第192話 やがて日は沈み、また日は昇り、ようやく最初の戦いは終わる ~陸戦パート。要塞砲とかツヴァイヘンダーとかインスタントカメラとか~




 地獄の戦場はまだ続いていた。

 有刺鉄線に絡め取られた歩兵にクラスチェンジした赤軍タンクデサント兵は、MG34ないし先行量産型が回ってきてるMG42汎用機関銃が、最近、ドイツ軍でもよく見かけるようになったZB26/30分隊支援機関銃が、あるいはまだまだ現役のマウザーKar98k小銃を抱えた4人1組+スポッター役1名による臨時編成のマークスマン分隊(狙撃兵の専門訓練を受けていないため4人が1つのターゲットを撃つ「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」方式)、そして本職のZf41光学照準器スコープ付のKar98k狙撃仕様、あるいはここ最近でZB26軽機関銃と共に戦場で見かけるようになった同じくスコープ付きのZH29半自動小銃を使う本職のスナイパーが次々に仕留めてゆく。

 ZH29はまだ配備数が少ないので、どうやら狙撃兵に優先的に回されているようだ。

 まあ、来年にはワルサー社が”狙撃用半自動小銃”を生産予定なので、そうなれば分隊付狙撃手マークスマンにも回ってくるだろう。

 

 彼らの共通項は、長射程の8㎜マウザー小銃弾(7.92㎜×57弾)を用いてるということ。

 動く敵より、まずは仕留めやすい”罠にかかった獲物”を撃つのは定石だった。

 加えて、時折、機銃の発砲音と呼ぶには野太い音が混じる。

 

 そう、地対地掃射するたびに赤軍歩兵を小隊単位ひとまとめでなぎ倒しているFlakvierling38/20㎜機関砲4門を備えたIV号対空戦車”ヴィルベルヴィント”だ。

 対空戦車としては同じくIV号戦車の車体にMk103/30㎜機関砲2門を据えた”クーゲルブリッツ”に主役の座を渡しつつあるが、対地掃射……歩兵相手の20㎜機関砲の水平射撃は、文字通り射線にある者全ての人間を比喩でなく細切れに変える恐るべき効果を示していた。


 他にもドイツ製、あるいはサンクトペテルブルグ製の迫撃砲の少し気の抜けた発砲音が途切れることなく続き、赤色歩兵たちを次々に吹き飛ばしていた。 

 そして、悪質なのは一部の有刺鉄線には電気が流れていた事だ。

 全てではないのが逆にミソだ。

 これまで普通にワイヤーカッターで有刺鉄線を切っていたのに、いきなり絶縁処理されてないカッターなら感電するし、仮に絶縁したカッターで切ったとしても電気が流れてないと思い通った途端に感電なんてケースが頻発した。

 この電気柵の目的は、実は敵兵を感電死させることではない。

 どの鉄条網に電気が流れているか分からない疑心暗鬼を起こさせ、進撃の脚を鈍らせる事が目的だった。

 

 

 

 無論、この間にも文字通り味方の屍を踏み越えて対戦車壕を突破できた運も実力もあるレアなT-34戦車には、関門突破の褒美とばかりに次々と75㎜徹甲弾が放たれていた。

 

 そして、同じく運も実力もある赤軍歩兵がドイツ兵が潜むだろう塹壕に近づこうとした瞬間、MP38/40短機関銃の一斉射撃が始まる。

 

 ソ連のタンクデサント兵と言えば、PPSh-41などの短機関銃がお約束だが、ドイツだって短機関銃の配備数や密度は負けてはいなかったのだ。

 時折、ドイツ名物”ジャガイモ潰し棒ポテトマッシャー”と呼ばれる柄付き手榴弾が乱れ飛ぶ中、壮絶な撃ち合いが続いた。

 

 だが、塹壕に体のほとんどを潜らせ、他の機関銃や迫撃砲、小銃狙撃の支援を受けれる、必要なら”無線機”で後方の火力支援をオーダーできるドイツ軍防衛部隊に対し、地雷や有刺鉄線網などの障害物はあっても遮蔽物のない場所で匍匐前進しながら進むしかないソ連兵は、驚くべき速さで死傷者を増やしていった。

 

 

 

***




 世の中には、運が良い者というのは必ずいる。

 例えば、どんな激戦地でも必ず地形の関係で射線が通らない場所は存在するのだ。

 そう、重機でも排除できなかった大きな岩の影など。

 

 そして、気がつけばそこは赤軍兵士の溜まり場のようになっていた。

 少なくとも、ここにいればしばらくは機銃弾は飛んでこない……そう安心した矢先、

 

”BOM!!”

 

 何かが爆発……手榴弾か?と思う間もなく、700個の鉄球に刻まれ、多くの兵士が絶命した。

 有線スイッチでタイミングを図られ起爆した”それ”の名は、

 

 ”ツヴァイヘンダー指向性対人地雷”

 

 サンクトペテルブルグで開発され、試供品として持ち込まれた新型地雷、要するに”クレイモア地雷”の時空を超えたパクリだ。

 ちなみにツヴァイヘンダーもクレイモアも、作られた場所や時代が違うだけでどちらも”両手剣”である。

 そして、それは戦場で随所で見られた光景だった。

 獲物が逃げ込みそうな場所に罠を仕掛けるのは、確かに戦場の基本だった。

 

 

 

 さて、思いもよらなかった物も含め活躍する兵器がある一方、せっかくスモレンスクに搬入されたのに、あまり活躍の場がなかった武器もある。

 対戦車ロケットランチャー”パンツァー・シュレック”、対装甲擲弾”パンツァー・ファウスト”などの対戦車装備だ。

 何しろ歩兵が潜む塹壕までたどり着けたT-34戦車がいなかったのだから仕方のないことだが。

 パンツァー・シュレックの射程は100~200m、パンツアー・ファウストはサイズにより最大射程が異なるが、大体同等からそれ以下くらいだ。

 短機関銃の射程とどっこいであり、そうであるが故に短機関銃がメインウエポンの塹壕兵に50㎜軽迫撃砲など共に火力支援として携行させていたが、まあ射程の短さゆえに今回は出番がなかったという訳だ。

 ただ、赤軍兵に関して使用されたケースがあり、対装甲用の成形炸薬型だけでなく対人榴弾(榴散弾)仕様の開発要求が出たことは特筆しておく。

 

 また、この時点では残念なことに列車砲クルップK5の出番もなかった。

 正直に言えば、スツーカの空爆と、往年のフランス陸軍の砲兵隊と正面から撃ちあって捻じ伏せられるレベルに達していたドイツ重砲隊で十分に対処可能だったというのが主な理由だ。

 

 勿論、15㎝級以下の牽引式の機動砲も活躍したが、特筆すべきはより大型で一応、牽引はできるが重量的に機動的運用が難しい(史実では撤退時などに破棄されることが多かった)”21cmMrs18”重臼砲や17㎝K18重カノン砲が非常に意気軒昂にドカスカと撃っていた事だろう。

 加えて、史実にはドイツで生産されるはずのない大型”固定”砲がお目見えしていた。

 そう、旧チェコのシュコダ社で開発されていた”210mmBr17”重カノン要塞砲、”305㎜Br18”重榴弾要塞砲だ。

 

 前に書いたかもしれないが、この世界線においては、ドイツは併合したチェコの資産の一切合切をソ連にくれてやる気は無く、その話題もなかった為にシュコダ社は自動車のタトラ社やチェスカー・ズブロヨフカ社(ZH29小銃の開発元)、元々は国営兵器工廠だったが今は民営化しているブルーノ社と同じく完全ドイツ企業だ。

 故にBrは固定砲を示すコードとなり、要塞砲という名称でドイツ軍に納品され、こうして要塞化したスモレンスクに多く配備されているという訳だ。

 固定砲と言っても戦艦の旋回砲塔と同じく旋回式砲座で全周囲砲撃が可能である。

 ついでに言えば、これら巨砲にはどこかで見覚えのある”電気式演算機”が試験的に弾道計算機として取り付けられていたようである。


 従来のドイツ軍水準なら常軌を逸した数の長射程砲がスモレンスクに配備されていた上に、少なくともスモレンスクからカティンまで射程に入れられる制空権を完全確保した空軍戦闘機隊が守る空の下、露払いのFw190や本命のJU87が片っ端から重砲隊を損傷を与えて身動き取れなくした後に、次々と長射程重砲隊が潰して回ったためにこういう結果となった。

 

 もっとも、”今”出番が無いからといって完全に出番が無い訳ではない。

 スモレンスク防衛戦はまだ始まったばかりだ。

 ”虎の子”や”切り札”というのは、使いどころや切り時があるのだ。

 

 












******************************










 結局、一昼夜に及んだ初日の戦闘で、押せ押せのガンガン行こうぜを実行した赤軍の第一次スモレンスク攻略戦は、後年の資料によればソ連側の投入兵力(この初日だけで投入された兵力。のべ投入兵力や総動員兵力でないことに注意)は61万人前後とされている。

 本来はもっと数に任せた攻めがしたかったろうが、スターリン直々に急ぐよう厳命されたために、とりあえずに直ぐにかき集められるだけの兵力を集めて投入された感じが否めない。

 東西南北から一斉に攻め寄せたような圧迫感はあったが、どうにも統制あるいは連携が取り切れていない雰囲気があった。

 そして、それが結果として赤軍の被害を拡大させた一因となったようだ。

 

 兵力61万うち、戦死者・行方不明者は約19万8千人程度。負傷者も重軽症合計15万人前後出たとされる。

 ただし、戦時中のソ連側の発表は5万人弱と非常に少ない。

 別に噓はついていない。「ロシア人の死者数」は、まさにその数なのだろう。

 赤軍は「消耗品」を(少なくても戦時中は)戦死者に含めないことにしたようだった。

 

 そして、この日の戦闘でドイツ側の戦死者・行方不明者は1万人に届くか届かないかだった。

 独ソの地上兵力キルレシオ、おおよそ1;20……いくら動員力に差があり、(連邦として考えるなら)人口はソ連の方が大きいと言っても、許容量や限度を超えそうな数字であった。

 

 航空兵力でもキルレシオに差が付いたようだ。

 この初日の戦闘だけでソ連はのべ380機を投入したと言われ、そのうち約220機が撃墜され、30機が帰還途中で墜落したか修理不能の大破判定となっていた。

 ドイツ機の被撃墜は7機、修理不能の大破判定は5機。パイロットの死者・負傷者は合計5名であった。

 

 つまり、ドイツ陸軍兵士が一人斃れる間に赤軍兵は2個分隊が消え、ドイツ機が1機落ちる間に20機以上のソ連機が落ちてる計算になる。

 流石にこれは看過できる損害ではなかった。

 

 これだけの大差がついた要因はいくつも考えられる。

  ・史実と異なりスモレンスクが完全な要塞として機能するようにセッティングされていたこと

  ・ドイツ軍が無茶な冬季攻勢でのモスクワ攻略などで消耗していなかったこと

  ・その時間と物資と労力をスモレンスクの防衛力強化に振り分けられたこと

  ・ソ連側が不十分な戦力(地上兵力はスモレンスク配備兵力の倍に届いておらず、航空兵力はむしろ劣勢だった)で、また連携も稚拙だったこと

  ・無線機の保有数、レーダーの有無など電波・電子装備の量と質にあまりにも大きな格差が存在していたこと

  ・結果として一瞬たりともソ連空軍は制空権の確保や航空優越が取れなかったこと

  ・史実と異なり、この時点でドイツ側がT-34戦車をアウトレンジで撃破できる戦車・対戦車車両・野砲などが十分な数を準備できたこと

  ・史実と異なり、この時点でドイツ側がソ連重砲隊と正面から撃ちあえるだけの火力や門数の重砲・ロケット弾を準備できたこと

  ・戦闘機などのハードウエアの性能差、パイロットなどのソフトウェアの技量差など厳然とした格差があったこと

  ・空対地・地対地ロケット、ツヴァイヘンダー指向性地雷など赤軍が想定していなかった兵器が存在していたこと

  

 他にもあるだろうが、結論から言えば、

 

  ”赤軍は、スモレンスクを攻め落とすには、何もかもが足りなかった”

 

 のだろう。

 

 

 

***




 翌日、ソ連軍は攻めてこなかった。

 おそらく、あまりの損害の多さ……想定以上のダメージに、部隊の再編に相応の時間がかかっているようだった。

 虎の子であるJu86高高度機の最終型Ju86R超高高度偵察型を投入し、U-2ばりのソ連機迎撃不可能な高高度からの威力偵察でその状況を報告した。

 元々、ドイツはシーメンス・カロルス・テレフンケン方式という写真電送を持っており、その様子は手早く関係各所に伝播された。

 もう一つ、恐ろしい現実を書いておこう。実はドイツ、つい最近、アメリカに先んじる形である先端技術の開発に成功している。

 それは、”インスタント・カメラ”だ。

 これは大々的に既に発表されており、国内特許も獲得済み、国際特許も出願中だ。

 つまり史実のポラロイド社を出し抜いてみせたのだ。

 ここで重要なのは、Ju86R偵察型は、撮った写真を機上で現像でき、それを基地へ電送できるということだ。

 今でこそ写真どころか動画も簡単にネットにアップできるが、1942年と言う時代を考えれば、これがどれほど重要な意味を持つかわかると思う。

 

 ちなみに史実でも今生でも、この画像電送の分野は日本は最先端を突っ走っており、他国より解像度の高い写真を送れるNE式写真電送機と言う独自のシステムを開発し、史実では1936年ベルリンオリンピックのベルリン⇔東京間に敷設された短波通信回線により電送された写真が新聞紙面を飾ったという記録が残っている。

 それまでは写真を物理的に空輸していたことを考えると、やはり隔世の感がある。

 

 

 

 ソ連側はそれで良いとして、守り手のドイツ軍はというと……

 

「こりゃ結構メンタルに来るな……」

 

 塹壕エリアまで入ってきた敵兵の遺体を皮切りに、対人地雷に気を付けながら有刺鉄線網に引っかかった死体、その他、あちこちに散乱している死体を次々に対戦車壕、巨大な空堀へと放り込んでいた。

 

 トハチェフスキーの示した”攻撃三倍の法則”ではないが、確かに”ヤマアラシ要塞スモレンスク”は想定通りの防御力を発揮し、見事に撃退してみせた。

 しかし、攻城戦防衛側の常である死体の処理が待っていたのだ。

 防衛線の外側のそれは、自然の理に任せても今は構わないし、処理するにしても赤軍が完全に撤退してからになるだろう。

 だが、ドイツ兵が密集する防衛線の内側はそうも言ってられない。

 3月のスモレンスクはまだ寒いとはいえ、腐乱しない訳ではないのだ。それを放置して疫病でも発生したら目も当てられない。

 特に大きな戦いにはならなかったとはいえ、兵士たちが密集する塹壕の死体回収と消毒は念入りに行われた。

 第一次世界大戦の戦訓が生かされた一幕であった。

 

 

 

 1万に届かぬ味方の亡骸はシュラウドに包み丁重に扱うとして……

 また内側に残った敵兵遺体の最終的解決手段として、少なくとも階級章や認識票など身元が分かるものが(あればだが)回収し、残りは戦車の残骸と一緒に堀に投げ込み、焼却処分してしまおうという判断が下された。

 遺体を焼却するのは防疫に効果的だと、北アフリカで日本人がフランス人に根拠と前例を示したばかりなので、それに習おうとという訳だ。

 無論、そんなことをすれば対戦車壕が浅くなる、つまり越えられやすくなってしまう筈だが、”燃やすタイミング”を調整することで、防御の一助にしようという試みが検討されていた。

 

 

 

 無論、仕事はそれだけでなく地雷の敷設のし直し、有刺鉄線網の張り直しなども作業に入ってくる。

 

 因みに作業する面々には地雷敷設詳細図が配布されているが、それでも不注意に踏んでしまう者はいる。

 ただ、この作戦で用いられる対人地雷は踏んだ脚の膝から下を消し飛ばす程度の威力しかなく、出血死以外の致死率は低い。

 ついでに言えば、対戦車地雷は人が踏んだ程度の圧力では起爆せず、車両が踏んだとしても履帯を切ることが最大の目的の地雷なので、そうそう乗員ごと吹き飛びはしない。

 別に人道的配慮ではない。

 利便性、そしてコストや炸薬削減の問題だ。

 

 火薬だって安くはないのだ。それに一人を跡形もなく吹き飛ばす対人地雷や戦車を中身事再起不能にする地雷など、オーバーキルだしそれだけの威力を出すとなれば大きく重くなるし、製造コストだって嵩む。

 それに再敷設するのにも一人、もしくは1両で運べる数も減ってくる。

 塵も積もれば山となる、だ。

 

 人間は出血多量でも死ぬし、履帯が切れて動けない戦車など”座ったアヒル”。処理のしようはいくらでもある。

 降伏して乗員が出てくるならそれでよし、最後まで抵抗の意志を見せるのなら射程外から対戦車砲を撃ち込めば済む話だ。

 

 結局のところ、戦争も経済学を無視することはできず、ルールの順守は必要だが「より安く殺せる・・・・・」、敵に厳しく財布に優しい戦争をやった方が偉いのだ。

 何とも世知辛い世の中である。

 戦場の生き死にも、最終的には金勘定になる。

 それもまた戦争の一側面だった。

 

 















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