第2話 戦況確認(1940年10月~1941年4月:中東・バルカン半島)
「おーお、今日も”ハ109”は快調そうで何よりだ」
上空を
(それにしても、最低でも1年以上はどの分野でも技術加速してんのな……)
俺の知ってる歴史ならば、この時期の”鍾馗”のエンジンは、ハ109より出力の劣る前身の”ハ41”だった筈だ。
聞いた話だと、武装も”ホ103/12.7mm機関砲を機首と左右主翼に計4門とされているらしいが……
(要するに、”二式戦闘機二型丙”ってことだよな?)
俺の知ってる歴史なら、このタイプの”鍾馗”が戦場に現れるのは来年(1942年)の12月頃だったはずだ。
(しかも、空気式信管を採用した
ちなみにホ103機関砲の採用は俺の知る史実でも1941年だからツッコまないが、旧型ならともかく空気信管採用の新型マ弾が出てくるのは、早くても同じく42年のはずだ。
まあ、皇国と帝国の違いはあれど、第二次世界大戦前の日本に「空軍がある」って時点で、何を況やかもしれないが、
(こりゃ相当、あちこちに紛れ込んでるんじゃないか?)
「それにしても色々変わり過ぎだろうに」
陸攻も重爆も、統括して空軍が運用してるとかさ。
それと、「防空戦闘機」や「制空戦闘機」って分け方もだ。
軽戦や重戦、局地戦闘機とかって言葉は何処に行ったんだ?
「少尉殿、空ばっか見上げて気がつけば頭ザクロってのは勘弁してくれよ?」
と相方の小鳥遊伍長。
「伍長、お前さんはその口の悪さ、つーか余計な軽口さえ叩かなけりゃもうちょい出世できるだろうが? 最低でもこんな新米狙撃手のお守りなんかしなくても済むんじゃねーかと毎度思うんだがな」
すると小鳥遊はケタケタと笑い、
「俺っちは軍隊で出世したいとは思ってねーんで。新米のお守り? 平和で大いに結構」
いや、お前DAKが這い寄る混沌ごっこしてるに、よく平和なんて言えるもんだ。
こいつの肝っ玉って実はタングステン合金かなんかで出来てるんじゃねーのかな?
そう、ドイツ人たちが戦車に乗ってトブルクに押し寄せてから今日で一週間。
今のところ、可もなく不可もなしってところだ。
”俺の知ってる歴史”でも要塞化された港湾都市トブルクはそう簡単に陥落することはなかった。
1941年4月10日~11月27日までロンメル率いるドイツアフリカ軍団に包囲されたが、この時も耐えて見せた。
(まあ、翌1942年の再度攻勢ではあっさり陥落したんだが……)
しかし、その時の状況に比べても今のトブルクはかなりマシな防御態勢を取れている。
”俺の知っている歴史”の通り、調子に乗ってエジプトまで攻め込んできたイタリア人を、中東に居座るイギリス人達は”
それが、去年(1940年)の12月から今年の2月くらいまでの話だ。
だが、世界大戦の名に偽りなく、戦場は中東だけではない。
狭い地中海の中でも、いくつもの戦場があった。
その中でトブルクと連動しているのが「イタリアによるギリシャ侵攻」、いわゆる”ギリシャ・イタリア戦争”だ。
正直、この時代の空気を吸っていても、ムッソリーニの考えていることは俺には理解できん。
何せ北アフリカで英軍と角突き合わせているのに、去年の10月の終わりに突然、ギリシャへ侵攻をかけたのだ。
しかも、北アフリカに送るはずの戦闘車両1000台を投入して。
いや、一応事情はわかるよ?
これでも前世の教練で、このあたりの時代の戦史授業は受けたし。
だけど、いくらバルバロッサ作戦(ドイツのソ連領侵攻作戦。東部戦線の始まり)を控えていたヒットラーの「ソ連攻めてる間に柔らかい下っ腹を刺されないようにしたい」なんて要請があったとはいえ、軍部全体の反対を押し切って強行するもんかね?
まあ、あまりにも無謀ってもんだろう。
実際、中東もバルカン半島もイタリアは単独では敗退している。
中東では戦力不足なのを押し切って前出の”コンパス作戦”で逆劇を食らってトブルクをはじめとするリビア西部の要所をいくつも失い、司令部は東部の主要都市トリポリまで後退する羽目になった。
また、バルカン半島ではギリシャ軍の山岳ゲリラ戦じみた反撃で、絵に描いたような撤退になったようだ。
そして、どちらもドイツの援軍を受けてようやく反転攻勢に転じられたって具合だ。
いやいや。
いやいやいや。
今更ながら、ヒットラーに言いたい。
泥沼確定の
そして、
実は、ドイツがギリシャに攻め込んでからまだ二週間もたっていない(ブルガリア経由でドイツによるギリシャ侵攻が行われたのは、1941年4月6日となっている)。
というか、実質的にはドイツが中東とバルカン半島で二正面攻勢かけてるようなもんだ。
それでいいのかドイツ軍?
もっとも英国もあまり独伊を笑える状況にはない。
イタリアのギリシャ侵攻にに引っ張られる形で、勝っても負けてもドイツ人をギリシャに呼び込む事を呼び込むことを予見したイギリスは、とりあえず”コンパス作戦”でいい感じに駆逐した中東伊軍を放置し、中東英軍の主力である”西部砂漠軍(WDF:Western Desert Force)”を作戦終了直後にバルカン半島に動かしてしまったのだ。
これを間違っていたとは言わない。
薄氷を踏むような予断を許さぬ状況でも、ギリシャ本国でまだ辛うじて戦線が維持されているのは、WDFがいるからだ。
彼らが稼いだ時間は決して無駄にならない筈だ。
***
だが一方、中東英軍が骨抜きになる瞬間を虎視眈々と狙っていた男がいた。
ナチス第三帝国、”ドイツアフリカ軍団(DAK:Deutsches Afrika korps)”軍団長、”エドヴィン・ロンメル”大将だ。
おそらくだが、ロンメルは中東英軍が弱体化していた事を確認した後も、ギリシャに自国軍が侵攻するタイミングを待っていたように思う。
これはつまり「WDFが引きたくても引けない状況を待っていた」とも言える。
こうでも考えないと、このタイミングは説明できない。
英国の予想では、ドイツ軍の中東における本格攻勢は、今年の6月以降だと判断されていた。
その根拠は、「物資輸送量と備蓄の貧弱さ」だったらしい。
その分析自体は、間違いないだろう。事実、DAK全軍の到着は、5月中旬だと思われていた。
だが、ロンメルは不十分な準備状況でもあえて東進を強行した。
これは予想だが、「ドイツのギリシャ侵攻を隠れ蓑に使うことで、自分の意図を誤魔化せる」と考えたんだと思う。
今年の2月に僅か2個師団相当の先発隊とともにロンメルはアフリカの大地に降り立ち、僅か1ヶ月後に残留英軍が駐屯していたエル・アゲイラを攻略してみせた。そう、”ゾネンブルーメ作戦”の発動だ。
この時点で欧州独軍はギリシャ侵攻への兆候を見せており、WDFは引くことが出来なかった。
残存英軍の判断のまずさ(ロンメル率いる軍勢の規模を把握しきずに撤退を選択するなど)や分散していた戦力をロンメルの進軍の速さゆえに集結できなかったことも手伝い、ロンメルは破竹の進軍を続けてリビアに散らばるように展開していた英軍を各個撃破していった。
4月2日にアジェダビアが陥落したことを皮切りに、4月4日にキレナイカ方面司令部が置かれていた要所ベンガジが陥落し英軍リビア方面司令官”リッチモンド・オコーナー”中将が捕虜にされた。
続いて6日にムスス、7日にリビアでは珍しく緑の多いデルナ、8日にメキリという拠点が立て続けに陥落。
そして先日の1941年4月10日、ついに英軍がリビアでブン捕った最後の拠点”トブルク”へと攻め寄せたってわけだ。
まあ、ここまでの流れは”俺の知ってる第二次世界大戦・北アフリカ戦線”と大きな差異はない。
(だが、俺が知っている歴史とは決定的に違う部分がある)
俺の知っている歴史では、この時期トブルク防衛にあたっていたのは、一言で言えば「撤退戦で疲弊した英軍と、オーストラリアやインドなどの英連邦軍」だ。
率直に言えば「寄せ集めの二線級戦力」という風体だった。
(だが、今生では……)
俺の属する完全編成の陸軍第八増強師団をはじめ、1853年に締結され、以後90年間に渡り内容を改訂されながら更新され続けた”日英同盟”を履行すべき日本皇国軍が居座っていたのだった。
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