第51話 とある独裁者の胸の内
”ヒトラーのユダヤ人政策”
明らかに不穏と不吉を感じる響きだが、どうにもきな臭く手酷い裏表がありそうではある。
「ユダヤ人を懲罰したい」と考える”背後の一突き”を信じる(信じたい)、敗戦と戦時賠償による貧困にあえぎ、憎悪の振り向け先を探していたドイツ民衆の多数派と、その渇望にも似た感情を誘導することで自分達の支持基盤としたナチ党……
しかし、この世界線におけるドイツ総統”アウグスト・ヒトラー”は、それらは唾棄すべき感情だという本音を持ちながらも、為政者としての自覚はあるのでその国民感情や大衆心理を無視することも無碍にすることもできない。
”独裁は、支配者と被支配民の間に
その事をヒトラーはよく心得ていた。
とどのつまり独裁者とて政治家の一ジャンルに過ぎず、その本質は”人気商売”なのである。
無論、強権的に民衆を弾圧し、いわゆる恐怖政治を行い強引に独裁政治を敷くこともできるが……はっきり言えば、そのような政治は長続きしないし、国力も上がらない。
恐怖により隷属させるそれは、国民を奴隷として使役するに等しいからだ。
また、抑圧と恐怖が国民の許容量を限度を超えればどうなるかも、事例に事欠かない。民衆に見限られた……民衆が我慢の限界を超え、反旗を翻した後の独裁者の末路は悲惨だ。
選挙という手段で国民に見限られた政治家は議席を終われるだけで済むが、独裁者は高確率で命を落とすのだから。
そのような事例は歴史上、いくつも存在する。
だからこそ、ヒトラーはナチ党の支持母体であり、そして自分を熱狂と共に独裁者として認知する多数派のドイツ国民を軽く扱えないのだ。
つまり、「大衆が望むカリスマ」としての自分を体現し続けなければならない。
しかし
思想的に国家を認めぬという者を抹消するのは、構わない。
心情的にドイツと敵対すると宣言あるいは行動する者を抹消するのは気にも留めない。
政治的信条から、ドイツを赤色に染めようとするなら、他人の血でなく自分の血で地べたや壁を赤く染めてくれと鉛弾を放出するのも厭う気は無い。
それらは無駄とは思わない。
無政府主義者も社会主義者も共産主義者も、ドイツという国と相容れないと言うのなら、この世から消えるのは実に結構なことだとさえ思う。
上記の者たちは後天的かつ能動的に自分の行動指針を、自ら意思決定し敵対を選んだのだから。
だが、”人種・民族・国籍”という先天的かつ受動的な要素で人を選別するなど非合理の極みだとヒトラーは考えている。
無論、民族性や国民性があることは彼も否定しない。
それは先祖より社会や周辺環境や家庭環境が堆積し、沈殿してきたもので生成されることを知っているからだ。
同時に彼はドイツ人、ドイツ国民とは何ぞや?
と自問自答したとき、どれほど絞り込んでも……
・ドイツ国籍を持ち
・ドイツに定住し
・ドイツ語での会話と読み書きができ
・ドイツ人としての教育を受け
・ドイツ人としての社会通念と一般的な常識と価値観を持ち
・国民として労働と納税の義務を果たす者達
ということになる。
そこに人種だの民族だのに重きを置く気にはどうしてもなれない。
そもそも人種という概念が、ヒトラーにとり酷く曖昧に思えてしまう。
ナチ党が政権を取って以降、しきりに聞くアーリアン学説に基づく”アーリア人”などという概念だが、奇天烈に思えて仕方がない。
例えば、アーリア人の身体的特徴とされる”高身長、金髪碧眼、白人”というものは、ただの北方人種の特徴である。
それを聞くたびにヒトラーは、
『君の国の総統は、そのアーリア人としての身体的特徴を持ち合わせていないのだが?』
と言ってやりたくなった。いや、実際に言ったこともある。主に政治的に排除したい相手にだが。
目は碧眼の白人だが、身長は175㎝と高い方ではなく髪も黒だ。
ヒトラーに言わせれば、通称”ニュルンベルク人種法”として知られる「帝国市民法」や「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」など民俗学的ヒステリーに思えて仕方がないのだ。
最も全く評価してないわけではなく、むしろその前に存在した「職業官吏再建法暫定施行令における”アーリア条項”」に定められた”完全ユダヤ人”とやらの定義に比べれば、その枠組みが幾分緩和されている(完全ユダヤ人とされるユダヤ系ドイツ人が減少している)のが救いだった。
(国民の義務をわきまえ納税するユダヤ人と、脱税するアーリア人……どちらが国家にとって害悪なのか、子供でもわかりそうな物ではあるのだが)
だが、その子供でも分かる理屈が通らないのが、今のドイツであることも理解していた。
(人は弱い)
だからこそ、その身の不幸を、不遇を誰かに押し付けたくて仕方がない。
だから、自分以外の誰かを諸悪の根源にしたくて仕方がない。
自分が不幸だと思う人間は、自分以外が幸せそうなのが許せない。
人間は本来、寛容な生き物ではない。狭量な生き物なのだ。
寛容は豊かさの副産物であり、生きることに苦労がないからこそ持てる心境だ。
貧すれば鈍し、鈍すれば窮し、窮すれば濫す。窮すれば通ずという諺もあるが、その時の通ず=道が開けるように浮かんだアイデアは、特に命にかかわる窮地であればあるほど血腥くなる事が多いのは、どの時代のどの国の犯罪史も教えてくれる。
これが個人ではなく国家や民族単位の不遇になると、集団心理まで関わってくる。
例えば、貧乏人の金持ちに対する妬ましさが凝り固まって起きるのが、そう”革命”だ。
赤色革命の主役となったヴォリシェヴィキが元々はどういう集団で、彼らが目指したプロレタリアート独裁が何を目指し、誰が敵として定められたのかを紐解けば自ずと答えは見えてくるだろう。
(全く、面倒なことこの上ないな)
だからこそ、ヒトラーはドイツ国民の希望を叶えるため……そして、無駄を省くために頭を捻った。
そして、ヒトラーが二つの矛盾する問題を同時に解決するアイデアを書き留めた時、それを実行できる段階まで作戦として仕上げ、実行したのが他の誰でもないNSR、国家保安情報部を率いるレーヴェンハルト・ハイドリヒであった。
アウグスト・ヒトラーは知っている。
自分が万能の神などではないということを。
ヒトラーは、知っている。天才であろうがなかろうが、個人の脳味噌で処理できる限界があるということを。
彼はニーチェの「神は死んだ」という言葉やそれに密接に関係する「反ユダヤ者主義者に対する嫌悪感」は嫌いではないが、同時に彼の”超人”思想は理解の必要がない物と切り捨てていた。
人はそこまで賢しく生きられる生物ではないと知っているが故に。
(人は一度死んだぐらいで正しく生きれるほど、知性のある生き物ではない……)
自分も必ず間違いを犯す。
何故なら、愚かしい人間の一人なのだから。
だからこそ、彼は自分のアイデアを「最終的解決法」プランという形にハイドリヒがまとめてくれたように、周囲に他人がいる重要性を理解していた。
アウグスト・ヒトラーは確かに独裁者という立ち位置に居る。
だが、その中身はこの場の誰よりも独裁者らしくはない。
(私は”民に望まれた総統”という役回りを演じればいいのだよ……)
だが、それは総統という責任から逃げるのと同義ではない。
ある意味、ヒトラーの内面は複雑奇怪であり、そうであるが故にオカルティズムなどを信頼に値しないものと認識していた。
本人に言わせれば、その様なものは己の身だけで食傷気味なのだろう。
どこまでも現実世界で足搔く総統閣下……その歪な在り方が、この後どのような結果を導くのか?
それは今は誰にも分らない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます