第294話 アタック・ザ・グロズヌイ……の筈だったが、思わぬ展開に




 リスト元帥率いる”クバーニ方面軍”は、ビャチゴルスクを要塞化し、航空基地を併設すると同時に東進を続け、史実より僅かに遅れてナリチクを制圧。

 史実では1942年10月28日にドイツはナリチクを制圧するも、早速翌年の43年1月3日に赤軍に奪還されるという体たらくを見せていた。

 逆に言えば、もうそれだけ弱っていたのだ。

 実際、ナリチクに限らず、南方軍集団管轄領域でソ連に奪い返された都市は実に多い。

 

 だが、赤い同志諸君には残念なことに、この世界線でも同じことができる可能性は低いと言わざるを得ない。

 ドイツ本土に爆弾の雨が降ることもなく、無駄な戦闘で消耗もなく、日英との停戦が覆される気配もなく、周辺諸国との関係は良好であり、ドイツ本国と同盟国(除くベラルーシ)の生産力は右肩上がりであった。

 特にサンクトペテルブルグを筆頭に、バルト三国、ウクライナの復興が著しい。

 ポーランドはドイツに併合された西ポーランドはともかく、東ポーランドは亡命政府が英国より帰国し定着、ドイツの支援のもと”ポーランド共和国”として再独立、国際社会に復帰すべく鋭意復興中である。

 ただし、国境線をどうするかで少々もめているが。

 

 現在、最新の資料によればドイツとしてはケーニヒスベルク→ダンツィヒ→グラウデンツ(グルジョンツ)→ウッチ(この世界では改名されないようだ)→チェンストホヴァ(同じく改名されず)→カトヴィッツ(カトヴィツェ)のラインより西をドイツ領、それより東をポーランド共和国(ほぼ、ソ連の元被支配地域)として独立させるという方針を固めていた。

 無論、住民移動に関しては制限を設けるつもりはなかった(一度だけだが国籍選択の自由を与える予定だった)が、なんと同盟国みうちから反対が出てしまっている。

 例えば、ドイツとの直結路が断たれる形になるウクライナに直接北からの圧迫を受けることになるスロバキアだ。

 バルト三国の説得と了承は取り付けたし、直接国境を接する事になるベラルーシからの文句は上がっていないが、ノイラート外相も中々に苦労しているようではある。

 

 未だに共産ゲリコマとの戦いが続いているベラルーシはともかく、まあ他の地域は平穏とは言わないが大規模な軍事衝突はなく、ソ連との戦いに全力を傾注できているのが、今のドイツだ。

 レニングラードとムルマンスク、アルハンゲリスクという北方軍集団の管轄地域を陸海空の集中的戦力投入で、泥沼になる前にさっさと陥落させて統治と復興を開始、モスクワやスターリングラードで余計な労力を使わず、行うのも後処理も面倒な無駄で無意味な虐殺を律し、アフリカや地中海からも手を引き、インド洋への進出もせず、史実では占領していた国々も占領しなかったり、占領してもさっさと再独立させた。

 

 これだけやって生まれた余力をドイツは無駄にする気は無かった。

 ナリチクに続いてオルジョニキーゼ(ウラジカフカス)を攻略するのだった。

 

 しかし、この時点で……現在で言う”チェチェン共和国”に入った辺りで奇妙な風向きになるのだった。

 

 

 











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 チェチェンにはある意味においては有名な都市がある。

 ”グロズヌイ”と呼ばれる都市だ。

 そして、この街には実に”ソ連らしい”血腥さ漂うエピソードがある。

 元々、この街はクバーニ(クバン)コサックの土地だった。

 そして、例の”コサック根絶命令”の一環として、土地を追われ代わりに山岳民族であったチェチェン人とイングーシ人のグロズヌイへの移住を奨励し、1936年に”チェチェン・イングーシ自治共和国”が生まれる。

 だが、ソ連が”バグラチオン作戦”による大反攻を成功させた1944年、街に住んでいたチェチェン人とイングーシ人は、「ナチス・ドイツに協力した」という嫌疑で、グロズヌイを追放される。

 無論、ただの追放ではない。民族ごと強制移住であり、行き先はカザフスタンやシベリア。またその際に10,000人以上が虐殺された。

 更に市内のチェチェン人の居た痕跡は、内務人民委員部によって徹底的に抹消された。

 フィクションではない。厳然たる事実、”史実”だ。

 

 そしてこの世界線……グロズヌイは土地を追われたコサックにとり因縁の街であり、そして……

 

「我々のグロズヌイ侵攻を支援すると? チェチェン人とイングーシ人がか?」


 その報告を聞いたクバーニ方面軍司令官のリスト元帥は、かなり困惑していた。

 無論、こうなるに至った経緯はある。

 チェチェン人とイングーシ人の部族代表で極秘裏に行われた会合で、族長の一人がこう発言したのだ。

 

『ドイツ人に協力しようがしまいが、結局、我々は粛清されるのではないか? 彼らは敗北の責任を誰かに押し付けずにはいられないのだから。特にスターリンはそうだ』


 その会合で、”結果が同じなら、まだドイツ人に協力した方がマシなのでは?”という方向性が定まった。

 しかし、実際に鉄砲持って赤軍を襲うのではなく、あくまで「救援要請」を出し、間接支援を行う事により、その功績をもって現状の”チェチェン・イングーシ自治共和国”を安定させるという物だった。

 

 


***




 実はこの申し出は、ドイツ本国の意向にも合致していた。

 既にコーカサス油田の確保を優先戦略目標から外していたドイツではあるが、旧ソ連とグルジアを結ぶ黒海とカスピ海に挟まれた回廊”クバーニ”は、ソ連にとりいわゆる「殴られると痛い”やわらかい下っ腹”」になりかねない地域だった。

 

 実際、ドイツはかつて存在したクバーニ人民共和国の領土とほぼ同じ領土を元々の住人であるクバーニ・コサックを中心とした、黒海コサック、ドン・コサック、ウクライナ・コサックたちを戻し「反共親独コサック連合の国家樹立」を目指していたのだ。

 シュクロ将軍をはじめとするクバーニ・コサックをはじめ、各コサックたちは「確固たるコサックの安住の地」確保を目指してドイツに協力していた。

 だが、問題はカスピ海西岸に接する地区の統治だった。

 ソ連の”コサック根絶命令”のせいで、コサックたちの数はそう多くはない。例えば、有名のホロモドールの目的の一つが、「コサックの餓死」を狙ったものだという事も後年に公開された資料ではっきりしていた。他にも1919年2月から3月の1か月間だけで8千人以上のコサックが組織的に殺害され、1919年から1920年にかけて30~50万人のコサックが殺害または国外追放されたなどいう記録も残っている。

 そして、現在のコサック人口はその結果だ。

 

 その状況でのチェチェン人とイングーシ人からの申し出は、まさに渡りに船だった。

 無論、元々の住人であるコサックたちを説得する必要はあったが、彼らにしても広大過ぎる面積を統治するには人口が足りてない事を自覚しており、不承不承ながらもその決定に従う下地は整っていた。

 

 また、グロズヌイを要塞化できるメリットはドイツにも大きかった。

 例えば、この周辺に大規模な空軍基地を設営できれば、ペルシャ湾→イラン→カスピ海→ヴォルガ川と北上するレンドリースルートへのこの上ない圧迫となる。

 一例をあげれば、グロズヌイからレンドリース品の集積地や石油の備蓄・精錬基地のあるアストラハンまで400km程度しかないのだ。

 完全に遮断できなくとも、空爆と航空機雷による港湾封鎖で、かなりの効果が期待できる。


 故にリスト元帥が南方軍集団司令部と協議したうえで、OKHに最終判断を仰いだ返答を要約すれば……

 

「その申し出を受け、存分にやるがよい。新独の隣人が増えるは喜ばしき事」


 という指示が出たのも当然の成り行きであった。

 つまり、この時点でグロズヌイの陥落は決定したと言ってよかった。

 

 

 












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