第136話 地質学用語”フェノ・スカンジア”を地政学に落とし込むためのスオミ式解決法
ドイツ人は、1938年からフィンランドへの兵器供与を本格化させた。
ドイツ人は、39年の独ソ不可侵条約締結後も軍事支援を水面下で”
スオミ人は、我々が知る史実とは比べ物にならない潤沢な装備を手にしていた。
ならば、史実のように独ソ戦に関して「中立を宣言」する必要はない。
ドイツ人は、約束を守ったのだ。
ならば、”戦争を
《big》「否、否、否!! 《b》断じて否であるっ!!《/b》」《/big》
”カールハインツ・エッケルト・フォン・マンネルハイム”元帥はそう断じて、全力出撃を命じた。
だからこそ、ドイツが北方軍集団の総力をあげて当時はレニングラードと呼ばれていた街を攻略するのに呼応し、フィンランド軍はカレリア地峡を南下したのだ。
カレリア地峡の最も近い赤軍拠点ヴィボルグ(フィンランド語のヴィープリ)を瞬く間に制圧し、その勢いを殺さぬまま数々の拠点を落とし、サンクトペテルブルグ眼前のセルトロヴォ(シエラッタラ)まで攻め寄せたのだ。
ここを拠点とし、ドイツ陸海空軍の”レニングラード総攻撃”を側面から火力支援し続けたのだが……
実は、この一連の”カレリア地峡奪還戦”におけるフィンランド軍の大勝利は、サンクトペテルブルグ攻略に関する貢献度は、相当に高いのだ。
まず、最初にフィンランド軍快進撃の理由を書いておきたい。
独ソ戦開戦前、カレリア地峡に配されていた赤軍の数は5万程度だったと言われるが、フィンランド軍がカレリア地峡に攻め入る頃には3万以下まで減り、また練度が高く装備の良い部隊ほど引き抜かれた為に事実上戦力は半減以下であり、しかもどことなく間引きされたような分散配置になっていた。
無論、この引き抜かれた部隊の行先は、南東部戦線……”バルト三国防衛戦やレニングラード防衛戦”で、それらの兵力はサンクトペテルブルグ攻略を巡る戦いで完膚無きにまで摺り潰された。
その状況で、各個撃破しながら進軍するフィンランド軍に追い立てられた赤軍カレリア地峡防衛隊は、最終的に”まだ陥落していなかったレニングラード”に辿り着く。
そして、ドイツ軍と相対するレニングラード守備軍は、少しでも戦力不足を補うために彼らを迎え入れるしかない。
だが、考えてほしい。
・相次ぐ敗退で士気は瓦解寸前
・高級将校や政治将校ほど損耗が激しかったので、統制力不足
・相次ぐ撤退戦で装備のほとんどを失っていた
・そもそもが指揮系統が違う
そんな「蹂躙され尽くした残存兵」が、果たして戦力としてどこまで成立するのだろうか?
そしており悪く、彼らがレニングラードでどうにか使えるように再編受けてる最中に、 ”クラスノエ・セロの戦い”が起きてしまった。
つまり、レニングラード防衛の最高責任者であるヴォロシーロフ元帥の戦死である。
***
そして、代理の司令官が着任する前にドイツ人は、半包囲から市街地攻略を開始した。
真っ先にすり減らされていた士気が瓦解したのは、バルト三国の戦いから、あるいはノヴゴロド、プスコフ、ルーガ、そしてカレリア地峡全域から敗退してきた部隊だ。
以前、サンクトペテルブルグの市街戦において、政治将校に粛清された(背中から自軍に撃たれた)遺体ではなく、粛清された政治将校の遺体が多数発見されたと書いたことがあると思う。
ソ連式の政治将校の戦場における役目の一つは、士気の低い部隊に督戦を行う……つまり、背中から機銃掃射し、死兵として敵に突撃させることだ。
畑から兵隊が取れるかの国らしい仕事ではある。
結局は、「背中から撃たれて死ぬ恐怖」が「敵に殺される恐怖」より強いから成立する、二者択一に見える単独回答だ。
だがそれは、この各戦線からの敗残兵には通用しなかった。
当然である。
彼らはすでに、政治将校が見たこともない戦場で、「背中から機銃で撃たれるより確実な死」を目撃し、体験し、経験として蓄積し辛うじて生き残ったのだ。
そして、辿り着いた結果が、「ドイツ人やスオミ人より政治将校の方が簡単に殺せる」だ。
更にドイツ人は、ビラまでばらまき
”司令官は死んだ。レニングラードから逃げるなら邪魔しない”
と宣言した。
ならば、より生存率が高い方を選ぶのは必然だったのだ。
***
レニングラードからサンクトペテルブルグに都市の名前が”還った”後、最も早く東進を開始したのは、ドイツ軍ではなくフィンランド軍だった。
一応、言っておくがドイツ人のばら撒いたビラには脱出は邪魔しないが、「追撃をしないとは一言も言っていない」のだ。
その意味、
”さっさとサンクトペテルブルグから出ていかないと、追撃で踏み潰すぞ”
を理解できぬものまで面倒を見る気は無かった。
サンクトペテルブルグで補給などを行ったフィンランド軍は、ドイツ空軍のエアカバーを受けつつ立て続けにラドガ湖南岸のヴォルホフ、シャシストロイなどを遅れていた脱出勢力を文字通り轢き潰しながら陥落させ、ラドガ湖の縁をなぞるように東岸のロデイノイェ・ポリェを攻略し、時折、前進してきたドイツ軍と共闘しつつ北上、オロネツ、プリャジャを落として、ついにオネガ湖西岸最大の都市”ペトロザヴォーツク”を攻略し、フィンランド領”ペトロスコイ”として復権を果たしたのだ。
現在、フィンランド軍はオネガ湖戦線と呼称し、ラドガ湖北岸の要所メドヴェジエゴルスク(現カルフマキ)の攻略を終わらせて拠点化に成功、戦力を南下させオネガ湖東岸のプトシュを突破し、ヴィテグラの攻略に手を伸ばしていた。
実は、ラドガ湖、そしてオネガ湖を支配地域とするのは大きな意味がある。
なぜなら、バルト海とヴォルガ川を結ぶ”ヴォルガ・バルト水路(マリインスク運河)”はオネガ湖を通り、1933年に完成した白海とバルト海を結ぶ大運河”白海・バルト海運河(スターリン運河)”はオネガ湖とラドガ湖を経由せねばならない。
言い方を変えよう。
ラドガ湖とオネガ湖とその間の地域を占領下に置くということは、”
《b》”フェノ・スカンジア”《/b》
を丸々ロシアから切り取れる事になるのだ。
もうお気づきだろう。
この北方軍集団領域で、フィンランド軍の担う役割は余りにも大きい。
サンクトペテルブルグ攻略の役割も大きく、またラドガ湖とオネガ湖を含むカレリアの攻略に至っては主力となった。
これが結果的に、
”欧州北部方面最大の分断作戦”
となったのだ。
前にも話題に出したが、カレリア奪還(カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国侵攻作戦)はフィンランドの悲願だ。
当然である。”冬戦争”の前まではここはスオミ人の土地だったのだ。
だからこそ、熱意も執念も違った。
それを誰よりも深く理解していたドイツは、可能な限り全力で支援したのだ。
フィンランド軍の装備を見るとよい。
地上を進む装甲戦闘車両の主力は、この時期(ピロシキ砲塔)のT-34をアウトレンジで撃破可能な史実のF型相当、STUK40型75㎜43口径長搭載の”Ⅲ号突撃砲”であり、フィンランド空軍機の識別マークである”青と白のラウンデル”を描いて蒼空を駆けるのは、史実のF型仕様のBf109だ。
史実ではこの時期に考えられない贅沢な装備(史実における同時期のドイツ軍一線級装備に匹敵)であり、それは同時に「アメリカからの支援が届く前のソ連」の兵器群を叩くには、十分な性能と数を有していた。
そして、ここまで支援したからこそ、ドイツはフィンランドに「中立」なんて中途半端な態度は許さなかったし、フィンランドもまたカレリア全域掌握と、コラ半島攻略に戦力の出し惜しみをするつもりはなかった。
戦争は、全てが繋がっているのだ。
もし、サンクトペテルブルグの攻略が失敗すれば、フィンランドはカレリア攻略をこうも容易く行えなかっただろうし、もしフィンランドのカレリア攻略に手間取れば、コラ半島……ムルマンスク攻略は、史実と大差ない失敗に終わったかもしれない。
だが、この世界線では……
結果は、この先の歴史が証明するだろう。
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