第26話 例えば、その信頼が重かった
さて、クレタ島防衛最高責任者である栗林忠相中将が、重すぎる期待を受けている間に、少々状況を整理しよう。
前回までの話で、中東英軍の一部がイタリア人と一緒になってドイツ人が攻め込んできたギリシャに援軍に向かったという話はしたと思う。
そして、英軍がギリシャで奮戦している間、日本は外交ルートでまだ健在だったギリシャ王室と政府に連絡を取り、クレタ島を要塞化「英軍の後方支援基地とギリシャ最後の砦」の両面を併せ持つ拠点へと変える内諾を得た。
だが、もう少し現状を把握するには情報学的肉付けが必要だろう。
実は、ギリシャの戦いではドイツがユーゴスラビアの政変を「君子危うきに近寄らず」とばかりに意図的に無視して踏み込まず、余計な戦いを避けてバルカン半島東岸ルートを主侵攻ルートとしたために余力があったこと+アルバニアでの陽動やギリシャ軍の誘引が予想以上に成功したこと、英国軍は英国軍で日本がトブルクに続いてクレタ島の防御を担当すると申し出たために、想定以上の戦力を送り込めたこと、そしてギリシャ政府の首脳陣が史実と大差なかったことが重なり、結果として詳細は異なるが大筋では史実と同じ流れとなってしまった。
つまり、クレタ島を除きドイツの”マリータ作戦”は大成功をおさめ、1941年4月30日までに英軍はギリシャ本土より叩き出され、アテネは陥落した。
奇しくも史実と同じ4月23日にギリシャ国王”グレゴリウスII世”は、アテナからクレタ島のイラクリオンに遷都を宣言する事になった。
だが、ここで我々の史実とは異なる事例が頻発するのだ。
まず、マニアックな話からすればクレタ島に避難したギリシャ国王が滞在していたのは、史実ではクレタ島第二の都市であるハニア市郊外のペリヴォリア村にある自身の別荘に滞在していたが、この世界線では中心都市イラクリオンの一等地にある1920年代に完成したとある高級ホテルを仮初の王宮と定め、他の王族共々堂々と暮らしていたのだ。
この心理的変化の裏付けとなっていたのが、日本皇国軍の存在だった。
ギリシャが親日国であることは前にも述べたが、このいっそ重いほどの信頼は何も友愛に裏打ちされたものではない。
今から約半世紀前に圧倒的な大国であったはずの帝政ロシアから自国領を守り抜くどころか海の上では壊滅の憂き目を味合わせ、先の大戦では多くの武官たちが「決して陥落せぬ堅牢鉄壁」を目撃していた。
更に昨年には怨敵イタリアに対して鉄槌を振るい、見事に最大の軍港を駐」艦隊ごと歴史用語にしてしまったのだ。
英国主導の作戦ではあるのだが、投入された兵力から考えて「作戦を立案したのはイギリス人で、作戦を実行したのは日本人」だとギリシャ人は考えていた。
また、欧州諸国の多分に漏れず、ギリシャ人もまた日本皇国軍は守備こそを金科玉条とする軍隊と思っていた。
つまり、日本人が守りに徹すれば、ドイツ人が何をしようとまず落ちることはないと。
もし、クレタ島に残っていたのが英国系の軍隊であったら、多分、国王は史実と同じく別荘に引きこもっていただろう。
英国軍の奮戦は勿論、評価も尊敬もするが、中東英軍の司令官であるアーチボルト大将がどういう人物で、どういう戦績で、何を口走っていたか国王は知っているのだから。
『我々が命運を託すのは、アーチボルトではない。それが幸いだ』
繰り返すが、その期待が重かった。
***
だが、ギリシャ人の思いも実はそう的外れではない。
まず、この世界線のドイツの真意と本懐が史実のドイツとだいぶ異なっていることを加味しなくてはならない。
確かにルーマニアのプロイェシュティ油田を第一に考えるのは同じだし、バルバロッサ作戦……ソ連侵攻を控えているのも確かだが、だが彼らは戦略目標を見誤る事は無い。
そして、史実ではいないはずの日本の軍隊がクレタ島を守備してるのも大きい。
だが、状況に関してもっとも影響しているのは、もしかしたら「ギリシャから撤退した英連邦陸上軍が
これはどういうことか?
順を追って説明しよう。
まず、史実と同じくほぼ重装備を失っていた英連邦諸国陸軍将兵約5万は、クレタ島には立ち寄らず一目散に戦力再編の為に中東英軍司令部のあるアレクサンドリアに撤退していた。
クレタ島に同盟国の精強な軍隊がおり、いわゆる”ケツ持ち”をしているのだから当然の英国式判断と言えた。
そして、史実では……実はクレタ島に残った英軍こそが、クレタ島を陥落させる引き金を引いてしまったのだ。
まず、前提として当時の英国にはクレタ島どころかギリシャに援軍を送ることさえ懐疑的な勢力が多くいた。それを強行したのがチャーチルだ。
当時、クレタ島の守備責任者に任命されたのは、英軍のフレイバーグ少将という人物だったが、彼は部隊の配置をミスしてしまっていたのだ。
具体的に言えば、「ドイツ人が空挺作戦を行うのに最適な飛行場(マレメ飛行場)の周辺に、わずかな兵力しか配してなかった」のだ。
これにも理由はあるのだが、後に彼がこの配置で強烈な批判を受けたのは事実だ。
加えて、強力な空軍力をドイツ軍は有しているのに、5月14日には残存する英空軍機はすべて……マレメ飛行場に駐機していた分も含めてエジプトへ撤退してしまい、おまけに滑走路の破壊措置や地雷埋設などの対応は取られなかった。
また、その上層もドイツが巨大な空挺部隊をクレタ島に差し向けようとしているのを知りながら、「ドイツ人に暗号を解読されていることを感づかれないようにするため」、あえて空挺作戦決行の前日(1941年5月19日)にも、なんら有益な警告をフレイバーグ少将に発しようとはしなかったのだ。
なので口の悪い歴史家の中には、「チャーチルはギリシャを助けようとしたが、クレタ島は見殺しにするつもりだったのでは?」という者もいる。
だが、安心してほしい。
この世界線では間違ってもそういう、なんというかスッキリしない戦いにはならないと断言しておこう。
理由は言うまでもなく日本皇国軍の存在だ。
彼らは、エニグマだの暗号だの関係なく、ドイツ人は近々飛行機に乗ってやってくると見ている。
実はこれは簡単な消去法だ。
クレタ島の近場で頼りになる枢軸国海軍と言えば、普通はイタリア海軍なのだが……残念ながら、こちらは”
今、彼らが動かせる戦闘艦はせいぜいが駆逐艦や魚雷艇で、今なお凶悪な能力を誇っている日英が地中海に展開している艦隊と対峙する方が無茶無謀というものだろう。
この世界線におけるイタリア海軍のダメージを印象づけるものとしては「マタパン岬沖海戦が発生しなかった」というものがある。
これは、ギリシャとアレクサンドリアの海上輸送路を、イタリア海軍が通商破壊を行おうとして史実では惹起したものだが……この世界線では、作戦自体が立案されていない。
それを行えるほど有力な水上艦が、イタリアには残っていなかったからだ。
イタリアができたのは、せいぜいドイツを真似た「潜水艦による通商破壊作戦」だが、潜水艦自体の性能はそう悪い物ではないが、通商破壊を行うには
特に相手は、先の大戦でドイツの
駆逐艦に
加えて、飛行艇なども哨戒任務に赴いているのが今の地中海だ。
このような状況で大量の兵員や装備を乗せた輸送船でクレタ島に近づくなど、日英同盟に標的艦を献上するようなものだ。
陸続きではなく海は論外となれば、残るは空しかない。
そして、史実でもこの世界線でも、ドイツはすでにギリシャでの戦いで空挺作戦を用いているのだ。
そして、栗林中将以下日本皇国軍は、その時の模様をつぶさに英国人将校から聞いていたのだった。
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