第264話 ”エマージェンシー・スペシャルシフト”、そして……




 さて、なんのかんのあったが、ギリシャ王国首都アテネ市の制圧と平定は、都合3日ほどで終わった。

 まあ、火力に物を言わせ駆逐しつくしたとも言えるが。

 幸いなことイタリア軍もギリシャ人民解放軍(ELAS)も比較的軽装備だったために街自体へのダメージという意味では、戦いの規模から考えれば軽微だった。


 だが、市民はそうはいかない。

 いくら街やインフラの被害が軽微だったとはいえ、焼け出された住人はいるし、損害を受けたインフラはある。

 イタリア軍とELASの戦闘に巻き込まれ、死傷した住人だって少なくない。

 イタリア軍に占領され、またELASに襲撃され心に深い傷を負った住民のメンタルケアも必要だった。

 

 故に地中海艦隊に護られながら確保したアテネ港に入ってきた輸送船に最初に乗っていた陸軍部隊は、工兵隊と衛生隊(医療チーム)、並びに炊き出し要員にもなる護衛の普通科連隊だった。

 

 工兵隊は、都市生活インフラの復旧と最優先の飲料水の確保と配給、そして焼きだされた住民の為のテント村、そして資材が搬入され次第の仮設住宅の設営。

 衛生隊は当然のように負傷した住民の治療と無料診療、遺体の処理を含めた衛生面からの防疫を担当した。

 また、この時代では珍しいことに住民に対するメンタルケア相談所も併設された。これは皇国軍が世界的にも稀な(時代背景を考えれば更に稀な)メンタルケアの専門部署があったことに起因する、転生者達の暗躍っぷりが良く分かる事例だった。

 はっきり言えば、それを併設する理由になるだけの無視できない数の暴行、婦女暴行件数が報告されていた。

 

 きっとその様子を読者諸兄が見れば、『災害出動した自衛隊のようだ』と発言するだろう。

 実際、自然災害が多い日本の風土にかこつけて、特に近代以降の歴代”転生重鎮”たちが、軍事組織を「軍としての体裁と戦力を保つ」ようにしながら、「自然災害という人間が打ち勝つにはあまりに巨大な相手」に対処する能力を持つように注力を重ねたからだ。

 古今東西を問わず、人間にとって最大の脅威は自然だ。東日本大震災を防止できる科学力なんぞ21世紀でも持ち合わせてはいない。できるのは、「起きてしまった災害」に対する事後処理をどう行うかだろう。

 であるからこそ、関東大震災をはじめとするこれまでの多くの災害で皇国軍は災害出動した実績とノウハウがあった。

 また、住民からの純粋な感謝は、彼らの軍人としての矜持や自尊心を大いに満足させた。

 そして、それら数々の経験から(特に関東大震災が契機となり、)

 

 ”緊急事態における災害復興特別編成エマージェンシー・スペシャルシフト


 という概念が生まれた。

 世界的に例を見ない「災害出動の為の特別編成」だ。

 そして、今回はそれがアテネに適応されたのだ。

 戦争は人災だが、戦災も災害は災害という名目である。

 

 つまり、皇国軍首脳部は、イタリア軍とELASによる内戦の勃発という異例の事態を鑑み、ギリシャ王国全土の奪還より、まず首都アテネの街と人のケアを優先したのだ。

 これが後に大きな意味を持つことになる……

 

 

 

 

 

 

 













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 案の定というのもアレだが、やはり武力では皇国軍と相対できないと考えたギリシャ共産党(KKE)は、搦め手……

 

 ”あの優しかった日本人はもういない”

 

 と銘打って、「日本皇国軍の市民虐殺」を大々的にアピールしたネガティブキャンペーンを打って出た。

 無論、この場合の市民とはELASやKKEの構成員の事である。

 自分のやった行為を棚に上げるのは、国籍や民族を問わず左翼全般の十八番だ。

 彼らは常に「悪いのは俺じゃない。俺以外の誰かだ」と声高に主張する。まあ、アカとはそういう習性なのだろう。

 

 実は、この世界線における日本皇国とギリシャとの友誼は割と深い。

 あまり詳細を描くと長くなり過ぎるし、本筋から外れるので比較的近年の一例に留めるが……

 

 例えば、史実通り1919年から1922年まで続いた”希土戦争”。

 ギリシャを旧オスマントルコに攻め込むように煽ったのはイギリスだが、イギリスが放り投げたその戦争の尻拭いに走ったのが日本皇国だった。

 つまり、いつものことだ。

 史実でも日本は”ローザンヌ条約”などに名を連ねたが、この世界線では介入レベルが違っていた。


 トルコは何度か出てきたようにこの世界線でも起きてしまった”エルトゥールル号事件”以来の親日国だが、第一次世界大戦では陣営の関係から敵対しても、「トルコ軍は降伏するなら日本軍に」となり、その希望に応えるべく日本軍はトルコの降伏将兵を「捕虜ではなく友好国のゲスト」として丁重に扱った。

 いわゆる西ユーラシア版の「バルトの楽園」だ。

 戦後、元トルコ捕虜たちは日本将兵の思い出と共に帰国した。微妙に捕虜になる前より太った将兵も多かったとか。

 また戦後、日本に食い倒れグルメツアーにくるトルコ人の姿をちらほら見かけるようになったとか。

 そのような経緯もあり、希土戦争の停戦仲介役として白羽の矢が立った(英国より戦後処理を丸投げされた)のが、日本皇国だったという訳だ。

 




 さて、肝心のギリシャのトピックだ。

 第一次世界大戦後に起きた”希土戦争”にまつわる日本とギリシャの関係を話すのであれば、”イズミル攻防戦”を無視しては何も語れないだろう。

 この戦争において、トルコの都市イズミルはギリシャ軍が占領した。

 だが、やがてイズミルはトルコに包囲されてしまう。そこには軍人だけでなくギリシャ系の民間人も多くいたのだ。

 そこで動いたのが”東慶丸(とうけいまる)”という日本の商船・・だ。

 彼らは積荷を投棄し、トルコ側による難民への手出しを牽制したりしながら約800人のアルメニア人やギリシャ人らを救出しギリシャへと渡ったという、日本人のほとんどが知らず、ギリシャ人の多くが知る”史実・・”だ。

 

 また史実でも1923年に行われた”領土返還と住民の交換”は、日本皇国が双方の仲介に入りとてもスムーズに行われたとだけ書いておく。

 トルコ、ギリシャ両国ともにある程度の妥協点を探りだした日本皇国は、この戦争が”後腐れ”にならぬよう、両国にそれぞれ”二国間・・・通商修好条約”を持ち掛けた。

 まあ、このおかげで日本ではギリシャ産のオリーブオイルやグレープシードオイル、ギリシャワイン、トルコ産のヘーゼルナッツ加工品が手軽に手に入るようになったが。

 

 これ以上、エーゲ海で面倒事が起こらないようにする(事態の収拾を押し付けた英国への圧力と抗議を兼ねた)苦肉の策だった。

 軍事同盟でも安全保障条約でもないあたり、日本皇国も一線を引いてるが、逆に言えばこれが皇国ができる妥協点だった。

 無論、これは再び何らかの理由でギリシャとトルコの関係が悪化すれば、皇国が板挟みになる危険性を孕んでいたが……まあ、それは「事情を書き残しておけば、その時の政権が何とかするだろう」という魂胆が見え見えだった。

 そう、日本人の得意技「問題の先送り」である。

 

 そして運悪く、時を越えて政権の継承者としてそれを解決する羽目になったのが、現在の近衛政権 feat 挙国一致内閣という訳である。

 別にギリシャとトルコの関係が悪化したわけでは無いが、ギリシャを含むバルカン半島情勢がひたすら面倒だった。

 そんな中で始まった、国際コミンテルンネットワークも巻き込んだネガティブキャンペーン……しかし、それを待ったようにギリシャの全てのラジオ周波数で、

 

 

 

『民よ! 朕は東方の偉大なる盟友を連れ、再びこの地に帰ってきたっ!!』

 

 ギリシャ国王グレゴリウスⅡ世の凱旋宣言が、フルボリュームで響き渡ったのだ!!
















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