第265話 偉大なりし黄金王の帰還と凱旋




 その宣言は、奪還しとりあえず会見が開ける程度には応急修復が済んだシンタグマ広場(王宮前広場)にて、従軍取材が許された非赤色系各国メディアの前にて、その宣言は行われた。

 

「民よ! 朕は東方の偉大なる盟友を連れ、再びこの地に帰ってきたっ!!」


 その雄姿は、”まるで神話の1シーンを再現するような……まるで太古の英雄のようだった”とある記者の手記に書き残されている。

 クレタ島より付き従う正装の兵たちを背後に、エーゲ海の陽光に輝く曇りなき黄金の甲冑を身にまとい、国紋をあしらったマントを羽織る……その意味を勘違いあるいは曲解するバカアカは、招待された記者にはいなかった。

 

 ”黄金王の凱旋宣言”


 そう呼ばれたラジオ演説から翌日、”光り輝く黄金甲冑姿で勇ましく凱旋を飾る王様”のカラー写真・・・・・を一面に掲載した号外が、ギリシャ全域に配布された。

 言葉よりも雄弁に、”誰がギリシャの君主なのか?”を示すショットだった。

 無論、その号外には「住民の為に仮設住宅の設営を行ったり、治療行為や炊き出しを行う皇国軍」の姿が写真と詳細な解説で併載され、また「アテネ市外で起きた真実」、つまりは「何故、自称・・市民が皇国軍に射殺されたのか?」も同時にだ。

 

 カウンターインテリジェンスとして、実に上手いやり方だった。

 ギリシャ共産党(KKE)やその軍事部門であるギリシャ人民解放軍(ELAS)を感情的に糾弾するだけでなく、「彼らがギリシャ王国・・における重篤な違法行為」を行ったから処罰されたことを淡々と、かつ明朗に、分かりやすい表現でラジオと新聞、雑誌などのこの時代のメディミックスを用いて繰り返し報じられたのだ。

 

 

 

 これはKKEやELASにとり、たまったものではなかった。

 イタリア軍の侵攻からこっち、ようやく抵抗運動パルチザンとして名が売れ国民に認知されてきたのに、いきなりテロリストの犯罪者呼ばわりされ、急速に民衆の支持を失ってしまったのだ。逆に中途半端な知名度が仇となった結果である。

 こうまで日本皇国が仕掛けた情報戦が”ハマった”のは、無論理由がある。

 大きな理由は、史実と異なる下記の2点。

 

 ・王国は完全に陥落しておらず、クレタ島のイラクリオンに遷都したとしても、そこで国王グレゴリウスⅡ世は亡命せずに踏ん張っていた。

 ・イタリアのギリシャ侵攻により首都アテネが陥落したのは1941年の春であり、まだ1年半しか立っていなかった

 

 つまり、「逃げ出さず、クレタ島で耐える国王」と「首都陥落からまだ日が浅い」という二つの要因から、共産パルチザンが確固たる民衆支持を築く暇がなく、逆に王の帰還を望むギリシャ国民が大半だったという状況だったのだ。

 

 また、本土奪還作戦に参加した外国勢力が、日本皇国のみ・・というのが、実に都合が良かった。

 同盟国である英国は、実は20世紀だけでも二度、ギリシャ国民の期待と信頼を裏切ってるのだ。

 一つは、希土戦争ではギリシャを煽ったのに戦争を途中で放り出した。

 もう一つは先のイタリアによる侵攻で、援軍にきたドイツ人にボロ負けして慌ててギリシャから逃げ出した。

 まあ、要するに「損切り」に遠慮がない”いつものイギリス”だ。

 

 だが、その時に救ってくれたのは両方とも日本皇国だったのだ。

 希土戦争では、困難な戦後処理を担当し、ギリシャトルコに禍根を残さない軟着陸をさせた。(通商条約も締結できた。実際、この時代の日本で消費されるオリーブオイルとグレープシードオイルは、ほとんどギリシャ産だった)

 王がクレタ島で頑張れたのは、堅守の名将”ジェネラル・クリバヤシ”率いる皇国軍の奮戦があったことは、ギリシャ人なら誰もが知っていた。(正確には、英国人の置き土産である地下情報網が一斉にばら撒いた)

 

 そして、日本皇国がギリシャ王国の本土奪還を明言し、ドクトリンとして掲げていたことをクレタ島からのラジオ放送で、ギリシャ国民は知っていたのだ。

 そして、ギリシャ人は「イギリス人には無理でも、日本人なら絶対にやる」と確信していた。

 王の期待が重いのであれば、その臣民の期待が軽い訳はなかった。

 そして、実際にやり遂げてみせた。二度あることは三度あったのだ。

 もう少し言ってしまうと、ギリシャ本土奪還作戦”オペレーション・イオス”の発動は、ギリシャ国民が考えていたよりずっと早かったこともかなり大きい(多くの国民は数年先だと思っていたらしい)

 

 

 

***




 かくて約束は果たされ、王は凱旋しアテネに平和でなくとも平穏と称してよい日々が戻った。

 また、情報戦は継続され、「アテネの市街戦で皇国軍により射殺された”自称市民・・・・”」の身元が、罪状入りでリスト化され一斉公開された。

 見事なまでに共産党や共産パルチザンの関係者ばかりであった(というか、そういうのしか公開していないが)

 また、マスコミに王が必ず公の場に現れる時、必ず黄金甲冑であることを記者に問われた時は、

 

『これは盟友から戦装束として贈られた物。言うなれば朕の覚悟を問われた装束よ。であるならば、ギリシャ全土に平和が戻るその日まで、纏い続けることで盟友に覚悟を示すまで』


 その相変わらずの重量感・・・のあるコメントはギリシャ全土、いやアドミラル・オザワの「海軍陸戦隊に通達! 治安出動における重要事項は、市民の安全の確保! よいか! 王国民の命を無駄に散らせてはならぬぞっ!!」の発言と共に世界中へプロパガンダとして流された。

 ちなみにその事実を知った小沢又三郎は、しばらく引きこもりたくなったらしい。実際には職務優先で出来なかったが……ああ、哀しき日本人のサガよ。

 更に王の口撃・・は続く。

 

君主殺し・・・・の共産主義を王国である以上、認めることはできぬのが道理。されど共産主義がいかに度し難いと言えども、一度染みついた思想を捨てよとは言わぬ。故に思想を捨てられぬのなら、何処へ立ち去ろうと止めはせぬ。罪にも問わぬ。朕は寛容をみせよう』


 寛容と言いつつ、「共産主義者は国外追放処分な」という宣言だった。裁判なしで問答無用に処刑しない分、寛容と言える類の宣言だ。

 非共産の国民には「王の寛容」と映ったかもしれないが、「ギリシャの共産化」を狙ってるKKEやELASにとり、それは完全に挑発であった。

 そして、アカお得意の「人民の海に隠れる」という手段を封じられた共産主義者は、次第にギリシャで追い詰められて行くことになった。

 















************************************















 ギリシャ内戦は激化する……と思われたが、事態はまたしても妙な方向へと動き出す。

 王の発言に感化された国王派、右派国民の過激分子が猟銃や農機具で、共産党員や共産民兵を襲撃して、当局に(死体も含め)突き出してくるという事例が多発したのだ。

 何とも血の気の多い話ではあるが……それだけならまだしも、武装が整っているELASに返り討ちに合い、村ごと凄惨な目に合うという事例も出てきた。

 

 日本皇国としては冗談ではなかった。

 普通の住民が武装してテロリスト襲撃するなんて、日本皇国では論外、襲った方も本来なら無罪放免とはいかないが……現場は生憎とギリシャだ。

 グレゴリウスⅡ世も、「国王の為に」と言われれば強くは出れまい。

 無論、日本政府もギリシャ政府も「情報提供タレコミだけで十分です。危険ですので、決して自分で手を出そうとしないでください」と呼びかけているのだが……

 だが、日増しに「左右のギリシャ国民同士の武力抗争」は激化の一途を辿り、不気味なほど5万人以上の死者を出した”史実のギリシャ内戦”の様相に近づきつつあった。

 

 

 

「こうなりゃ、本腰入れて一気呵成にやるしかねえか……褌締めなおさんとな」

 

 治安回復の目標を達成するためには、他に手はなさそうだった。

 ギリシャにおける皇国軍の戦いは、新たな局面に入る……日本皇国首相、近衛公麿はそう気を引き締めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 







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