第235話 ”King of Iron Fist”の肖像(幼少期~士官学校)




 さて、再び今上英国王”リチャードⅣ世”を描く機会に恵まれたことを、神に感謝を。

 実際、この男、絶対に彼らの信じる神とは別神べつじんの「神と分類できる」何かの恩恵や恩寵を受けていそうだが……

 

 さて、史実のエドワードⅧ世は若い頃に英国王立海軍兵学校で士官教育を受けたのだが、その時に壮絶な”イジメ”を受けている。

 エドワードが必要以上に頻繁に鉄拳制裁を受けていることを訝しがり、校長が上級生達を説いただしたところ、イジメは真実でありリンチした理由というのも、

 

  ”自分が将来艦長になったとき部下に「自分はかつてキングを蹴ったことがある」と自慢したかったから”


 という実にくだらない物だった。

 そして、リチャードⅣ世、今生で同じ経験をしたのだが……

 因縁つけてきた上級生を、全て”返り討ち”にした。より正確に言えば、二度と英国海軍軍人を目指すなんて寝言が言えない体にした。

 

 拳や蹴りで顎や肋骨を砕き、内臓を破裂させた。あるいは投げ技で頭から落として動けなくなったところを踏みつけて手足を圧し折り、あるいは二度と陰茎を使い物にできなくした。

 まさに死人が出なかったのが不思議なくらいの凄惨な現場だったという。

 問題にはなった。なったが……誰が、「王子が上級生達に集団リンチに合いそうになり、自衛のために集団に私刑リンチし返り討ちにした」と聞いて責められようか?

 

 まあ、これには種も仕掛けもある。

 まず、リチャード自身がとても体格が良かったこと、何より彼の趣味が”古典的英国式ボクシング”だった事だ。

 注意して欲しいのは、リチャードが「護身術」と称して学んだのは、安全を配慮させ厳格なルールの元に拳だけで殴り合う”現代ボクシング”ではなく、クインズベリー公爵ルールの制定以前の”それ”。

 それどころか、ロンドン・プライズリング・ルールズ以前の、一応”近代ボクシング”に分類されているが、ほとんどパンクラチオンやバーリトゥードじみた総合格闘技時代、試合で死人がバンバン出ていた18世紀の”ブロートン・コード(明文化された最古のボクシング・ルール)”の頃のそれだ。


 現代でこそボクシングはアメリカが本場のように思われているが、少なくとも近代ボクシングの発祥は英国なのだ。

 故にリチャードⅣ世が生まれた19世紀末(誕生日はエドワードⅧ世と同じ1894年6月23日)や少年期の20世紀初頭には、まだまだ古典的複合格闘スタイル・ボクシングの担い手は残っていた。

 リチャード王子は、物心ついてすぐに自己トレーニングをはじめ、また、この”古い時代の野蛮な拳闘士オールド・グラップラー”達の末裔を招き、講師として雇ったのだ。

 



 また、それだけに飽き足らず、ボルネオやインドが英連邦なのを最大限に活用し、インドネシアからインドシナ半島にかけての伝統武術の”シラット”や、同じくインドの伝統武術”カラリパヤット”の達人を高額の報酬で呼び寄せたりもした。

 

 だが、ここで奇妙な話がある。

 例えば、シラット。当時、インドネシアは英領ボルネオを除き蘭領東インドで、反乱を恐れたオランダはシラットを全面的に禁じた為にその継承は秘密裏に行なわれていた。

 また、カラリパヤットではあるが、厳密にはヒンドゥー教の間で修行・修練の一環として行われ、瞑想なども含まれる”ワダッカン(北派)”と、実戦的な無手格闘術として進化してきた”テッカン(南派)”に分かれる。

 このあたり、なんとなく北斗と南斗の拳法を彷彿させるが……王子がマハラジャを通して指名したのは、当然のように後者の”テッカン”の達人であった。

 だが、上記から分かるようにシラットもカラリパヤットも、とてもメジャーな格闘術とはいえず、西洋では当時はまだほとんど知名度はなく、ましてや王族が知っているなど有り得ない事だった。

 だが、リチャード王子はあまりにも的確に人材を集めていた。

 

 そして、その武闘家達のトレーニングで、王子は驚くほどの速さ……スポンジが水を吸収するように技術を吸収していった。

 もし、現代人の貴方がその様子を見たのであれば、


『まるでシステマ(ロシアの軍隊格闘術)やクラヴ・マガ(イスラエルの軍隊格闘術)なんかのマーシャルアーツの経験があるみたいな動きだな……』


 と思ったことだろう。無論、どちらもまだこの時代にはない。

 実際、王子が最も高い適性を見せたのはシラットだった。

 また興味深いことに王子が重視したのは。

 

 ”1対多数の格闘術”


 だ。リチャード曰く、

 

『余を襲おうとする輩が、単独で来るものか』


 事実ではあるが、王子の発想ではない。

 奇妙な点はほかにもある。

 

 例えば、彼が王家の嗜みとして行う狩猟で携行するハンティング・ナイフはグルカナイフ(ククリナイフ)だ。

 厳密に言えば、この”くの字型に湾曲した大型ナイフ”の名ははククリであり、「19世紀に発生したセポイの乱において、グルカ朝(現在のネパール)の兵士が、ククリを携え激しい白兵戦を行ったことに注目したイギリスが、彼らを傭兵として雇った」という故事来歴から英語圏ではグルカナイフとして知られるようになった。

 以上の経緯から、セポイの乱の当事国である英国においては知る人ぞ知るナイフではあるが、少なくとも王子が腰に下げる様な短剣ではない。

 それどころか、この王子、サブナイフとしてシラットの伝統的ナイフであるカランビットをフォールディング・ナイフとして特注して携行しているらしい。

 

 いや、この狩猟自体もちょっと疑問符が付くのだ。

 確かに英国王国貴族の嗜みであり、史実のエドワードⅧ世もたしなんでいた。

 ただ、普通はジェームス・パーディやホーランド&ホーランドなどの王家ご用達のガンスミスによる豪華なエングレーブなどが入ったオーダーメイドのショットガンやライフルを使うのが常だ。

 しかし、リチャード王子が好んだのは、一般兵にも支給されていたリー・エンフィールド・ライフル(Magazine Lee-Enfield)であり、彼用にカスタムしてある部分があるとすれば、スコープとバイポットを装着し、細部を調整したくらいだ。

 いや、体格に合わせてストック末尾の肩当部分チークパッドを調整できるようにしてあるので、どことなく”L42A1狙撃銃”の直接のご先祖様というような風情がある。

 ただ、特に”やたらと固い”とされていた弾倉マガジンの脱着に関しては徹底的に手が入れられ、スムーズに弾倉交換が出来る様になっていた。

 因みにリー・エンフィールド小銃は繫盛な弾倉の脱着を意図して作られていたわけでは無く、装填はマウザー小銃のようにボルトを開いて装弾子クリップによって装填するようにデザインされていたが、王子によれば「スコープを付ける関係上、銃の上部からの装弾では都合が悪い」という事だった。

 ただ、この「リー・エンフィールドでマガジンチェンジを素早く行える改造」は英陸軍では重要視されなかったが、同盟国の日本皇国では”梨園改三式歩兵銃”に取り入れられ、結果として速射性を向上させたという逸話がある。

 加えて、彼は拳銃による”小害獣狩り(バーミント・ハンティング)”も好んだという。

 

 リチャードⅣ世の愛銃は、「ボーア戦争モデル」としても知られる”ウェブリー・リボルバーMkIV”だが、わざわざ特注でローズウッド&ラバーのパックマイヤータイプのグリップを作らせたり、また後年に登場したものと遜色のないスピードロッダーを作成したりと、相当に気に入ってたようだ。

 

 ただ、ちょっと絵面を想像してみて欲しい。

 同年代の子供に比べて確かに体格ははっきりと勝っているが、10歳そこそこの少年が軍用狙撃銃モドキを背負って腰に大型軍用リボルバーとグルカナイフを下げ、ポケットに折り畳み式のカランビットをしこんでハンティングと称して出かけるのだ。

 

 これはもう、ハンティングの前に”マンMAN”という単語が付きそうな、服装が伝統的な英国貴族風のハリスツイードのハンティングジャケットじゃなく野戦服であれば、そのまま戦場に行けそうな装備である。

 護身術と称して習う格闘術も、狩猟と称して行う射撃訓練も、何というか……”戦闘訓練・・・・”と総称して良いのではないだろうか?

 

 

 

***




 無論、これらの行動は英国王族としても破天荒もいいとこ、むしろ異端ですらあった。

 だが、時代が良かったのだろう。

 当時は覇権主義華やかかりし時代、大英帝国の黄金期の残り火がまだまだ燻っていた頃だ。

 つまりは何かと武力が物を言う時代だ。

 そういう時代背景の中であれば、国情的に”尚武の気風”が許容されるのも頷けなくはない。

 また、彼は座学やらダンスやらの”王族の嗜み”教育をおざなりにしていた訳ではなく、きっちり受けきった上でフィールドワーク・オウトドアの”教練”に時間を割いていたことも評価される一因であろう。

 現代的に言うなら、”知的マッチョ”という感じかもしれない。

 

 

 冒頭のエピソードに戻るが……リチャードはこう語っている。

 


『殺すつもりなら、手足を折った後に海に放り込んでやった。ただ、あのような下衆ゲスが英国王立海軍の士官を名乗るなど国辱以外何物でもないからな。故に余が自らその道を閉ざしただけのことだ』


 実際、このように騒動でも問題にはならなかった。

 むしろ、非好意的な週刊誌などからプリンス・オブ・ウェールズをもじって”蛮族の皇太子(プリンス・オブ・バーバリアン)”などと呼ばれるリチャードならさもありなんと納得したほどだ。

 

 また、その現場を目撃した数名がトラウマとなったが、敵砲弾が飛び込んでくればさっきまで下品な冗談を言い合っていた同僚が肉片になるのが、海軍軍人という物だ。

 それで職務に耐えられないというのなら、そもそもが王立海軍軍人としての適性が無かった、それが早めに判明して本人の為にもなったと放校処分となったくらいだ。

 

 だが、全く問題がなかったかと言えば、そういうわけでもなく、上級生、下級生、同級生を問わずリチャードを”触れてはならない者アンタッチャブル”と呼ばれ必要以上に畏怖するように……顔色を窺うようになった。

 

 これでは授業にも訓練にもならないと溜息を突いたリチャードは、

 

『我が海軍は、私掠船の気風を時代の中に置き忘れてきたようだな。英国貴族など、もとをただせば海賊ばかりだというのに、実に嘆かわしい』

 

 というコメントと共に、当時はウーリッジにあった王立陸軍士官学校へと河岸かしを変えた。

 そして、よほど陸軍と相性が良かったのか、やがてサンドハーストにあった王立陸軍大学へと進み、第一次世界大戦へと挑むことになるのだった……

 

 

 

 













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