから、あまり……昔通りにって言われても。ね、瑤子はいつも恋人さんと、どこに行ったりしているの?」
「んー、ウチらは歌が好きだからカラオケとか。あとは本屋とか。お茶したり……それとかまあ、したり」
あけすけな返答に、理乃は頬を赤らめた。するというのは言わば男女の営み、というものだろう。成人男女の付き合いなのだから、至って当然なのかもしれない。
「そ、それ以外は?」
「普通だよ。食事したり家に行ったり。映画借りてきて一緒に見るとかね」
「そう……」
律儀に答えてくれる瑤子へおざなりに首肯しつつ、少し考えた。
食事したり、家に行ったり――それはまるで、土曜日の出来事と同じだ。隆哉の件を除けばまるで、貞樹と本物の恋人のように振る舞っていたのではないか。
(ふり、だから食事は普通……なのかな。いきなり家にまで行っちゃったけど)
考えこむこちらを、瑤子が横目で見つめてくる。
「なんかあったの、瀬良ちゃん。やっぱり恋愛してるとか?」
「ううん、違うの。ごめんね、変なこと聞いて」
「いいよーぅ。ねえ、それよりバイオリンの方はどうなったの?」
「あ……無事にレッスンを受けられることになったわ。一回、稽古もしてもらったし」
「いいねえ。で、どう? 上手く弾けた?」
「全然。恥ずかしくなっちゃうくらいに下手」
「ずっと弾いてなかったんだし、仕方ないよ。
「うん。厳しいけど的確だし、わかりやすくて。教え方が上手なの」
「よかったじゃん。やっぱ習い事って先生も大事だよねえ」
まるで自分のことのように喜んでくれる瑤子に、理乃は微笑んだ。
「ところでさ。今日ちーちゃんと飲みに行く予定なんだけど、瀬良ちゃんも来ない?」
「
「残念。ちーちゃん、瀬良ちゃんと会えなくて寂しがってるよ。でも用事があるならまた今度かあ」
「うん、ごめんね」
共通の友人、
「じゃあねー、また今度」
「そうさせて」
ラテを一気飲みして瑤子は去っていく。わざわざ来たのは飲み会への誘いがあったからかもしれない。
再び一人になり、改めてスマートフォンを眺めた。隆哉からは何度か、土曜日に横柄な言葉が送られてきている。最後の「もういい」という簡素な文面に、少し胸が軋んだ。
こちらから隆哉に連絡をすることはない。してはならないのだ。連絡先の交換だって、隆哉に無理やりさせられただけ。
(わたし……
隆哉の更生が目的だったのに、と長く嘆息してしまう。
それにしても、隆哉が貞樹へ手を出した時には驚かされた。酔っていたとはいえ、基本、隆哉は飲めば陽気になるタイプだ。虚飾の明るさが理乃に向けられたことなど、この二年なかったが。
明るくて頼りがいのある、本当の兄みたいだった隆哉は、今や見る影もない。
(ピアノに手を置けば、きっと上江さんだって情熱を取り戻す……よね?)
それでも希望は捨てきれなかった。隆哉だって音楽が好きなはずだ。そのために自分が頑張るのだから――
一つ頷いた時、アプリが音を鳴らした。貞樹からだ。貞樹とのトークルームを見る。
「お仕事お疲れ様です。教室でお待ちしています。よろしくお願いします」と三回に分けて送られた文の下、可愛い兎のスタンプが貼られていた。理乃はちょっと呆ける。
(兎……好きなのかな)
文面の硬さ、いつもの貞樹の姿からは想像できなくて小首を傾げた。こちらもそれに合わせ、猫のスタンプで返信する。
(そろそろ仕事に戻ろう)
残業になっては大変だ。今は隆哉のことも、貞樹からの提案――クロイツェルのことも忘れておこうと思う。
視線を上げてお茶を飲み干した。薄曇りの下、イチョウの黄色だけが鮮やかだった。
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