第211話 火に油を注ぐ(状況)、炎にナパームを落とす(物理)
「いよいよ出撃であるか? ガーデルマン!」
「のようですね。どうやら、
「重畳! どうやら、敵の砲撃も随分と大人しくなってきたようであるな」
なんか今にも某幼女理事長やロシア代表な生徒会長みたいに”文字が浮き出る扇子(無論、この世界線にそんなオーパーツは存在しない。しないったらしない)”を取り出しそうなルーデルに、
「いや、大尉殿。お願いですから、重砲が降り注ぐど真ん中を突っ切って出撃しようとしないでくださいよ」
史実である。
オリジナルのルーデルは、「敵に包囲され砲弾が降り注ぐ飛行場」から出撃して、敵を撃破した記録が残っている。
「ふう。どうやら敵は、
「そりゃあ本来は散発的にしか撃てないはずの列車砲を、ああもドカスカ撃ち込まれたら恐慌状態にもなりますって」
そして、ルーデル達”スツーカ隊”に下った命令も、一風変わったものだった。
「それにしても、”
「あー、それですか」
ガーデルマンは少し考え、
「ハインリツィ司令は、少しでも同士討ちを長引かせたいんだと思いますよ? どちらかが一方的だと直ぐに終わってしまいますし」
「なるほどな。納得だ!」
そうルーデルは、ガトーヴォイスでニカッと笑った。
***
「ハンニバル・ルーデル、推して参るっ!!」
「大尉、一々口上あげなくても良いですから」
まあ、とりあえずアカを爆撃できれば文句はないルーデル。
ガーデルマンのツッコミと共に、鈴なりにJu87Eに懸架されていた数発のナパーム弾が解き放たれ、自由落下を始める。
なんの皮肉か、その爆弾の形状は史実でドイツ空爆に使われた米軍のM19タイプ、ナパームジェルを充填した36発の焼夷弾を収納したクラスター焼夷弾に性能も外見も酷似していた。
これは、「くれぐれも敵の防空火線の中に突っ込むな。特にルーデル、良いな?」と念を押された結果こうなったもので、命中精度をさほど気にしなくて良い(そもそも戦略爆撃機用装備だし)ので、急降下爆撃ではなく緩降下の
つまり少々、ルーデル的には物足りない爆撃行であった。
そもそも、牽引式の大砲は射撃して即座に移動というのが困難な兵器だ。だからこそ、自走砲という兵器が生まれたのだ。
故に同志撃ちしてる最中に、半ば奇襲めいた面制圧兵器の集中投下など喰らったらひとたまりもない。
「ガーデルマン、地上掃射とかはいらんのか?」
「いらんでしょう。というか、どこを掃射するんです? 地上は火炎地獄ですよ?」
1.5tのクラスター焼夷弾を搭載した12機の腕利きが操るスツーカが、砲兵陣地とその取り巻きに一斉投弾したのだ。
しかも集束爆弾なんて面制圧目的の確率兵器なのに、腕っこきが落としたものだから無駄に有効命中弾が多い。
下に居た赤色重砲隊も護衛の防空隊もそりゃあ見事に生体松明になっていた。
「うーむ」
ガーデルマンを怒らせるとロクなことにならないのは経験上、熟知していたので、ルーデルは大人しく機首を基地方向へと向ける。
この世で空を飛ぶ方の
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ソ連側で言えば”第二次スモレンスク攻略戦”は、一部とは言えない最前線の兵たちの造反により瓦解しつつあった。
無論、その様子はばっちりと地上から上空から、銀塩カメラとムービーカメラで撮影されていた。
ドイツの光学技術は、世界一ィィィィッ!!なのである。
ドイツ軍は、まず督戦隊やその指揮下で秩序を保って”味方撃ち”を行っている部隊を可能な限り識別して優先的に叩いた。
それが、このスモレンスクの”外側”で展開されてる混淆状態に拍車をかけているのだ。
スモレンスク近辺上空には”赤い星”を付けた航空機は既になく、スモレンスク航空戦の幕は既に閉じていた事を示していた。
そして今、スモレンスクに張り巡らされた最後の罠が閉じようとしていた……
「戦車だ……ドイツ人の戦車が来るぞっ! 大地を埋め尽くす凄い数だっ!!」
「ひえぇぇぇっ!?」
どうやら赤い星の軍人たちはスモレンスクに執心するばかり存在を忘れていたようだが、ドイツ中央軍集団にはベラルーシに展開したソ連軍を叩きのめした”機甲戦の達人”がいたのだ。
”パンツアー・クライスト”の異名を持つ、ロンメルやグデーリアンに並ぶ機甲戦の名指揮官、”エーデルハルト・フォン・クライスト”上級大将だ。
その彼が、これほどの戦いで大人しくしている訳もなく……1個増強機甲擲弾兵軍団(機甲擲弾兵軍団=火力増強機甲軍団)、選び抜いた精鋭10万超を引き連れ、集結地であるベラルーシのリオスからルドニャを経由し、迂回戦術を取りつつソ連重砲隊後方に回り込んでいたのだ。
そして、現在は半包囲陣形でソ連を後方から圧迫していた。
そして、彼らには十分な航空支援があり、火力支援は口径は大きくないが牽引式の機動砲やより進化した自走砲があり、何よりT-34を正面からアウトレンジで撃破できる長砲身型のIV号戦車があった。
また、全ての戦車は無線機で連携でき、それを統括する英国の
半包囲にしているのはわざとであり、”モスクワ方面へ”なら
残存赤軍の死兵化を嫌う、クライストらしい堅実な攻勢だった。
そして、逆にモスクワ方面以外に逃げようとしても、一縷の隙もない布陣でそう簡単に突破できない。
おまけに増援でドイツ式完全編成の4個旅団ほどの機甲予備が随伴しているのだ。
無論、モスクワ方面へ撤退し出したら容赦なく追撃戦を行う。
さて、ここで問題だ。
果して、同士討ち(ルーデル曰く”同志撃ち”)を始めたソ連軍……特に督戦隊に砲口を向けた兵士が、果してモスクワに戻れるだろうか?
それとも、ドイツ人と勝ち目のない殺し合いを演じるだろうか?
つまり……
もはや、統制が失われた赤軍には、どう足搔いても勝ち目はなかったのだ。
「
クライストのこの命令が、この戦いの終焉を示す号令となったのであった。
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その後のグダグダになってしまった戦いを描いても、むしろ興醒めという物。
なので、結果だけを記しておこうと思う。
約102万のソ連スモレンスク攻略軍のうち、”
先の戦いの倍以上だ。
そして、特筆すべきは負傷者の少なさと降伏者の多さだった。
これの最大の理由は、多くの負傷者が奇襲効果を生んだパンツアー・クライスト・ファイナル・アタックに慌てたソ連軍に捨て置かれ、そのまま死亡したからだということだ。
実際、死因の多くは失血死と感染症だった。
彼らの多くはスモレンスクの防衛網の内側で倒れていた訳ではない。
ドイツが戦地の全体検分に入ったのは、スモレンスク防衛戦の後始末を一通り終えた戦闘終了宣言から翌々日以降だ。
また、撤退時に最優先で後方へ搬送されたのは、あえて濁した言い方をすれば”都市部のロシア人”だった。無論、階級の高い方から順にだ。
悲劇なのは自分達を置いて撤退する戦車や戦闘車両に慌てて飛び乗ろうとして引き潰された歩兵(デサント兵含む)もかなりの数が出たという事だった。
また、捨て置かれたロシア人の負傷者(負傷者に限らず置いて行かれたロシア人全般)は、中央アジア系赤軍兵士の”制裁”により始末されるケースが多発した。そして、捨て置かれたロシア人もただで殺されてなるものかと反撃したようだ。
ただし、結果は多勢に無勢とだけ記しておく。
以上の結果、負傷者が非常に少ないのだ。
私刑による制裁の犠牲者は、ドイツは
だが、通説ではドイツ人が殺したのは、多くてもその2/3程度(半分という説もある)とされている。
残る1/3、16万人以上は同士討ちで死んだというのだ。
そして、上記の条件が重なり同時に18万人強が投降した。言うまでもなく大半が非ロシア系だった。
その捕虜の多さにハインリツィ・スモレンスク指令は眩暈を感じ、とりあえず中央軍集団総司令官のホト元帥に丸投げ……もとい。判断を任せた。
いずれにせよ、約20万人の捕虜を収容する施設も、供給する食料もスモレンスクにはないのだ。
投げられたホトもほとほと困り果てたが、何度も世話になったトート機関ならびにリガ・ミリティアがやってきて(ヒトラー総統とフォン・クルス総督が号令を発していた)、仮設の捕虜収容所をベラルーシに設営すると同時に、捕虜が飢えない程度の食料を供給する約束をしたのだ。
明確な理由説明もあった。
後に(夏ごろに)派遣される予定の、多国籍”カティンの森”調査団に、彼らが「何処から、どうやって連れてこられたのか?」を証言させて欲しいとの事だった。
またしても面倒ごとにして厄介ごとをねじ込まれたホトは卒倒したくなったが、そうしたところで事態が改善する訳ではないので粛々と作業してゆく覚悟を決めた。
また、この時に大量の鹵獲兵器が発生した。
特にドイツ人が喜んだのは、履帯式大型重砲の”B-4/203mm榴弾砲”をかなりまとまった数を入手できた事だ。
どうやら大きく重すぎて撤退させるのを諦め、鹵獲される前に破壊しようにもクライスト軍団が攻めてきたので、そんな暇も無かったようだ。
ただし他の大型重砲は、投入された数の少なさも相まって殆どがドイツ人の砲撃、ないし爆撃で破壊されてしまっていた。
ちなみにレアな”Br-2M/152mmカノン砲”を燃やした1人がルーデルで、あの時の前話のナパームの落とし先だった。
この時、鹵獲されたT-34戦車の大半は、ウクライナ国防軍の手に渡ったとされる。
ベラルーシは、治安の問題や潜在的ではなく表面化している程に根強い親ソ勢力の為に、未だ国軍ではなく警察権を持つ治安部隊、”警察予備隊”までしか持たせられないでいた。
ソ連がベラルーシで行った、証拠もある”粛清と悪行三昧の日々”を公開しても、未だに共産パルチザンに手を貸す者が後を絶たないのだからたまったものではなかった。
ユーゴスラヴィアとチトー、イタリアとムソリーニを放置すると決定した今生のドイツにとり、今や数少ない”目に見える火種”が政情不安定の東ポーランドとベラルーシだった。
東ポーランド(旧ソ連支配地域)は亡命し英国にとどまっていた旧ポーランド政府と和解できれば(そのための”カティンの森”の保護だったわけだし)、いずれ安定化するだろうと考えられていた。
ただ、親ソ(親ロ)派が未だ根強く、共産パルチザンへの支援者が多く、また鉄道などに組織的サボタージュが計画されている証拠が次々と見つかるベラルーシは、統治コストの嵩む頭痛の種であった。
故にヒトラーは、再びノイラート外相と相談し、ベラルーシの惨状を”ベラルーシ問題”として提訴する事を決めた。
つまり、国際的な合意を取り付けた上で、”大掃除”をすることを決めたのだった。
これは同時に”ハティニ村の惨劇”が回避された瞬間でもあった。
流血が回避された事と同義ではない事だけは断っておく。
テロ幇助は、紛れもなくテロ行為の一環なのだ。
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後日譚(ちょっとした閑話休題)
第二次スモレンスク防衛戦の後始末が片付いたころ、サンクトペテルブルグにも鹵獲された”B-4/203mm榴弾砲”が持ち込まれ、ドイツ国防軍の正規参謀でもあるシュタウフェンベルク・ルートで、
「はぁ? この榴弾砲、サンクトペテルブルグで量産できないかって?」
申し訳なさそうな顔をするシュタウフェンベルク。
「その軍上層部が威力と射程に惚れこみまして……」
「シュタウフェンベルク君、上層部にこういい返してやれ。『こんな使い勝手の悪いクソデカ重い牽引砲を作るくらいなら、
そして後日、今度は陸軍総司令官フリッチュ元帥と軍需省トート博士より連名で正式にサンクトペテルブルグへ”203㎜自走砲”の開発依頼が届き、クルスは頭を抱えることになる。
結局、クルスは大型砲開発に実績のある旧チェコのシュコダ社と共同開発する羽目になるのだが……自ら進んで仕事を進んで増やすスタイルは、日本人辞めてもファミリーネームのイニシャルがKからCに変わっても健在のようである。
凡そ2年後くらいに完成したのが、見た目が殆ど史実の米国製”M110A2(脳内データがあったっぽい。陸自でも使ってたし)”だったのは笑うしかないが。
だが、性能に大いに満足したドイツ軍は早速、量産を依頼するのだった。
電気式弾道アナログコンピューター搭載で、半自動化された給弾車(同時開発)とセットで運用って……そりゃそうなる。
ついでに言えば、ほぼ並行してKV-1ベースの改造シャーシに全周囲旋回装甲砲塔にソ連規格の152㎜榴弾砲を装備した近代的な自走砲や余剰のT-34に対空機関砲乗せた対空自走砲を開発していたのだから、フォン・クルス……アホ確定である。
サンクトペテルブルグの名物兵器が、また一つ……
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