第18話 葉巻とコニャック、そして英国製古狸
日米とタラント強襲後の様子を見てきたが、今回の作戦の主役とも言える
「よもや、こうも上手くいくとはな……」
ダウニング街10番地ではなく、ロンドンにある超高級ホテル「
まさにその表情は、「これぞ至福の時」と言わんばかりだ。
それは上機嫌にもなるだろうし、酒も葉巻も美味い筈だ。
英国がプロデュースした作戦に、日本人がオプションプランを提示し、その二つが合わさり計画通りの兵力が抽出され、期待以上の戦果を挙げたのだ。
当初の作戦予定では、一時的にイタリア主力艦隊の半分も行動不能にできれば十分と考えられていた。
だが、そこに日本皇国軍の火力と機動力が加わることにより
そして、実質的にただ一度の戦いで、ほぼ地中海の制海権を掌握できたことが何より大きい。
イタリアにはナポリなど各地にまだ残存艦隊はいるし、中立を宣言してるとはいえメルセルケビールをはじめ、まんま勢力を残しているヴィシーフランス艦隊の動向も不透明だ。
流石に、地中海を”
これだけでも実に喜ばしい事だが、他にもチャーチルを上機嫌にさせている事がいくつもあった。
例えば、ジャッジメント作戦の直前まで……今年(1940年)の7月10日から10月31日起こっていた英国本土防空戦、通称”バトル・オブ・ブリテン”の英国側の防衛成功なんて話題はどうだろうか?
実はここでも、日本人たちは予想をはるかに超える大活躍をしていた。
インペリアル・エアフォース(皇国空軍)で代表例を挙げるなら、最新鋭の制空戦闘機「Type-1 ”Falcon”(一式制空戦闘機”隼”)」を駆る空軍第64戦隊(”加藤隼戦闘隊”として有名)や空軍第50戦隊(三羽烏が有名)。
彼らの操る機械仕掛けの猛禽は、まさにドイツ人の操る飛行機を
更に凄まじいのはマサシゲ・ヤマグチ(山口 正成)提督が率いていた雲龍型正規空母2隻を中核としたタスクフォースだ。
彼らは今回のミッションが”防空戦闘”と認識するなり、偵察用に僅かな数を残し艦上爆撃機と艦上攻撃機を降ろし、代わりに空母内の予備機だけでなく分解して輸送船で運んできていた艦上戦闘機”ゼロ・ファイター”まで突貫で組立てて積み込み、ドイツ機群に対する”
空軍からのレーダー情報と艦隊自前のレーダー情報を駆使して、ドイツ機の届かぬ彼方からゼロ戦の航続距離の長さを活かして飛ばし、片っ端から撃ち落としていったのだ。
空母2隻合計で100機に達するゼロ戦の群れは、どこから飛んでくるかもわからない(何せ基地が洋上を移動しているのだ)事も含め、ゲルマンパイロットの恐怖と怨嗟の的になったに違いない。
これでは、栄光の
何よりチャーチルを喜ばせたのは、タラントや英国本土防空戦で活躍した皇国軍部隊が、昨年(39年)の9月1日にドイツがポーランドに侵攻した同時に編成が開始され、地球の反対側から40年前半に英国に到着した”皇国からの増援第一陣”だということだ。
元々、日本皇国は1935年のドイツ再軍備宣言と同時に目に見える形で軍拡(戦争準備)を始め、日英同盟で駐留を要請されていた英国本土、ジブラルタル、マルタ島、アレクサンドリア(この4か所は英国→スエズ運河→日本のシーレーン防衛の意味もあった)への配備兵力を徐々に増やしていたが、戦争を想定した明確な戦力の到着、それが迅速に行われ両方の戦いに間に合った事は、一人の英国人として大いに喜ぶべきことだった。
何しろ、締結から改定を重ねて90年を経た「日英同盟」を、日本人は未だに遵守する意思を見せたのだから。
これは裏切り裏切られる、寝返り寝返られることが日常茶飯事の……「奇々怪々」と称される欧州政治においては宝石より貴重な事例であり、それに柄にもなく素直に感心してるのが英国だったのだ。
***
しかし、である。
全般的に英国にとり戦争が上手く推移している理由は、何も日本皇国の早期参戦ばかりではない。
バタフライ効果的な、あるいはメタ的な言い方をすれば、アメリカの情景にも出てきた1938年の日本皇国の”各国大使館を通じた世界同時発表”が実は遠因となっていた。
例の”赤色勢力に侵食される世界の現状”の情報の中には英国のそれも当然のように入っており、例えばかの有名な”ケンブリッジ・ファイブ”の名がスパイ活動内容やら何やらの詳細データ付きで五名分きっちり名指しされていた。
また、それを裏付ける資料「”第7回コミンテルン世界大会”」の詳細内容などにも事欠かなかった。
これのあおりを食らったのがチャーチルで、彼は”この世界”においても生粋の対独強硬論者だったが、彼のこれまでの言動が「コミンテルン大会で決定していた行動指針」に微妙に合致していたため、「ソ連寄りの政治家」、酷いものでは「ケンブリッジ・ファイブの黒幕」という風評がついてしまったのだ。
チャーチルの名誉のために言えば、黒幕に関しては事実無根である。
その為、当時のチェンバレン政権が推し進めていた”対独融和策”がより高い支持を得られ、同時にチャーチルが首相になるのが遅れた。
結局、彼が首相になれたのはバトル・オブ・ブリテンの最中、チェンバレンが体調を崩し政務を続けられなくなった1940年9月に入ってからだ。
だが、結果論になってしまうが……このこと自体は、英国にとり悪いことばかりではなかった。
まがいなりにも古参同盟国の言葉だ。鵜吞みにするわけではないが少なくとも米国以上に真剣に事態の収拾……平たく言えば”
これら一連の騒動で生じた国内の混乱と「ドイツを刺激すべからず」のチェンバレン政策の相乗効果で、英国軍のフランス駐留が流れたのだ。
つまり、”
それどころか英国の戦禍らしい戦禍は、フランス降伏後の”バトル・オブ・ブリテン”が最初だったのだ。
言い方を変えれば、英国は史実より余力をもって戦争できる状態になっていた。
その結果としてのバトル・オブ・ブリテンであり、タラントだった。
「ここからが本番だな……」
バトル・オブ・ブリテンを契機に、イタリアがドイツ側での参戦を宣言し、また自分の首相就任直前にぬけぬけとエジプトへと侵攻を開始した。
となれば、
(少々、英国人の土地に入り込んだ時の教訓を与えねばな)
「”あの作戦”を発動させるとするか……」
チャーチルはグラスに残ったコニャックを飲み干すと、もう一杯注文する。
明日の仕事に響かせないため、これを〆の一杯にするつもりだ。
英国紳士のたしなみとして、戦争と恋は手段を択ばぬものだ。
「今後も、我らが同盟国の活躍に期待するとしよう」
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