第267話 混迷(?)の戦場と増える捕虜、近衛しゅしょーは頭痛が痛い




 ”オペレーション・イオス”発動から約半月……既に戦いの趨勢は決していた。

 エリニコン国際空港を含む「まともな飛行場」の修復は終わり、もはやギリシャ・イタリア軍の航空勢力は壊滅していた。

 

 いや、正確にはアテネ占領後、続々とイタリア軍のパイロットは飛べるならば”愛機ごと投降”してきたのだ。

 復旧した飛行場が投降機による大渋滞を起こしたという珍事(実はギリシャで日本皇国空軍の行動を最も阻害したイタリアの軍事行動がこれだった)を乗り越え、今やそこには北アフリカやクレタ島で味方からは勇名と信頼を、敵からは恐怖と畏怖を得た対地攻撃機群、


 ・九九式襲撃機

 ・二式襲撃機”屠龍”

 ・零式改対地掃射機

 

 が居並んでいた。

 すでに古兵、信頼と実績の古強者という雰囲気の九九式襲撃機、そして待望の37㎜機関砲を機首に装備して設計通りの火力を発揮できるようになった”屠龍”、そして押しも押されもせぬフライング・ガンシップとして量産が開始された零式改掃射機……

 敵影が消えた空だからこそ、彼らは縦横無尽に飛び回り、存分にその火力を発揮していた。

 

 無論、ELASが奪ったイタリア軍用機もあるのだろうが……多くの方がご存知の通り飛行機とは軍民を問わず滑走路、パイロット、整備員、燃料、保守部品が揃っていなければ、満足に飛べるものではないのだ。

 つまりELASが満足に扱えるような代物ではなかった。

 

 略奪したものには高射砲や対空機関砲もあったが、こちらはそもそもイタリア軍が保有していた元々の弾数が少ない。

 少ないからこそ、皇国海軍や空軍の空襲を容易に許したのだ。

 よしんば弾があったとしても、対空砲撃を当てるには、専門的なノウハウが必要という事を忘れてはならない。

 目視照準だけで空飛ぶ的に当てるというのは、かなり難しいのだ。

 

 KKE、ギリシャ共産党のプロパガンダ作戦は、少なくともギリシャ国内では完全に失敗した。

 追い詰められつつあったELASが起こした先の人質事件などの蛮行が次々と明るみに出て、皮肉な言い方をすれば彼らこそが「人民(王国民)の敵パブリック・エネミー」になってしまったのだ。

 そもそも、ギリシャ王国では共産党はイタリアが侵攻する前から非合法で、イタリア軍相手に抵抗運動するから住民から”容認”されていただけだ。

 これが史実のように王が逃げ出したギリシャで終戦までファシスト勢力と戦い続けたら確固とした支持基盤も作れただろうが、国王は亡命せずに最後に残ったクレタ島に遷都してまで踏ん張り、僅か1年半で帰還(凱旋)したのだ。

 更によくなかったのは、ELASが「まだ国王の民である」というギリシャ王国臣民というアイデンティティが強い状態で、市民に手を出してしまったことだ。元は国外の家系でギリシャ国内の支持基盤が弱いと言っても、王様は王様なのだ。

 そして、これが「ギリシャ国民の安全を確保する」という皇国軍による討伐の大義名分、治安出動のお題目になってしまったのだ。

 

 大人しくイタリア軍の落武者狩りと情報戦ばかりやっていればもう少し違った結果になっていただろうが、全ては後の祭り。

 つまり、KKEもELASも機が熟す前に焦り、安易に暴力主義的な革命に手を伸ばしてしまったのだ。

 

 

 

 また、皇国軍にこの時代ではまだ珍しい非対称戦のエキスパート部隊がそれなりに存在していたことも、運がなかった。

 つまり、ゲリコマ戦術特有の、本来なら正規軍が対応に苦しむ人質や騙し討ちなどの”卑怯な戦術”にも対応されてしまっていた。

 また、ELASが日本皇国とギリシャ王国の連名で「ELASによるテロ活動とその被害の一覧(戦争犯罪としてではないことに留意)」が国連総会に提出され、安全保障理事会により「テロリスト集団として国際社会に認知」された事が地味に大きい。

 つまり、彼らは完全にハーグ陸戦条約やジュネーブ条約の対象から外されていたのだ。

 無論、そこには支持母体のKKEも「テロ支援組織」として記載される。

 

 それに抗議すべきソ連は既に国連から追放されて席はなく、また本国がそれどころでなかった。

 鹵獲されたELASのソ連製武器が、ほぼバルバロッサ作戦以前に製造されたものであることからもそれがわかる。

 

 これらの事象は、「日本皇国軍にほぼ無制限の戦術的フリーハンド」を与えたに等しい。

 極端に言えば、ELASの構成員にハーグ陸戦条約違反のホローポイント弾(ダムダム弾)を使おうと拷問にかけようと、問題にならないということだ。

 そして皇国軍のエグい所は、国際法の慣例に従うという名目の元、「捕縛できた(死体にならなかった)テロリスト」は全てギリシャ王国政府に引き渡すというあたりだ。

 無論、引き渡されたあと、どういう処遇になるのか知った上で。

 万国共通で、テロリストにかける慈悲はない。

 

 

 

***




 ただ、ギリシャにおける戦乱が後半に入った頃に新たな問題が発生した。

 いや、目を反らしていた事実に何らかの形で決着をつけなければならない時が来たと言うべきか?

 

 そう、結果として大量発生した”イタリア人捕虜”だ。

 本来ならギリシャ王国が預かるのが筋という物だが、いかんせん数が多すぎた。

 その数は最終的に負傷者込みで15万人以上まで膨れ上がった。”オペレーション・イオス”発動時、ギリシャに進駐していた部隊が25万人弱であった事を考えれば驚異的な数字だった。

 

 これを国土奪還中のギリシャに投げるのは、いくら何でも負担が大きすぎた。

 加えて、別の意味でリスクがあった。

 ギリシャ人にしてみれば、「勝手な理由で攻め込んできて、都合が悪くなれば命大事に降伏してきた」連中だ。

 そして、親兄弟や友人の仇であるという認識があった。

 「俺の親を殺したこいつが、なぜのうのうと生きているんだ」……まあ、そういう言い分である。

 また、それを煽って暴動を起こそうとするKKEの残党もいるわけで。


 理屈でそれを説明しても、怒りや憎しみ、感情というのは理屈で割り切れるものではない。

 端的に言えば、今のギリシャ王国で「イタリア軍が正規軍人だと理解していても」、ハーグ陸戦条約やジュネーブ条約が守られる可能性は極めて低かった。

 そしてギリシャ王国は、ハーグ陸戦条約もジュネーブ条約も批准国だ。捕虜虐待、虐殺が起きれば当然のようにペナルティが発生する。

 

 

 

 

***

 

 

 

 そんな状況に皇国軍部も幣原特使も頭を抱えていた。

 特に国際協調派の幣原の苦悩は大きい。

 せっかく全土を奪還しても、ギリシャ王国が国際的非難を浴びて将来的に孤立するようになってしまえば、目も当てられない。

 それを嬉々としてやるのが、国籍・民族を問わず赤化マスゴミという物だ。

 これまでの戦績から考えて、イタリア軍の捕虜が大量発生する可能性は考えてなかったわけでは無い。

 敵の補給が立たれた状態で攻め込むのだから、十分に考慮すべき事案だった。

 

 だが、余りにも降伏するテンポが早すぎたのだ。

 本来の計画は、首都アテネを制圧して王の凱旋を宣言し、足場を固めて少しづつ奪還範囲を広げ、その並行作業で捕虜収容所を構築してゆく予定だった。

 だが、知っての通りその目論見は最初から崩れた。

 揚陸したと同時にアテネで発生した、ELASによる武装蜂起だ。

 これで直ちに港と空港を確保し空陸の受け入れ準備を急がせながら、並行して都市の治安回復を行わねばならなくなった。

 早すぎる”ギリシャ内戦”など冗談ではなかった。

 三日ほどでアテネの制圧と鎮圧は終了、治安回復と都市機能インフラの復旧は開始できたが……その間に、アテネ周辺に展開していたイタリア軍人が大量に「降伏を条件に保護・・を求めて」きたのだ。


 そう、日本皇国軍の空爆をきっかけに始まったギリシャ全土での蜂起は、案の定、ヒャッハー!的な意味で世紀末的な色彩を帯びており、ELASの戦闘員だけでなくELASに扇動された市民によるリンチが多発していたのだ。

 もう、この時点でいい訳のきかないハーグ陸戦条約やジュネーブ条約違反である。

 

 ぶっちゃけ、これ以上ギリシャが責を負うような状況を許すわけにはいかなかった。

 皇国軍は大慌てでプレハブ仕立てのイタリア人向け捕虜収容所セーフポイントを空いた土地に設営したが、そこもすぐに満員御礼になるわ、その情報を掴んだELASが(人気取りのために)攻撃を仕掛けようとするわでてんやわんやの大騒ぎだ。

 

『もう”テロとの戦争”とか未来に逝きすぎだっつーの! アカが関わるといつもこうだ。段取りも何もかも滅茶苦茶になっちまうっ!!』


 とは近衛公麿首相の名言(迷言?)だ。

 どうやら大変にご立腹のようである。

 

 

 

 とはいえ、ギリシャの戦争に終わりが見えてきたが、大量の捕虜は残る……

 さて、どうすべきか?

 国際赤十字を通して捕虜のイタリアへの返還は可能だろう。

 だが、イタリアがごねれば、それだけ時間がかかる。

 だが、地中海に残る明確な”日英同盟の敵国”はイタリアだけであり、故に彼らは自分達がいつ攻略対象になるかと警戒している。

 故に捕虜の受け取りを拒否することで、”日本皇国への遅滞戦術・・・・”として使われる懸念があったのだ。

 

 いや、正確にはその兆候……というか、その”疑念”は既に出ていた。

 先のリビア国土回復作戦”地獄の番人作戦(オペレーション・ザバーニーヤ)”で発生したイタリア軍捕虜の帰還事業が終わっておらず、むしろ最近は滞りがちなのだ。

 それを問いただすとイタリア政府からの返答は、

 

 『日英による通商路の封鎖のせいで、国民の生活物資が欠乏しており、捕虜となった将兵を受け入れる余裕がない』

 

 という日英を非難してはいるが、同時に恥も外聞もない代物だった。というか、一種の棄民政策ではないだろうか?

 無論、捕虜を管轄する皇国政府は捕虜自身と赤十字にもイタリアからの書簡の写しを開示し、「日本皇国としては一日も早い捕虜の帰国を望むが、肝心のイタリアから受け取り拒否された」旨を説明した。

 赤十字は啞然とし、捕虜たちは実に憤慨した。「我々は誰の命令で、何のためにリビアまで赴いたと思っていやがるっ!!」と。

 

 

 

 まあ、生活物資の窮乏が本当かどうかかはさておき、これは「同盟や条約など国際的な約束事を遵守する」ことを看板にしている日本皇国にとり、地味に”効く”攻撃になる。

 国民性も気質も含めて可能な限り律儀に条約を守ろうとするから、捕虜を粗雑に扱えないのだ。

 

 そして、何らかの不手際があれば、”捕虜虐待”として嬉々として国際コミンテルンネットワークのマスゴミが”自主的に”騒ぎ始めるだろう。

 日本皇国にとり、それはあまり愉快な気分ではない。

 国内の”ゴミ掃除”はほとんど終わった(つまり、意図的に”反乱分子の受け皿”として残されている部分もある)が、国外はそうも行かない。

 

 あれ? 史実90年代の”湾岸戦争”で、たしかこんな情景があったような……?

 

 

 

***



 

 本当に面倒だった。

 だが、意外なところから手は差し伸べられることになる。

 

「幣原さん、お久しぶりです」


 ギリシャと何かと因縁深い”トルコからの客人”、その名は”東郷とうごう 重徳しげのり”といった。

 日本皇国外務省駐トルコ大使だ。

 そして何故か幣原は、その後輩の顔を見るなり「ギリシャ王への献上品として黄金甲冑を預けられた時」と同じようなチベットスナギツネを思わせる趣深い表情をするのだった。

 具体的には、「また別の面倒事か……」という思考が表情に出ていたとも言う。


(東郷君自体は、別に悪い訳は無いんだがねぇ……)


 果たして、その胸の内とは?


















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