第134話 レニングラードとムルマンスク、それを繋ぐキーロフ鉄道について






 1941年秋、フィンランド領内、ニッケル鉱山の街”ペツァモ”


 そろそろ短い秋が終わり、冬の足音が聞こえてきそうなこの街において、奇妙な風景が広がっていた。

 山岳師団が冬季戦装備を整え、今にも東進しようとしているようだった。

 

 だが、この世界線では「前世を知る転生者ヒトラー」が、ペツァモからの進軍などという暴挙は許すわけない筈だが……

 

「それにしても、我が祖国ライヒも随分と贅沢な国になったと思わんか?」


 だが、その疑問はこの増強山岳師団を預かる師団長、エアハルト・ディートル大将の台詞で氷解するだろう。

 いや、もうすぐここは氷の季節ではあるが……

 

「増強師団丸々1つを”陽動・・”に用いるとはな」

 

 彼らのペツァモ山岳師団の”今生における・・・・・・銀狐作戦”で与えられる作戦は至極シンプルな物であった。

 

(つまり俺たちは、作戦終了までペツァモからムルマンスクを無謀な攻略するそぶりを見せつけつつ)


「アカのムルマンスク防衛隊を誘引し続ければ良い。ムルマンスクを攻め落とせと言われる訳ではないんだから、まあ、気楽な仕事だな」


 OKWうえから、「無理や消耗しない程度の偽装進軍なら許可すると言われたが……とどのつまり彼らはデコイだった。

 だが、ディートルに不満はない。

 少なくとも、「ペツァモからムルマンスクを陥落させよ」なんて無茶な命令が来ないだけでもありがたいと考えていた。

 だが、そうであるが故に手を抜くつもりはない。

 ソ連軍が「ドイツがペツァモからムルマンスクを本気で狙ってる」と思わない限り、満足な誘引はできないだろうから。

 

「気楽な仕事だからこそ、見破られないためにも本気で攻めるぞ」

 

 師団付き参謀たちは一斉に頷いた。

 

 
















******************************










 その日、ドイツ国防軍北方軍集団ヴィクトール・フォン・レープ元帥は、実に上機嫌だった。

 

 当然であろう。

 レープ元帥自ら率いる、ケミより”ムルマンスクキーロフ鉄道”で北上したドイツ北方軍集団の現在機動的に運用できる地上戦力の全てと言っていい8万の軍勢と、フィンランドのケミヤルヴィに集結し、サッラ→カイラリ→ニャモゼロの東進ルートを打通したフィンランドの”冬戦争の英雄”ヤンマーニ・シーラスヴオ中将率いる2万のフィンランド地上軍がカンダラクシャの郊外で合流した。

 その戦いは苛烈の一言であり、包囲など考えずに文字通りこのキーロフ鉄道の拠点であるカンダラクシャを守るため、赤軍が容赦ない民間人徴用でかき集めた3万の軍勢を比喩でなく蹂躙し、ことごとくを摺り潰したのだ。

 赤軍は練度が低く、装備も悪く、指揮官の質も粛清の影響かあまり優秀とは言えなく、だからこそ多少の無茶は承知の上で一気呵成の力押し決着ケリを付けたのだ。

 ある種の博打じみた(ただし、事前調査で十分に勝機があると判断できた)強襲作戦だったが、包囲するという先入観にとらわれていたソ連指揮官は結果として虚を突かれる形となったのだ。

 

 そして、政治将校が撤退を許さなかった為に参加した赤軍の6割が戦死するという惨事となった。

 死兵化しても、所詮、7割がここに来るまで銃を握ったことのない素人ではできることはなかった。

 加えて、爆弾を持たせて肉壁ならぬ肉地雷や肉弾対戦車ミサイルとして使おうにも、その括り付ける爆弾すら事欠く始末だった。

 


 どうしてこうなったのか?

 それを読み解くにはキーロフ鉄道とレニングラード陥落の因果を話さねばならないだろう。

 

 

 

***




 「ムルマンスク 鉄道」と検索すると”ムルマンスク軌道”という港から物資を内陸に運ぶ為の軽便鉄道が出てくるが、本題はそれではない。

 第一次世界大戦中の1914~17年の間に「ムルマンスク~サンクトペテルブルグ」間に建設開通した鉄道”ムルマンスク鉄道”が今回の主題だ。

 

 日本人には馴染みの薄いこの鉄道は、1935年に前年に暗殺されたボリシェヴィキ指導者キーロフの栄誉をたたえるために”キーロフ鉄道”に改名された。

 前述の通りサンクトペテルブルクとムルマンスクの間の約1,450kmを結ぶ鉄道で、広軌の本格鉄道であり、ロシア語で”赤い矢”を意味するソ連初の特急列車”クラスナヤ・ストレラ”を運行させることもできた。

 史実では戦後の1959年にオクチャブリスカヤ鉄道に統合され、現在でもその路線は稼働中・・・である。

 

 特筆すべきはその路線であり、マップなどを閲覧しながら見てくれると嬉しいのであるが……

 サンクトペテルブルグからいったん東北東に進みオネガ湖西岸を沿うように北上。旧カレリア共和国首都ペトロザボーツク(現ペトロスコイ)を抜け、オネガ湖北端の街であり白海・バルト海運河の要所であるメドヴェジエゴルスク(現カルフマキ)を通り、キーロフ鉄道のモスクワ方面の分岐点(それは同時にムルマンスクとアルハンゲリスクを結ぶ路線の連結点を意味する)があるベロモルスク(現ソロッカ)、ケミ(現ヴィエナ・ケミ)→ロウヒと白海沿岸を北上し、ムルマンスクから南へ227㎞の地点にあるカンダラクシャを抜けて、ムルマンスクに至る。

 

 

 

 さて、もうオチは見えたと思う。

 史実でレニングラードを攻略・陥落できなかった原因の一つはこの鉄道を遮断できずに補給線が維持されてしまったこと、そしてレニングラードが陥落しなかったからこそ、ドイツはレニングラード包囲に戦力を取られ、またソ連は餓死者を出しながら生産を続けた軍需品を外部に運び出すことができ、それが文字通りドイツ人を殺す武器となったのだ。

 

 つまり、キーロフ鉄道もレニングラードもドイツ人の攻撃を耐え抜いたからこそ、双方が相互作用で生き延びたのだ。

 そして、鉄道もレニングラードも生き延びている以上、ムルマンスク攻略に割ける戦力はあまりに少なかった。


 別の視点で言おう。

 モスクワを狙う中央軍集団に戦力を引き抜かれ、慢性的な戦力不足に陥っていたという理由もあるだろうが……

 

 レニングラードは包囲に終始、いたずらに人員や物資を消耗し、結果としてムルマンスク攻略どころかその前段階であるキーロフ鉄道、その輸送路の遮断すらできていないのだ。

 はっきり言えば、「レニングラード、キーロフ鉄道、ムルマンスク、そのすべての攻勢が中途半端・・・・過ぎた為に、全ての作戦が失敗した」のだ。

 

 戦力の少なさを加味しても、せめてどれかに集中すれば、あそこまで無残な結果とならなかっただろう。

 例えば、レニングラード攻略が不可能と判断されたならば、キーロフ鉄道の遮断を含めた補給路の破壊に努めれば、結果は多少なりとも変わっただろう。

 上手くやれば、レニングラードを立ち枯れさせる事も可能だったかもしれない。

 

 だが、そうはならなかった。

 何故ならその根本的な原因は、結局、米国からのレンドリースの補給物資が本格化するまで、レニングラード以北の戦域をドイツ人は「主戦域と考えていなかった」からだ。

 

 ムルマンスクとアルハンゲリスクが攻めきれなかった意味の重さ、特に不凍港であるムルマンスク港が機能し続けた重さを知ったときは、全てが遅すぎた。何しろ、米国から流れた装備が最前線にまとまった数で配備され、ドイツ人をミンチに変えるために猛威をふるいだした後のことだ。

 

 

 

***




 だが、安心して欲しい。

 この世界線では状況が違う。

 

 北方軍集団は中央軍集団に戦力を引き抜かれて骨抜きに等なっておらず、むしろ戦力投入を惜しまず、持てる全力をもってレニングラードを真っ先にサンクトペテルブルグに”還元”した。

 

 そう、フォン・クルス・デア・サンクトペテルブルグ総督が統治するこの街で、もはや赤軍装備が生産されることも持ち込まれることもない。

 そして、ここを起点としてラドガ湖、オネガ湖に装備を整えたドイツ人とフィン人は攻め込み、カレリア共和国、正式名称”カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国”を歴史用語に変えた。

 カレリア共和国の首都ペトロザボーツクは、フィンランド語表記の”ペトロスコイ”へと、北岸の街で鉄道と運河の要所であったメドヴェジエゴルスクは”カルフマキ”となった。

 

 だが、それでもそれらは決して楽な戦いではなかった。

 次回は、その足跡を少しだけ追ってみたいと思う。

 

 

 

 

 











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