第78話 来栖、久しぶりに後輩と邂逅す
「つまりな杉浦、今のドイツのユダヤ人に対する処遇は隔離政策以上の物じゃないってことだ。確かに労役はあるが、それも明らかな人道違反という雰囲気でもない。衛生状態は底辺のゲットーよりはマシで、栄養状態は餓死者が出ない程度にはなっている」
と、ドイツ側が用意している「対外リーク用強制収容所資料」を元に作成した日本語の資料を後輩の外交官、”杉浦千景”に手渡す。
普通、この手の資料は「悪い内情をよく見せようと生活状態を上方修正」して作成されるものだが、ドイツの場合は諸事情により逆で「内情を悪く見せようと生活状態を下方修正した」したものだ。
当然だ。あんな「ドイツの一般的な都市生活者と似たり寄ったりの生活してます」なんて公表できる訳はない。
そして、俺が作成した資料は「ドイツが用意している資料を、心持ち更に下方修正」したものだ。
まあ、さっきも言ったが「ドイツ政府公式資料」は一般常識では上方修正されると思われるだろうから、資料の信憑性を出すためには少し下げた方が良い。
俺の資料は読む人間が読めば、「死にはしないが、それでも過酷と言える生活環境」であり、欧米人が一般に考えるゲットー=貧民街のイメージから大きく外れない物になっていた。
言い方を変えれば、「敵対国家が望むドイツ人のユダヤ人に対する扱いよりちょい上」くらいだ。
ああ、悪い。
来栖任三郎だ。
今は7月後半、俺はリトアニアの首都”ヴィリニュス”ではなく、リトアニア唯一の港湾都市”メーメル”に来ていた。
この街の名が1941年の時点で”クライペダ”でないのは史実通りで、また住民選挙で39年からクライペダからメーメルに変わった経緯も同じだ。
ドイツ系住人の多いこの街に来た理由は、当然のように「バルト三国ユダヤ人避難者救済事務局」代表にして外交官として後輩の杉浦千景と面会する為だった。
「いや、まあ想定していた内容と大きな誤差は無いですが……やはり、米ソの一部マスコミが過剰報道しているようなガス室はなかったということですか?」
「俺も本当の意味でドイツの深部や暗部を見た訳じゃないが、少なくとも俺が視察したユダヤ人強制収容所にはないと思うぞ? 何より、ガス室の存在だけでなく使われている薬品まで特定しているのは明らかに怪しいだろ?」
「それに関しては。というか何故に殺虫剤?と同僚もしきりに首をかしげてましたが」
まあ、転生者じゃなければそういう結論になるだろうさ。
実際、前世でも現世でもドイツは第一次世界大戦で毒ガスを使用していて、ツィクロンBより遥かに殺傷力の高い毒ガスなぞごまんとある。
ちなみにツィクロンBは特にシラミに対して有効で、現在では開発国のドイツに限らず穀物などの燻蒸殺菌なんかに広く使われている。
言ってしまえば、一般的には農薬の一種だ。
(とはいえ、ゴシップ紙に掲載される記事程度の情報を、米ソは本気で信じちゃいないだろうが)
俺の推測では、米ソの”転生者”は政策に直接的影響を与えられるほど高い地位にはいないと思われる。
何しろ前世と動きが酷似し過ぎているのだ。
もし、ソ連にスターリンに助言できる地位に転生者がいたら、こうも鮮やかにバルバロッサ作戦は決まらなかっただろうし、米国は日本側の立ち位置や政策が俺の知ってる歴史と異なってるから対日政策が異なっているだけで、米国内だけで見ればニューディール政策といいレンドリース法といい史実と大差ない。
おそらくは「ドイツ=悪の帝國」って市民に分かりやすいイメージだから情報を放置してるってとこだろうな。
「できれば内部写真など添付してもらえれば、より説得力があったのですが」
実際、添付しているのは収容所の外観写真だけだ。
「言いたいことはわかるが、あそこは一応、国家機密の施設だぞ? 内部撮影の許可なんておりんさ。無理を通して命を縮めるのも御免だ」
ということにしておくか。
実際、内情は明かせんわけだし。
「それもそうですか。わかりました。報告書は確かに受け取りましたが……額面通り、ドイツはユダヤ人の国外脱出に妨害しない方針でよろしいので?」
実は会合場所を首都のヴァリニュスではなく港町のメーメルにした理由がこれだ。
この街には、脱出船待ちのユダヤ人が多く滞在しており、「バルト三国ユダヤ人避難者救済事務局」管轄下の施設も多くある。
「それに関しては確約がある。脱出しない、できないユダヤ人に対しても報告書の通りだ。少なくても、底辺のゲットーよりはマシな生活が送れるはずだ」
「ドイツは、そこらへんは配慮してくれると信じて良いので?」
信じる信じないの問題じゃないが、
「国中のそこかしこに新たなゲットーを作るよりは、最終的な維持管理は楽になるし経費も安くなるってとこだろうな。政策的に、あるいは支持基盤的にユダヤ人に対し隔離政策を取らねばならんが、手間も経費も低く抑えたいってのはドイツも同じだ」
「そもそもユダヤ人に対する迫害政策とかやめていただけると、私としては助かるんですけどね」
いや、後輩よ……
「そういうのは、俺ではなくナチ党と掛け合ってくれ」
「違いありませんね」
なんか力なく笑ってるが、まあ疲れる仕事だろうしな。
「ところで先輩はベルリンに戻るので?」
「いんや」
悪いが別口の出張が入っているんだよな。どういうわけか。
「ラトビア、リガ市に出張だよ」
「リガに? またなんで?」
「リガ市で開催される”
「は? ”リガ・ミリティア”? なんです、それ?」
「あー、バルト三国ってまだ解放されたばっかで国権の完全復帰、再独立までまだ時間がかかるだろ? だから当然、国軍も再編できてないわけなんだが……」
頭の痛い問題だぜよ。
「アカに酷い目に合わされた血気盛んな元バルト三国の軍人さんや市民の皆さんが、義勇兵扱いで良いから『サンクトペテルブルグ攻略戦』に参戦させろって騒いでる訳」
気持ちはわかるが、前世のドイツならいざ知らず、今生のドイツに「復讐のために参戦させてくれ」たって通るわけがない。
そもそも戦争やってる目的が違うのだ。
ドイツの戦争目標は”ドイツ国民の生存権”、つまり”レーヴェンスラウム”の確保のための戦争だ。
このドイツ国民って定義は、何もゲルマン民族だけを指してるわけじゃない。
ドイツ国籍を有する全ての国民であり、民族や人種に制限はない。
また、ドイツは単独でそれを為そうとしているわけでは無い。
実は、フランスだけでなく占領下においた様々な国を可能な限り早く親独国家として再独立するよう行動しているのも、その一環だ。
(おそらく、モデルケースにしているのはEUとNATOだろうな)
ドイツ人は帝政ドイツの経験から、「多民族の単一巨大国家」と自分達が望む政治スタイルとあまり相性が良くないことを学んだらしい。
実際、ドイツは”ドイツ単独での膨張”をこの戦争でもあまり行っていない。簡単に言えば、帝政ドイツの領土復活を望んでいるわけでは無いのだ。
分かりやすい例で言えば、”アルザス・
独仏の歴史的係争地として知られるここは、現在は独仏の共同管理地として決着、”独仏友好の象徴”という扱いになっている。
要するに面倒臭い領土問題や民族問題を棚上げできる環境を作り、「共通の利益」を提示しようってことなんだろう。
少なくとも、多数の民族問題や対立って爆弾抱えたまま大国運営するよりはずっとリスクは少ない。
(結局、損得勘定ってのは人類の共通理念な訳なんだし)
誰も損はしたくないし、得はしたい。
それを根幹にドイツは内部構造が脆い単独の”見かけ倒し大国”を目指すのではなく、”ドイツを中心とした強固な連合体”を作ることによりレーヴェンスラウムを確保し守る方向に舵を切っているのだろう。
この方向性の最大のメリットは、民族対立や民族問題を抑制できれば、ドイツは宗旨国として利害調整だけに頭を悩ませれば良いというところだ。
そもそもである。西欧州全域に跨る巨大国家の運営統治より、ドイツを群れのボスとして認める国家群の調整役の方が、間違いなく統治リソースが小さくて済む。
歴史用語にローマ帝国や神聖ローマ帝国の再建を目指すのでもなければ、「ドイツは持て余す巨体を持つのではなく、欧州の
(これは、そういう戦争なんだよな……)
レーヴェンスラウム構築のための戦争に、民族感情や国民感情は考慮はされても優先される事はない。
それがドイツ人以外なら尚更だ。
サンクトペテルブルグを攻略するのも、大きな意味では手段であって目的ではない。
さらに言えば、本質的に言えば「いかなる形であれサンクトペテルブルクを占領下におく」事であって、「ロシア人を(復讐のために)殺す」事が目的ではないのだ。
結果として大量のロシア人は死ぬかもしれないが、それは結果であって目的ではない。
(そのあたりをはき違えると、酷く面倒臭いことになるんだが……)
なんだか、途轍もなく嫌な予感がするんだよなぁ~。
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