第292話 リスト元帥とクバーニ方面軍、そしてクバン・コサック ~復讐するは我にあり~




 リスト元帥の復帰と着任、南方軍集団の再編→クバーニ方面軍の創設は並行して行われた。

 戦力自体は既にクバーニに存在していたし、後は司令官であるリスト元帥とその幕僚団が着くのを待つだけとなった。

 

 ボック元帥の幕僚から数人のクバーニ方面軍への人材抽出があり、またボック元帥の幕僚団も数名の幕僚の補填があった。

 

 ボック元帥とリスト元帥の管轄区域は、ロストフ・ナ・ドヌーを境界としそれより北が南方軍集団、それより南がクバーニ方面軍と決められた。

 蛇足ではあるが、どうもこの2人どうやら以前からの顔見知りらしい。

 

「先ずは復帰をおめでとう」


 どうやらボック元帥は前線からリスト元帥が消えた本当の理由を知っていたようで、

 

「それと復帰早々、大変な役目を押し付けてしまう形になってすまない」


「これもお役目。承知しております。それに休養をいただいたおかげで鋭気は養われているので心配ご無用」


 リストはそう快活に笑うと、

 

「こちらこそ、黒海沿岸の南下作戦の折、前線をあけてしまって申し訳ない」


「それこそ仕方ないことだ。総統閣下直々の命であれば尚更」


 そして、戦況確認と認識の摺合せ。

 リスト元帥の復帰は、ソチの無血開城の直後であったが、南方軍集団は黒海沿岸のソ連の南端、グルジアとの国境の街”アドレル”まで軍を進めていた。

 

「これ以上の南下は意味を持たないでしょうな。バクーの油田を狙わないのなら余計に。総統閣下の示す戦略目的から考えて、現状グルジアには手を出すべきではないだろうと」


 1921年に赤軍に占領されるまで独立国であり、そして未だにソヴィエト連邦に組み込まれながらもキリスト教が根強い地域でもある。

 

「総統閣下はグルジアの再独立を狙っていると思うか?」


 ボックの言葉にリストは小さくうなずき、

 

「だが、今はその時期じゃない。だが、その下はトルコだ。あそこに馴染みの深い国家はあるだろう?」


「……日本か?」


「ああ。だが、日本は来年のイタリア攻略を隠そうともしていない。クバーニ、いや南コーカサスで事態が動くとすればそれ以降だろう」


「パトゥミに退避しているロシア人の黒海艦隊はどうする?」


「ドイツの黒海艦隊で強襲する手もあるが、あまり得策ではないな。事実、残存艦も少ない。ソチに航空機による哨戒基地、アドレルに即応の魚雷艇Sボート部隊を貼り付けておけば十分だろう。実際の脅威となるのは潜水艦による通商破壊ぐらいだろうが、船団護衛は海軍御領分だ」


「ふむ。それでよいと思う。司令部を置くのはクラスノダールで構わないか?」


「申し分ない」


 ボックはコホンと咳払いし、

 

「リスト元帥、南下しないとして君はこの先、何処をどう攻める?」


「南へ行かないなら、東しかないだろ?」















************************************















 リストの現職復帰第一戦は……

 

 

 

「”ビャチゴルスク”、攻撃開始っ!!」


 ロストフ・ナ・ドヌーからクラスノダールを攻撃する際、ボック元帥は『クラスノダール、ノヴォロシスクへの進撃路の安全を確保する』という理由で、ロストフからクラスノダールへ向かう中間地点にある分岐路よりチホレツク、アルマヴィル方面へ別動隊を進出させ、ネヴィンノムイスク、スタヴロポリを立て続けに陥落させ、そこで一旦進軍を停止していた。

 

 ネヴィンノムイスクは都市として成立したのは1939年のまだ若い街で、元々はクバーニ・コサックの集落があった場所だが……そのコサックがどうなったのかはお察しくださいだ。

 スタヴロポリは実は1935年にサンクトペテルブルグ攻略戦で戦死したヴォロシーロフ将軍にちなんで”ヴォロシロフスク”と改名されたが、ドイツが占領すると同時にスタヴロポリという名称に戻った。

 特に関係ないが、スタヴロポリの語源はギリシャ語の”十字架の街”という意味らしい。

 

 

 

 さて、実はビャチゴルスクは本来はそれなりに防御の堅いストロングポイントと言えた。

 当然だ。

 この街は黒海とカスピ海のほぼ中間点にあり、カスピ海西岸から黒海へ抜ける道の合流点(チョークポイント)でもある。

 

 だが、ビャチゴルスクはあまりにもあっさりと陥落した。

 その最大の要因は、ソ連がこの時点でクバーニ方面軍の創設と、その司令官を全く掴んでいなかったことだ。

 

 防衛のソ連側は限られた戦力を有効利用するためにネヴィンノムイスクへ続く太い街道に警戒と防備を集中させており、ネヴィンノムイスクとビャチゴルスクの中間地点にあるクルサフカに前線防衛陣地を構築し、ビャチゴルスクに続く長い縦層防衛陣線を構築していた。

 これまでのドイツ南方軍集団は、馬鹿正直なまでに街道に沿って進軍しており、土地勘のないドイツ人は力押しの正攻法しかできないと思い込んでいたのだ。

 

 だが、相手は”あの”リスト元帥である。

 マジノ線の突破の功績持ち……彼がクラスノダールに司令部を開いてすぐに探らせたのは、現有のドイツの支配地域からビャチゴルスクに抜けられる「ロシア人が意識していない進撃路」の有無だった。

 

 リストは数々の情報から、「本来、この方面を守っていた部隊がヴォルガ川方面の防備に移動していたこと」、「現在、ビャチゴルスクを守る部隊がまだ編成されて日が浅く、またビャチゴルスクに着任してさほど時間がたっていないこと」、「故に防衛側のソ連軍もまた土地勘がない・・・・・・」と結論付けたのだ。

 

 リストの優れている点は、地図や航空写真偵察に頼り切るのだけでなく、偵察部隊や測量部隊を投入して現地調査を徹底させた所だ。

 これを怠っている司令官や参謀は存外に多い。

 地図だけで作戦を決めるなど、言いたくはないが大日本帝国の参謀本部では日常茶飯事で、その典型が”インパール作戦”だ。

 はっきり言うが、史実の帝国陸軍は敵ではなく「(陸軍3バカなどに)味方に殺された」人数の方が多い印象がある。

 

 そしてマジノ線攻略を成功させたリストだからこそ、「地図や写真が噓をつく」ことをよく理解していた。

 

 そして見つけ出したのだ。

 スタヴロポリからスヴェトログラドへ抜ける街道の途中にある、ビャチゴルスクに繋がる細い抜け道を。

 

 リストはまずスヴェトログラドと南にあるチェルケスクを攻撃し、占領する。

 どちらも守備隊は少なく、奇襲に近い攻撃となった。

 

 

 

***




 その結果を見て、ソ連側はこう判断した。

 

 ・ドイツは防御の堅いビャチゴルスク攻略以外のカスピ海へ抜ける別ルートを模索するためにスヴェトログラドを攻撃した

 ・またネヴィンノムイスクへの別ルートでの攻略を模索するためにチェルケスクを攻略した。

 

 実際、チェルケスクからビャチゴルスクへ抜ける比較的整備された街道は存在する。

 余談ながらチェルケスクはスリモフ→イェジョヴォ・チェルケスク→チェルケスクという30年代の名前の変遷があるが、調べてみるとソ連の粛清(内ゲバ)の歴史の一旦が垣間見える。

 とにもかくにも以上のような理由から、ビャチゴルスク防衛隊は更に労力を投じてチェルケスク方面の防御陣地の構築を始めた。

 そして実際、ネヴィンノムイスクとチェルケスクからドイツの装甲化された重火力部隊が押し寄せ激しい戦闘となったが……だが、それらは”全て陽動部隊・・・・・・”だったのだ。

 

 本命は、先の”抜け道”を駆け抜ける”NSR第2コサック騎兵団”、そしてシュクロ将軍率いる”クバン・コサック義勇騎兵団”……そう、あの抜け道を見つけたの者こそが、まさに先祖がこの地に暮らしていたクバーニ・コサックの一人であり、馬くらいしか通り抜けられない道だからこそ、ソ連から見過ごされていたのだ!

















************************************















 戦いは、とても凄惨な物になった。

 当然である。

 ソ連は、ロシア革命直後より”コサック根絶命令”を出していたのだ。

 理由は「皇帝に忠誠を誓っていたから」。長々と理由が書いてある資料もあるが、根本的にはこれだ。

 つまり、クバーニ(クバン)・コサックにとって赤軍もロシア人も先祖伝来の土地を奪い、文化風習を奪い、男を殺し女を犯し、最後はコサックに連なる全てを絶滅させにきた怨敵であり仇敵だった。

 

 親の子供の妻の恋人の仇なのだ!

 そして騎兵である以上、確かに重武装は携行できない。

 しかし、軽騎兵彼らは騎乗できる重量の”ドイツ製兵器”を与えられていた。

 新しすぎるStG42は流石に無かったが、馬上で短弓のように取り回しやすいP38/40短機関銃、P38拳銃、対装甲用にパンツァーファウスト、そして手榴弾。中には長弓のようにMG34汎用機関銃を器用に振り回す強者もいたらしい。

 

 

 

 最初は、お決まりの制空権を巡る航空戦。

 そして何時ものようにドイツの勝利で航空優勢を奪われる。

 当然だ。アメリカンスキーの貢ぎ物である最新鋭の戦闘機も装備も、まずはモスクワ防衛に、次にヴォルガ川防衛線に回される。

 まだ、要所とは言えそこから外れたビャチゴルスクにまでまだ回ってくる筈もない。

 

 そしてセオリー通りのスツーカによりピンポイント急降下爆撃と、双発爆撃機の範囲爆撃。

 対人用の散弾型、対装甲用の成型弾頭の集束爆弾が次々に投下され、ビャチゴルスクの防衛線を上空から裁断していく。

 そして、パターンの重砲の撃ち合い、戦車は防御陣地が功を奏して中々入って来れない。つまり蹂躙できない。

 自分達は劣勢だが、決定的な敗北はない……ソ連軍がそう思い始めた頃に、”彼ら”は殺意を漲らせ森からやって来た……

 

 

 

***



 

 そして、ソ連軍が重火器の筒先を全て街道から来るドイツ人に向けていたことが災いした。

 いや、一体だれがこの時代に森を抜けて騎兵が攻撃を仕掛けてくると思うだろうか?

 ソ連軍の知識では、時代遅れのコサック騎兵は精々ドイツ人支配領域でのパルチザン掃討か、あるいは斥候や偵察が関の山だったはずだ。

 奇襲攻撃になったとはいえ、正面から正規軍に挑むなど誰も考えて居なかったのだ。

 

 ”土地勘のあるクバン・コサック騎兵による森林突破の浸透戦術”

 

 それがリストの切り札だったのだ。

 それに加え、政治将校はこの地のコサックはとっくに根絶されたと聞いていた。

 だが、現実にコサックは自分達を殺しに来てる……それはまるで過去から蘇った悪夢のような情景だった。

 

 ソ連兵が機関銃を向ける前に短機関銃で撃たれた。

 銃座に馬で駆け抜けながら手榴弾を投げ込まれる。

 戦車の砲塔が旋回しきる前に死角からパンツァーファウストを叩きこまれる。

 まさに乱戦。

 そしてこういう状況では、装備の重さや大きさが仇になることがままにある。

 そして、クバーニ・コサックは弾が切れたら死んだソ連兵の武器を奪い戦いを継続する。

 敵の武器を奪うのも、ロシア人の武器を使うのも慣れた物だった。

 

 そして、この機を見逃すドイツ軍ではない。

 電撃戦、エア・ランド・バトルはそもそもドイツ軍の十八番だ。

 火力の綻びをついて、装甲化された作業車で障害を除去。進軍、そして吶喊。

 お待ちかねの蹂躙劇が始まった。




***




 こうしてビャチゴルスク守備隊は全滅した。

 繰り返すが、語義通りに全滅した。

 ドイツ人は降伏を認めてもよかったが、コサックはそうではなかったのだ。

 頭目であるシュクロを筆頭に、その恨みはあまりに深い。

 コサックを預かったNSRの指揮官もその心情を知っていたからこそ、止められなかったのだ。

 果たして逃げおおせたのは何人いるだろうか?

 唯一の救いは、ソ連にしては珍しく住民を後方……カスピ海の荷下ろし要員として退避させていたので、事実上の民間人の被害が出なかっただろう。

 故に”ビャチゴルスクの戦い”は、こう記される事になる。

 

『ソ連軍は誰一人”降伏することなく”、最後まで戦った』


 と……

 今回の戦死者はざっと15万人ほど。だが、ロシア革命から現在まで、”根絶”されたコサックは、どう少なく見積もっても300万人を下回ることはないだろう。

 怨嗟も憎悪も、まだ当面は消えることはなさそうだ。

 

 

 

 

 

 

 













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