第95話 A Day After Days of Sankt Petersburg Turn Back





 レニングラードサンクトペテルブルグ攻略戦が正確にいつから、どの時点から始まったのを論じるのはたとえこの世界線であっても難しいが、実質的に1ヶ月程度で陥落したと考える方が妥当だ。

 ドイツが敗北した史実の900日の攻防の1/30の時間……あまりにも呆気なく感じられるほど、誰もが予想しなかったほどの短時間でドイツの軍門に下ったのだ。

 だが、ソ連が惰弱だと責めるのは筋違いだろう。

 かの新興赤色国家が置かれた状況は、史実よりずっと悪い物だった。

 

 例えば、この1ヵ月で投入された火力は、史実のレニングラード攻略900日分の1/3以上、つまり史実のほぼ1年分の砲爆撃を1ヵ月で使い切った事になる。

 レニングラード攻略用に備蓄した武器弾薬が一時的にほぼ空になったが……そこまで量を貯めこんだのも凄いが、それを叩きこんだドイツ軍の火力も半端ではない。

 時間当たり史実の10倍以上の密度の火力投射を食らったら、それはこういう結果にもなろう。

 

 これは史実では可能性としてあり得なかったドイツ海軍の本国高海艦隊の全力投入や、フィンランド軍の侵攻、史実よりよっぽど重厚でHe177のような大型機が惜しみなく投入された戦略爆撃などの複合要因であろう。

 

 前提から言うならば、ソ連バルト海バルチック艦隊は語義通りの全滅であり、クロンシュタットもレニングラード攻略前に焦土と化し、また戦前に平和的(?)に戦前に併合したチェコやオーストラリアはドイツの政策もあり、戦前以上に高い工業力を発揮しその工業力で間接的に前線を支えた。

 まあ、ユダヤ人政策は……ここで大っぴらに話すことではない。

 また、被占領国であるフランス、ベルギー、オランダ、ポーランドなどは政治的安定を取り戻しつつあり、まだ全力を発揮してるとは言い難いが、徐々に往年の力を取り戻し親独国家としての再起を遂げつつある。

 加えて、親独的な東欧の同盟各国、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアは意気軒昂ときてる。

 ただしイタリアとは滅茶苦茶距離をとっているようだが。

 本音を言えば、勝手に戦火を広げてこれ以上、迷惑をかけられたくないのだろう。おそらく同盟破棄もそう遠くない将来に思える。

 また、ユーゴスラビアに手を出していないことも地味に大きいかもしれない。

 

 加えて、ホロドモールが起きた南方軍集団担当のウクライナでは解放軍が赤軍に蜂起し、ドイツ軍と連携して各地で連戦連勝。

 中央軍集団の白ロシア(ベラルーシ)方面は、反共パルチザンと連携し、首都ミンスクを電撃戦で陥落させた後は無茶な進軍はしないよう着実な勝利を積み重ねている。

 

 つまり、ドイツは史実よりもずっと高い国内外を含めた潜在的国力を持ち、尚且つ無駄を極力抑えた戦争を戦っていた。

 正しく”転生者の戦争”と言えるだろう。

 

 

 

***

 

 

 

 そして、一つだけ言わせてもらおう。

 実に皮肉なのだが……レニングラード攻略戦の死者は、後年かなり正確な数が発表されたが軍民合わせても30万人に届いていない。

 これはソ連の公式発表による史実の死者70万人(うち市民の死者は63万人)の半分以下であり、実際には100万人を超えていた(当初は人肉食など隠蔽されていた)という分析もあるくらいだから実際には史実の1/3以下の犠牲で済んだのだ。

 これは、史実での死因の97%が餓死だったことが理由……つまり、短期決戦の結果、確かに街はドイツ/フィンランド軍の手に落ちたが結果論ではあるが多くのロシア人の人命が救われた事になる。

 

 同じく食糧庫や給水施設が破壊され補給路が断たれた史実のレニングラードの食糧備蓄量は、1941年9月12日(この世界ではサンクトペテルブルグ復活宣言の1日前)で、

 

 ・穀類・小麦粉 35日分

 ・えん麦・粉物 30日分

 ・肉類・家畜 33日分

 ・油脂 45日分

 ・砂糖・菓子類 60日分

 

 となっていた。この世界線でも備蓄量は大差はなかったので、これでは餓死など起こりようがなかった。

 確かに食料の配給制限はあったが、むしろ最終的に市民たちは持てるだけの食料をもって脱出したのだ。

 

 また、陥落した季節もよかった。

 極寒の到来まで3ヶ月近い猶予があり、また秋はロシアでも実りの時期だったからだ。

 

 後年、”命の道(ダローガ・ジーズニ)”という言葉が出来たが、これは史実のような凍結したラドガ湖を使った補給路の事では無論ない。

 この世界線においては、ドイツが補給路を叩いても意図的にこれまで陥落させていなかったラドガ湖南岸の要所シュリッセリブルクを通り、これまたドイツが意図的に見逃していたラドガ湖南岸の工業地帯ヴォルホフやノヴァヤ・ラドガ、南にある鉄道の要所チフヴィンを経由したモスクワ方面への脱出行の道程を指して、

 

 ”命の道(生存の道)”

 

 と称した。

 ノヴゴロドが既にドイツ人の要塞と化していた現状では他に道などなかった。

 他にもオネガ湖、ペトロザボーツク方面へぬける手段もあったが、冬の前に北上するのは避けたいと思うのが人情だった。

 

 ヴォルホフまではサンクトペテルブルグから東へ122㎞、チフヴィンまでは約200㎞……徒歩では過酷な脱出行ではあったが、それでも200万人近い市民が脱出に成功したとされるのだから驚かさられる。

 1939年時点でのレニングラードの人口は約320万人とされていたのだから、いくら逃げ出す無抵抗の市民への攻撃が自重されたと言っても、半分以上の市民が脱出できたのだ。

 ただ、一つだけ言わせていただくと、脱出できた市民が全て生存できたわけでは無いし、全員に生存可能な受け皿が用意されていたわけではない。

 ロシアの自然は雄大だが、その分厳しくもあるのだ。

 

 そう考えると死者30万人は多い感じもするが、ほとんどが赤軍、軍属、軍関係者、共産党関係だったことを考えれば納得も行く。

 なお、この30万人の中で”ドイツ人やフィンランド人以外・・に殺された人数”がどの程度に上がるのかは、統計がとられていない。

 

 まあ、新たなレニングラード改めサンクトペテルブルグの統治者となったドイツ人やフィンランド人にとり、共産主義者が何人死んだかは興味ある数字だが「誰に殺されたか」はさして意味を持つ物では無かったのだ。

 

 

 

 

***


 

 

 スターリンはこの脱出行を、

 

「英雄が成し遂げた偉大な軌跡にして奇跡」

 

 と絶賛した。

 ロシア第二の都市であり、帝政時代の首都であり、工業の中心地であり、何より偉大な建国の父の名を付けた都市が陥落したことを糊塗するには、そう言うしか無かったのだ。

 ヴォロシーロフは勇者のごとく戦い、英雄として死んだ。

 そして彼が命を削って稼いだ時間で、レニングラード市民の多くが脱出できたと。

 そこには、死守命令を出したことなど触れてはいない。

 ヴォロシーロフが唐突に死んだからこそ、ただでさえ連戦連敗で低かった士気が回復不可能に陥ったこともソ連の歴史書には記されていない。

 スターリンの側近だったヴォロシーロフは、あくまで英雄でなければならないのだ。

 

 例え、”命の道”が200万人が脱出できても、まるで「一説には110万人以上の市民が犠牲になった」という説の辻褄を合わせるように翌年の春を迎えられたのが全避難民の2/3程度に過ぎなかったこと、その死因が燃料不足や物資不足で暖が取れなかったゆえの凍死や医薬品不足の病死や満足な怪我の治療が受けられなかった事による壊疽などによる衰弱死だったとしても、「統計上の数字」に過ぎないのだ。

 200万人が脱出したという奇跡の偉業の方が重要なのであり、ドイツ人に殺されたわけでなく「春を迎えることなく冬の寒さの中での自然死」なら悠久のロシアではもう気が遠くなるほど繰り返されてきた”自然現象”に過ぎない。そこにこだわる必要はない。

 第一、100万程度の死など、ロシア革命以来、特にスターリンが権力の頂点に立ってから何度も、それこそ毎年のようにあったことだ。

 今更、騒ぐほどの珍しい話じゃない。

 

 その裏で、相当数の高級軍人や共産党員が責任を取らされる形で粛清されたようだが、それが明らかになるのは遥か未来の話だった。

 他国から見たらどう見てもスターリンの癇癪による八つ当たりだが、ソ連にそれは通じない。

 とりあえず、失敗すれば血が流れるのがこの国の慣わしだ。

 それがさらなる窮状や国家弱体化を招くとしても、書記長スターリンは絶対であり、彼は間違うことは無いのだ。

 起きた問題を片付けるのは彼の仕事ではなく、問題を片づけない者を裁くのが彼の仕事であった。

 その問題の本質がスターリン自身によるものだとしてもそれを誰も追及せず、追及されない問題は問題とならないのだ。

 まっことソ連とは素晴らしい国である!!

 

 

 

 とは言え、その素晴らしさを理解しない不逞の輩がいる。

 そう、ドイツ軍だ。

 

 スターリンがレニングラード、いやいやサンクトペテルブルグの事ばかり気にしている間に、白ロシアベラルーシを攻める中央軍集団は、ミンスクの要塞化を順調に進め、足場固めをしながら堅実に攻め、じわじわとソ連軍を国境の向こう側まで押し戻しつつある。

 上手くやれば今年中にスモレンスク、ブリャンスクに手が届くかもしれない。

 

 加えて、南方軍集団。

 ウクライナ解放軍と連携し、破竹の勢いで勝利を重ねていた。

 開戦から3ヶ月でほぼウクライナ全域を制圧、残るターゲットはクリミア半島、いやセヴァストポリ要塞と要所ロストフ・ナ・ドヌーくらいだった。

 

 そして我らが北方軍集団。

 レニングラードを本格的な戦闘開始から僅か1ヵ月で落としてみせた事でドイツ軍だけでなくフィンランド軍もその意気は天を突くが如し。

 しかも厳しい冬が来るまでにはまだ時間はあるのだ。

 

 フィンランド軍はありったけの戦力を搔き集め、ラドガ湖南岸からだけではなく北岸からも一路ペトロザボーツクを目指し進軍を開始した。

 

 

 

 このような快進撃が可能となったのは、直接的にも間接的にもレニングラード陥落が大きかった。

 史実のレニングラードは900日間もドイツ軍を釘付けにしただけではない。

 包囲下にあって市民が餓死する中、1941年7月~12月だけで戦車500両、装甲車600両、野砲2400門、機関銃1万挺、砲弾300万発、ロケット砲3万発を生産し出荷してみせたのだ。

 ロシア人は、異能生存生命体かなんかだろうか?

 

 とにかく、これがきれいさっぱり無くなったのだ。

 ドイツ軍もフィンランド軍もレニングラードに縛られることは無くなり、またソ連に大量の武器が渡る事もドイツ人に向けられることも無くなった。

 ソ連第二の都市が陥落するというのは、物理的な影響に絞ってもこれほどの意味を持っていた。

 

 これが、今後の戦争に影響を与えないはずはなかった。

 

 そう、誰しもが何となく理解してしまった。

 戦争が、新たな局面に入ったことを……

 

 ドイツ北方軍集団は追撃を終わらせ、レニングラードの勢いそのままに陥落させた担当各地の防衛線を再編/強化すると、本体は北へ目指す準備を始めた。

 

 1941年は、まだ終わってはいない。

 厳冬が来るには、まだ時間があるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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