第71話 渤海海峡通商条約 ~それはかつて確かに存在した筈の日米友好の時間~




 さて、前回の話を掌返しするようで悪いが、実は日米にも蜜月期とは言わないが接近し、互いに友好的に接した時代がなかったわけでは無いのだ。

 例えば、第一次世界大戦直後、ヴェルサイユ条約が締結され、各国で戦後体制や戦後復興が動き始め世界恐慌で終焉を迎える”黄金の20年代”初頭の頃だった。

 ソヴィエト連邦はまだ正式に樹立していないこの時期、日本皇国は困り果てていた。

 最初から日英同盟に基づき第一次世界大戦に連合皇国側としてフル参戦したご褒美に、日露戦争の時に英国からの借款はチャラになったが、それだけでは戦費が足りず米国から借金をしていたのだ。

 いや、それならまだ返す算段は立ったが、戦後賠償の一環として日本に併合された土地の多さに頭を抱えていた。

 おさらいになるが、日清戦争で日本は台湾島・海南島・遼東半島を領土として手に入れた。

 日露戦争では遼東半島を守り切った結果(というより、基本的に日露戦争は遼東半島防衛戦に終始していた)、判定勝ちで樺太島全域を日本領土とした。

 

 正直に言おう。この”新領土”の国土開発が終わる前に第一次世界大戦は始まり、日本は新たな領土を得てしまった。

 史実では青島だけだったが、日本がハッスルしたために青島のある山東半島全域、そして史実通りの南洋諸島だ。

 南洋諸島はまだ良い。人口も当時は少なくこれといった産業もない。正直に言えば、(対米戦を考えなければ)農地開発と観光業で経済を成立させることが可能だ。

 

 しかし、山東半島は大問題だった。

 当時の情勢を説明すると、実は既に自国領だった遼東半島の維持運営すらも、第一次世界大戦で消耗した日本皇国にとっては既に重荷だった。

 何せ外部、国境線の東側ではロシア革命の真っただ中で、いつ飛び火してくるかわからない。内部では日清戦争の結果を受け入れられない中華思想をこじらせた現地人と共産主義にかぶれた現地人が不穏な動きをして久しく、じりじりと治安コストを押し上げていた。

 特に中国を半ば植民地していた北京条約に署名した八ヵ国連合が米国を除き第一次世界大戦の影響で国力を落とし、かつてのほどの軍事力行使を中国大陸でできなくなっていたため、中華思想的運動が高まりを見せており今後も維持コストの上昇が予想されていた。

 

 話はずれているように感じるかもしれないが、史実の大日本帝国の中国大陸進出の理由の一つが、実は食糧事情にあったことをご存じだろうか?

 当時、稲をはじめとする主要作物の品種改良は今ほど進んでおらず、作付面積の割には収穫量は低く、また大規模開墾や広範囲農地に必須な重機や農機、いわゆる農業の機械化はまったく進んでいなかった。

 これらが増え続ける日本の人口を賄うために、自国領の拡大……広大な農地を必要とした理由である。

 

 

 

 だが、この世界線は少なくとも食料自給率に関しては、大幅に状況が異なる。

 はっきり言えば、農業特化型の歴代転生者が色々やらかしたのだ。

 まず、史実では太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)にようやく開発に成功した「寒さに強いコメ」の代表格である”コシヒカリ”が30年近く早い第一次世界大戦の最中である1917年に開発され、戦後の安定期に入ったこともあり瞬く間に全国に普及した。

 また増えた収穫量に呼応するように、なんと史実より30年以上早く動力式設置型自動脱穀機や動力式刈取機バインダー、それに国産トラクターや耕運機が1920~30年代に相次いで登場しているのだ。

 

 人によっては、”日本皇国のモータリゼーションは、自動車より先に農業分野において行われた”と主張するほどの急発展ぶりだった。

 それは「自動車に搭載するには馬力はでなくてもコンパクトな発動機」の開発や量産に成功したからであり、それは当時から現在まで続く国策として資金を投じ続けている各種発動機エンジン電動機モーターの研究成果だった。

 

 そのせいもあり、少なくとも主食である米とやせた土地や寒冷地でも育つイモ類において、日本は食糧不足の危機から1930年代半ばからはよほどの事がない限り解放され、また日英同盟が健在だったために巨大な作付面積を誇る英連邦豪州などから必要なら輸入も不自由なくできたのだ。

 

 ちなみに食糧輸入額に関しては、1941年現在でも米国にもかなりの金額を支払っている。

 さらにブルドーザーなどの重機や自動車、日本では製造していない大型農機も輸入してたりしているので、実は貿易額はかなり大きく、対日貿易に関しては米国は完全に黒字だった。

 

 

 

***




 そんな事情もあるのに、将来的に作付面積あたりの収穫量の拡大、それによる食糧生産量や自給率の改善が見込まれてる中、山東半島併合はハイリスク・ローリターンでしかなかった。

 当時の日本皇国がどれほどその事態を忌避していたかと言うのは、その後に「日本を中国大陸に押し戻そうと政権転覆による方針転換を目論む勢力」が国内に出てくるたびに、主義主張民族人種を一切合切問わずに、手段を択ばずに叩き潰したことからも見て取れる。

 

 さて、そんな中に声をかけてきたのが米国だった。

 米国は日本に、こう声をかけてきたのだ。

 

『遼東半島を売ってくれるなら、第一次世界大戦の戦費貸し付けをチャラに、山東半島も含めるなら更に同額だそう』


 と。これに当然、日本は飛びついた。

 英国のネガティブキャンペーンもあり、ファーストコンタクトこそ成功したとはいえない対米関係だったが、第一次世界大戦においては戦費を調達できる程度には関係は改善していた。

 これは、前にも少しだけ触れた国内の急速な近代化による労働力確保の為、明治政府発足後、程なく他国への移民を原則禁じ、また早期に移民していた日本人にも帰国命令が出ており、米国における日系移民が事実上存在しなかったというのも大きい。

 全くの皆無というわけではないが、それでも史実と比べるなら1%以下である。

 つまり、日米問わず”コミュニティと認識できないほどの少数派マイノリティ”であり、アメリカ人のほとんどは日本人がごく少数ながら米国にいることを知らないでいた。

 もし、史実のような日系移民の多さゆえの排斥など起きていたら、こうはならなかっただろう。


 そんなバックボーンの中、当時の日本皇国政府は「この先、遼東半島と山東半島を日本皇国領土にした場合に試算された出費と歳入(=大赤字)」を国民に大々的にアピールする一大キャンペーンをうったのだ。

 ただし、その試算には未発見、あるいは未発掘の地下資源などは当然のように含まれていない。

 未発見はともかく、未発掘な資源は治安的な物から技術的な限界も含め相応に「採算が合わない」と判断されたもので、手の届かない”絵に描いた餅”以外何物でもないというのが理由だった。

 

 

 

 そして、米国には米国の事情があった。

 米国の第一次世界大戦参戦は終戦の1年前である1917年であり、その分、得られた戦時賠償請求権は小さく、また実益がほとんど無い為(後々、ドイツの恨みを買うリスクを考えれば)請求権放棄は当然の結果だった。

 当初は英仏などに貸した戦費の回収とその利息で満足する予定だったが、そこに駐日米大使から転がり込んできたのが、「皇国政府から受けた借款返済に対する相談」だった。

 元々、中国市場を新たな経済的フロンティア、あるいは未開拓巨大市場ブルーオーシャンと考えていた米国財界人は多くいたのだ。

 そんな米国にとり、日本の窮状はまさに本格的に米国が中国大陸に進出し、権益の大幅拡大を狙える千載一遇の好機だった。

 

 そして、案の定、日本は食いついてきたのだ。

 おまけに日本は大陸経営から完全に手を引きたい、金を出すなら日本が持つ北京条約における権益を全て米国に売却、撤退すると言いだしたのだ。

 当時のアメリカ人政府高官は日本人の商売下手と国の貧乏さを内心で笑いながら、結局、第一次世界大戦の戦費貸し付けの3倍の金額を日本に即金で支払ったのだった。

 

 付け加えると、この金額は未だ恐慌を経験しておらず、終戦の解放感から経済が伸び盛り、連日のように株式市場が高値更新していた金満アメリカ合衆国にしてみれば大した金額ではない。

 何しろ、3倍にしても英仏に貸し付けた戦費の元本よりずっと安いのだ。

 この時の取引、渤海と黄海を隔てる二つの半島による渤海海峡に関する取り決めのため……

 

 ”渤海海峡通商条約”

 

 と呼ばれたそれは、間違いなく日米にとってWin-Winの商取引であった。

 日本は米国を更に喜ばせるようにこう宣言を加えた。

 

『朝鮮半島を含め、今後、中国大陸に”例え何が起きようと・・・・・・・”日本皇国に軍事的実害がない限り、一切関知しないし関与も干渉もしない』

 

 と。また、大陸産の物資商取引は北京条約加盟国のみと行い、宣言を遵守するため現地勢力ちゅうごくとの商取引や交易、政治的交流も禁止すると明言し、法で定めた。

 つまり、中国大陸の政治や経済の問題を今後は日本に持ち込むなと言い放ったのだ。

 そりゃもう、明らかに「戦後の中国関係やら南北朝鮮関係にうんざりした経験をもつ転生者」が頑張ったのだろう。

 

 日本皇国からすれば損切の厄介払い以外何物でもないが、米国には「自分の力をよくわきまえた、サムライらしく潔いよい全面撤退」と国力の小ささに対する皮肉と(貧乏さに対する)憐れみ交じりだが、総合的には好意的に解釈された。

 裏事情をある程度分かっていた英国は何も言わなかったし、当時の「自分の国の戦後処理で手一杯」だった英国にできることはなかった。

 日本には潤沢に金を払い、英国には戦費の貸し付けを減額なしで支払えとする政策は、明らかに離間工作ではあったが、だからと言って日英の国民気質から考えて、米国の情報操作にさえ注意すれば大きな問題にならないことも分かっていた。

 

 

 

***




 その後も、米領遼東・米領山東となった後も大きな歴史的変遷はいくつもあった。

 ソ連樹立や世界恐慌、ナチスの再軍備宣言は言うまでもない。

 

 だが、日本の周辺だけ見ても、例えば、日露戦争でロシアが侵攻し占領した朝鮮半島38度線以北は”朝鮮人民共和国”となり、残った38度線以南は大韓帝国から今や隣国となった米国の意向もあり比較的流血少ない(無血ではない)政変により、君主制を廃止し議会制民主主義国家”大韓共和国”として再出発した。

 

 中国大陸ではついに(本当に日本が足抜けし、その後何も介入しなかったため満州事変も満州国もない)どこにも保護を受け入れられなかった愛新覚羅は失意の中で絶えた。

 中国大陸は新たな国家構築を目指した孫中文死後、ソ連を背後に持つ共産党と米国を背後に持つ国民党が袂を分かちつつ鎬を削り、一時期激しい内戦を繰り広げていたが……30年代後半には徐々に小康状態になり、1941年現在は国境線が未だあやふやなままだが、ソ連の支援を容易に受けれる西部を拠点に共産党が起こした”中華人民共和国”、(皮肉なことに)米国の支援を潤沢に受けれる史実の満州から沿岸領域の東部を拠点とする国民党が立ち上げた”中華民主共和国”がそれぞれ国家を名乗っていた。

 ただし、日本皇国はどっちとも国交は当然ない(無論、大韓共和国とも)。

 

 

 

 

 

 

 まあ、これらの事情を考えると、米国が共産主義やら国民党やらに食い荒らされる遠因は日本皇国にもあるような気はするが……

 

「しかし、ノムラ……これは合衆国政府の人間ではなく私人として、いや友人として言わせてもらうが、君の言うことが事実だとしたら、今後の日米関係はかなり不味いことになるぞ?」


「というと?」


「ルーズベルトは病的なほど中国を耽溺し、日本を毛嫌いしている。また、中国人の一部は日清戦争の恨みを忘れていない」


「知ってるさ」


「あの大統領なら、今すぐでなくともドイツやソ連の問題が何らかの形で片付けば、いつ日本に逆恨み・・・をぶつけるかわからん」


「そうかもな。だが、それでも仕方あるまい? 日本皇国はソ連の為に、あるいは米国の為に存在しているわけでは無い。日本は日本人の為に存在しているんだ」


「例え、米国と開戦することになってもか?」


「移民の末裔たるアメリカ人には、土着性の強い日本人の心情はわからんかもしれんが……」


 野村は紫煙をくねらせながら、

 

「結局、日本人が日本人として生きて行ける場所は、世界で日本皇国しかないんだよ。我々日本人はそういう風にできているのさ」



 


 

 

 

 

 

 

 




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