第89話 どこかで何かが壊れた男 ~思考は沈降し、地獄の扉をノックする~
ああ、来栖任三郎だ。
なぜか今、ハイドリヒとマンシュタインと三人で夕飯を食ってる……いや、なんでさ?
とりあえず、”世間話”とやらは飯を食い終わり、食後酒を楽しみながらって事になった。
まあ、正解だ。
食いながら聞いたら、絶対消化に悪い。むしろ胃が痛くなるまである。
そして、とりあえずは中々に美味だった肉料理を食い終わり、モーゼルの白ワインを楽しみながら、
「で、サンクトペテルブルグがどうしたんです?」
俺はあきらめの境地で話題を切り出す。
「作戦自体はもうできているんだがね。しかし、君には
ふーん……興味本位ってわけか。
作戦が既に仕上がってるってのなら、もう大幅な変更はできないだろう。
なら、こっちも気楽に、あるいは無責任に答えてみてもいいか?
「本当に世間話程度で良いのならお答えしますがね。ところで方針は包囲ですか? 制圧ですか?」
これ、一番重要だ。
何しろ、包囲と制圧では戦略が丸っきり違ってくる。
包囲は史実のようなダラダラした物では無駄に戦力を消耗し、ドイツがジリ貧になるだけだ。
やるなら多少の犠牲は覚悟のうえで一気呵成に”包囲
だが、
「制圧だ」
マンシュタインは迷いなく答えた。
「結構。なら、私の意見はさほど多くはありませんよ」
とりあえず、まず注意すべきは……
「先に言っておきますが、軍事機密に該当する事なら答えなくて結構。聞かされても困りますし、それがもとで拘束も勘弁願いたい……その上でお聞きしますが、レニングラード、いやサンクトペテルブルグ攻略において、”シュリッセリブルク”は攻略前に陥落させる予定はあるので?」
”シュリッセリブルク”は、サンクトペテルブルグからほぼ真東の35㎞ほどにあるラドガ湖南岸の都市で、サンクトペテルブルグとは陸路とネヴァ川で繋がっている。
「……もし、予定があるとすればどうするのかね?」
「やめた方が良いでしょうね。脱出不可能な完全な包囲は、むしろ市民と赤軍の連帯を強めさせ、都市住人が軍民問わず丸ごと死兵になりかねない」
包囲、正確には包囲殲滅を狙わないのなら、人っ子一人出られないような完全な包囲はかえって悪手だ。
そもそも、包囲するドイツ軍より包囲される住民の方が多い時点で、かなり無茶な話なのだ。
そして、古代からの中世にかけての城と現代の都市では規模も構造も異なり、同じく「籠城戦」では語れない側面がある。
そこを史実のドイツは見誤った。
まさか、都市全域の包囲の中で900日も耐久するとは思っていなかったのだ。
「脱出不能となり立てこもった時のロシア人はしぶといはずですよ? 彼らは耐え忍ぶ事に関しては、環境柄ドイツ人より慣れてる」
冬場は氷点下20度以下がざらで、夏は短い過酷な自然環境に、スターリンの恐怖政治と圧政……こんな中で生きてる連中だ。
比喩でもなんでもなく、飢餓の中で彼らは「隣人の肉を食べてでも飢えをしのぎ生き延びた」んだ。
そしてドイツは、レニングラードを包囲し続けるために宝石よりも貴重な戦力と時間を900日も無駄にし、その間に戦争の敗北は決定的なものになったのだ。
「完全な包囲は連中に覚悟を
立てこもる敵を逃がさないために包囲するのは、前に言ったように当然だ。
包囲殲滅でなく制圧戦でも統制が取れない方向で好き勝手に逃げられたら、逆に面倒なことになる。
だが、”完璧すぎる包囲”もこの場合は……繰り返すが、サンクトペテルブルグの”
過ぎたるは猶及ばざるが如しというが、まさにレニングラード攻略はそういう趣がある。
俺は脳内で地図を広げる。おそらく、ノヴゴロドは必ずレニングラード攻略前に攻め落としているだろう。
実際、あそこを落とさねば攻略の足場が無くなる。
「北からはカレリア地峡を制圧しながらフィンランド軍が迫り、西のナルヴァ方面や南のノヴゴロド方面からはドイツ軍が……ならば逃げるなら、ラドガ湖方面からしかない」
そして、東のシュリッセリブルクまで陥落すれば、脱出経路が完全になくなる。
史実のレニングラード包囲戦は、赤軍や市民がそう望んだから成立したんじゃない。他に選択肢が無かったことが大きい。。
「だから、そこに逃げ道を用意しておくんです。最初は、
なら、どうするか?
人肉を食ってまで生き延びようとするロシア人の強い生存欲求の”
つまり、生存欲求の方向性を、立てこもりから脱出へと意識変化させるのだ。
「となると、生半可な火力じゃダメだな……レニングラードが防衛拠点として無意味になった、そう”思い込ませる”までの目に見える破壊が必要になってくる」
ただ、方向性はこれで間違ってはいないはずだ。
そして、破壊の効果を最大限にするために”完全過ぎない包囲”は必要になる。
散開しているより密集した敵の方が、当然ダメージを与えやすい。
「それに遮蔽物となる建物がない方が、都市制圧戦をやるなら優位だ。特に戦車を市街地で使えるようにできた方が良いでしょう」
ついでに物陰に隠れて狙われるリスクが減らせる。
都市戦の厄介な部分は遮蔽物が多く射線が通りにくく、また隠れ潜む場所に事欠かないことだ。
***
「クルス卿、君は”半包囲状態からの強襲で、ロシア人を都市外に焼きだせ”と言いたいのかね?」
俺が思考をまとめていると、マンシュタインがそう声を挟んでくる。
「ええ。間違えてはいけないのは、今回の作戦の目的は、ロシア人を一人でも多く地上から消去することじゃない。そんなことに労力を割く余裕はない。あくまでサンクトペテルブルグを奪取することですよ。そして、入手する街の状態は考慮すべきじゃない。奪取することが最大の意義で、なるべく無傷で手に入れて直ぐに拠点として再利用しようなんて助平根性があるのなら、そもそもサンクトペテルブルグに手を出しちゃいけない」
あそこはそんなに軽い街じゃない。
ドイツ人のとっては巨大都市で軍事拠点程度かもしれないが、ロシア人……いや、ソ連人にとってはそんな範疇で語れないのだ。
「マンシュタイン閣下、”同志レーニンの名前を付けた街”の意味は、物理的に軍事的にでなく精神的に政治的に重いんですよ。ソ連が内包する重圧その物と言っていい。だから、単純に街を陥落させると考えちゃいけない」
もし、ただの都市なら900日も極限状態は続けられない。
「魔王となって地獄の軍団を引き連れて蘇ったレーニンを、もう一度殺して地獄の奥底に叩き落とす覚悟がドイツには必要だ。無論、これは比喩で地獄の軍団はソ連軍と市民、魔王レーニンの肉体はレニングラードという街そのものだ」
だから、レーニン本体を倒さねば、地獄の軍団は逃げ出さない。いや、
「クルス卿、つまり守る意味のない瓦礫の集合体となるまでサンクトペテルブルグを粉砕せよと?」
ああ、中の住人ごとな。
「ハイドリヒ卿、あの街は時間をかければ墜ちる様な性質の街じゃないですよ? サンクトペテルブルグを歴史用語にするくらいの気概でダメージを与えなければ、満足いく結果にはならないでしょうね」
もっとも、そこまでやっても破壊しつくす事は不可能だろうけど。
「……そこまでかね?」
「そこまでですよ」
俺はマンシュタインに頷き、
「やるなら徹底的にやった方が良い。形あるものはみな壊し、全てを更地にする勢いで。歴史的建造物は”
他にも色々あるけどな。「サンクトペテルブルグで粘れる
「つまり、サンクトペテルブルグ市民の心を折れと?」
ははっ。バカを言わないでくださいよ。
「折るのは市民だけじゃ足りない。全く足りない。赤軍も共産党員も、今あの街にいる全ての地位の人間が、”この街はもうだめだ”と諦めるまで叩かないと無意味なんです。たろ僅かでも『粘れるかもしれない』なんて希望を残しちゃいけない。おそらくそこまでやって、ようやく連中は東へ逃げ出すでしょう」
そう、そうなれば自分が生き残るために政治将校や督戦隊を撃ち殺しても生き延びようとするはずだ。
目の前にはドイツ人の手による確実な死が待っているのだから。
「ああ、東への退路を開けておくと言っても追撃戦に手心を加える必要はありませんよ? 撤退を行う相手に追撃をかけるは戦場の慣わしにして礼儀です。追い打ちかけた方が必死で逃げてくれるでしょうし……」
それにね、
「我々は、いついかなる時でもアカを”
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます