(16) 第一章 五、万全の環境(四)
「エラ様~? そろそろ起きてください。エラ様」
もう、朝だろうか。
「もう夕方ですよ? 朝はともかく、お昼も食べてらっしゃらないのに。さすがに少しはお食べになってください」
心配そうに覗き込むシロエの顔が、あまりに近くて焦点が定まらなかった。
「……近すぎませんか」
「それはその、おでこを合わせていましたので。お熱はなさそうですね」
「口も近かったように思いますけど……」
「それはその、息をしてらっしゃるのかも感じるためです。エラ様はとても静かなので」
シロエなら多少の事は構わないけど、どこまで許容するのかを考えた方が良いだろうか。
「ヘンな事してないですよね?」
「え、ええ。まだしてないですよ?」
「……まだ?」
「なんでもないでーす」
何かするつもりはあると、堂々と分かるようにはぐらかす姿には感心を覚えてしまう。
「……はぁ。まだ、次の日ではないんですよね」
「寝ぼけてらっしゃるんですか? 二日酔いでお目覚めになって、頭痛がするからとお休みになられたその日の夕方ですよ。まだどこかお辛いですか?」
体は、だいぶとスッキリしているようだ。
「いえ……大丈夫そうです」
「それじゃあ、一緒に食堂に行きましょう。皆さんもそろそろお出でになると思います」
それから。と、シロエは公爵にお礼を述べる事と、頂戴したドレスを着ていく事を提案してくれた。今日着る物は、すでに選んでくれているらしい。
「きっとまだ寝起きだろうと思って、着やすい物にしてありますよ……ほら、可愛い」
確かに、この銀髪と白い肌に合う色合いだ。淡めのブルーの生地と、一本の紫の斜めラインがシンプルにまとまっている。腰からふわりと広がるスタイルは、まだ幼い体型にも女性らしさを出してくれている。
(控えめに言って、本当に可愛い)
「本当は横から前に垂らしたいのですが……お食事するので後ろでふわっと束ねますね」
このドレスには、長い銀髪を左から垂らすのがベストなのだそうだ。
「そういうのって、どうやって学べばいいんですか?」
ファッションは、オレには本当に分からない。かといって、投げっぱなしも良くないと思うようになっていた。
「あ、ご興味持って頂けますか? それなら今度、着せ替えしながらお教えいたしますね!」
(あのずらりと並んだドレスで?)
開いてはいけない扉だったのかもしれない。部屋の半分を占めていたプレゼント箱の山を、きちんと開封して掛けてくれてある。クローゼットから溢れる量を、オレが眠っている間に。
「……ありがとう……ございます」
「いえ、私も嬉しいですので。エラ様は着せ替え甲斐がありますからね」
キラリと光ったシロエの双眸は、獲物を得た野生動物のようだった。
(そんな目をするほど、楽しい事なのか……?)
「さあ出来ましたよ。お夕食の前に、公爵様にお見せしに参りましょう」
長い髪を梳くのは大変だろうに、それでもあっという間に髪型も整えてくれた。ふわりと後ろで束ねてくれただけでなく、横髪はしっかりと編み込んで飾りにしてくれている。
(女性のセットって、手が込んでいるんだな……)
練習したとして、これを自分で出来るようになる日がくるのだろうか……。
「シロエです。エラ様をお連れしました」
公爵が居る部屋の前で、シロエが入室の許可を取った。こうした様を実際に見ると、やはり階級社会を肌で感じる。入るとすぐに一礼するのだが、男性と女性で仕草が違う。現代社会でも礼儀作法はあるが、厳密さはこちらの方が格段に上だ。先程シロエに教わっただけのオレは、ギクシャクと硬い礼になってしまった。
「体調はどうだ? 今日は食事を摂れない程だったと聞いた。本当にすまなかった」
公爵はソファーから立ち上がり、こちらに歩み寄りながら姿勢を低くして、申し訳なさそうにオレの顔を覗き込んだ。遠慮がちに孫を気遣うおじいちゃんのように。ただ、見た目はやはり、四十にさえ見えないくらいの若々しさだ。
「い、いえ、もう大丈夫です。少し眠ったら元気になりました」
「少しといっても、ほとんど一日寝ておったではないか。無理をしてくれるな」
とりあえず座ってくれと、二人掛けのソファーを勧めてくれた。ふかふかだが、沈み過ぎないのでとても座り心地がいい。だが、言われるままに座ってしまったせいで、お礼を言うタイミングを逃してしまった。目線でシロエにヘルプを求める。
「ウィンお爺様、エラ様のドレス姿はいかがでしょう」
待っていたとばかりに、公爵はうんうんと大きく頷きながら満面の笑みを浮かべている。
「とても良く似合っている。エラの特徴を聞いただけで選んできたのだが、イメージ通り、いやそれ以上で本当に素晴らしい。ずっと眺めていたいくらいだ」
もてはやされる事に慣れていないから、どう反応して良いのか分からない。リリアナやシロエから言われる『可愛い』とは、何か少し違う。本当に言葉を選んでくれた事に対して、こちらも何か返したいのに、思うように言えないもどかしさが心苦しい。
「あ、あの、ありがとうございます。本当に。こんなに素敵なドレスを、沢山頂戴して……どれも綺麗で、本当に嬉しいです」
精一杯の言葉が、これというのは嘆かわしい。今まで人を非難する事もなかったが、お礼もまともに言えないとは。
「エラ様は贈り物が初めてなので、とても恐縮されているようですよ。ウィンお爺様」
シロエはすかさずフォローを入れてくれるが、しきれない程に酷いお礼だったに違いない。
「そうかそうか。遠慮がちな初々しい姿というわけだな。受け慣れてしまったら見られない貴重な瞬間だ。僥倖なことだ。どれ、その照れた顔をもっと見せてくれ」
何でも喜んでくれるのはありがたいが、これは恥を売っているようなものだ。本当にこの年齢ならともかく、自分が情けない。
(今は……不甲斐なさを受け入れるしかない……)
「ウィンお爺様、それはレディに対して失礼ですよ?」
「おお、すまんすまん。娘を愛で過ぎると、逆に嫌われてしまうといつも言われていたな」
ハッハッハ! と、大抵の事は吹き飛ばせそうな快活さで笑いながら、公爵はオレの頭を撫でた。髪型が崩れます。と、すぐにシロエに怒られているが、公爵はうんうんと頷くだけで気にしていない様子だ。
愛でる。という言葉に嘘偽りないようで、その後もうろうろしながら、色んな角度からオレを眺めては褒めそやしている。横顔も良いだの、後ろ姿さえ美しいだの、自分自身でもそう思ってしまっているからこそ、こそばゆいだけでなく嬉しくなってしまった。
そうなってしまうともう、照れるというよりは笑顔がこぼれてしまう。公爵のそうした可愛らしい部分のギャップも可笑しく、表情の乏しいオレでさえ微笑みが消えることがなくなっていた。
「あぁ、エラ様の貴重な微笑み……尊いです……」
シロエも混ざっておかしな事を言う。でも、こんなに心が温まる時間を過ごせることが、心の底から嬉しい。虚しさや苦痛という痛みが常だった心に、血が通うような感覚を覚えるなんて。今は逆に、この温もりがすぐに消えてしまうのではという、恐怖心が湧いてしまう程だ。
「あ、あの、もうお腹いっぱいです。もう、褒めないでください……」
幸せでも苦悶するのだと知ったのは、とても新鮮な気持ちだった。
「あぁっ! お食事の時間を過ぎそうです。余裕を持って来たのですが……」
どうやら、お腹いっぱいという言葉で想起されたのだろう。オレも同じく思い出した。
「おお、そうだったな。それでは……シロエ、先に行って少し遅れると伝えてくれ」
公爵は突然真顔になった。だがオレには優しい顔を向けて、少し話がある。と言った。
「かしこまりました」
そう言うとシロエは礼をして、オレにも会釈とウィンクをして部屋を出て行った。
「少し、硬い話をせねばならん。聞いてくれるか?」
真剣な表情で、まっすぐにオレを見て問う公爵に、オレは急な変化に戸惑って声が出なかった。ただ大きく頷き、目だけはしっかりと見つめ返した。
「すまんな。では、心して聞いておくれ」
公爵は正面のソファーに座り、ゆっくりと話し出した。
「エラよ。お前の事を本当の娘として育てたい。教育という面だけではなく、心から家族として迎えたい気持ちに、今や嘘偽りはない。だがな、アドレー家の人間となるならば、お前の成人を社交界でお披露目せねばならん。それは、エラの年齢からするとあと二年足らずだ。社交界と言っても、パーティのような生易しいものではなくてな。アドレー家は、そうした場で常に威厳を持ち続ける必要がある」
ここまでは分かるかな? と、優しく語り掛けてくれている。
「はい。分かります」
「うむ。そのお披露目の時に、完璧な貴族として立ち振る舞う事が出来れば、お前は貴族社会で、つつがなく過ごせるようになるだろう。しかし、今ワシが情に負けて甘やかしてしまえば、これからお前は死ぬまで、貴族社会で
そこまで聞いて、オレはとんでもない貴族の養子になるのだと、ようやく理解した。
「恐ろしくなったか?」
表情に出ているのだろう。アドレー公爵は、低くも穏やかな声で気遣ってくれた。
「正直に言うと、恐ろしくなりました。でも……ここで引き下がるような真似は、したくありません。リリアナに救ってもらった恩は、普通に過ごしていては返せませんから。だから、私に貴族の振舞いを教えてください。よろしくお願いします」
リリアナとシロエの後ろで、ただ甘えて過ごす毎日は嫌なのだ。体も動くようになった。これからこそは、何か役に立ちたい。ただ一つ、揺るぎなくずっと想って来た事だ。
「良い返事だな。それではエラよ。二年足らずの間に教えるには、少々時間が無い。早速、教育に入っても良いか? しばらくはリリー達二人と、食事の時間くらいしか会えなくなるが」
「……その点は大丈夫です。寝室を一緒にすれば良いと、リリアナ達は寝室を、ベッドを三人で眠れるようにしてしまいましたので……」
さすがの公爵も、リリアナの突飛な行動力に驚いたようだ。プッ、とふき出していた。
「そうかそうか。それは良かったな。エラもきっと、気分転換になる事だろう」
破顔してしまった公爵は、もはやそのまま崩れた笑顔で続けた。
「エラ。優しくしてやれるのは今ここまでだが、泣いてくれるなよ? これも全て、お前のためになるはずだと考え抜いた末だ。我が家名のためだなどと、誤解だけはしてくれるなよ?」
そしてアドレー公爵は、今までよりも厳しい口調でこう言った。
「よいか、エラよ。ワシがお前を守ってやれる事は限られている。ワシの手の届かない場所では、お前がお前自身を守らねばならん。その術を叩き込むつもりでここに来たのだ。お前が自分を守れるという事は、しいてはお前の守りたい者を守る事にも繋がる。心して取り組み、何一つとして取りこぼすなよ? アドレー公爵家の娘としての、最低限の尊厳を身に付けよ」
(アドレー公爵家としての尊厳……この人の言動から察するに、訓練や修養、戒律のような、ディシプリンと言った方が近そうだ)
そう思うと、眼前の境遇の重みと、公爵からのプレッシャーで喉が締まって声が出ない。
「わかり……ました。精一杯、がんばり――」
――言いかけた所で、急に公爵の目が厳めしく尖った。すでに厳しい教育は始まっているのだと、そう伝えるかのように。それに気付いた事が伝わったのか、唐突に、捻り潰さんとするような殺気を放たれ、言葉の変更を余儀なくされた。
一瞬息が止まる思いだったが、不思議と心まで怯えるような事は無かった。加減をしてくれたのだろう。だが、こちらの覚悟も確かなものである事を見せなくてはならない。そんな気がした。
姿勢を整え、目に力を込めて、はっきりと伝え直すためにスッと息を吸った。
「――いえ。必ずこの身に修めてみせます」
「……うむ。絶対にだ」
ちょっとした言葉の揺らぎでさえ許さない。そのくらいの覚悟を持て、という事だろう。
公爵からは、武人としての恐ろしさも、大公爵としての威厳も、どちらもが備わっている。時としてそれは暴風のように吹き付けられ、ひと睨みされるだけで身動き出来ないような緊張に呑まれてしまうほどだ。
(アドレーの名を聞くと敵国が震える程というのは、伊達ではないようだ。戦略や用兵の話かと思っていたが、この人自身もきっと強い。ともすれば、武功で出世した叩き上げのタイプかもしれない。もしも一代で成り上がったのなら、とんでもない実力だろう)
「これが、国の剣たる大公爵であり、良き民の盾である大貴族の風格だ。これを身に付けよ」
国を、民を、その両肩に乗せているという自負と責任の表れなくして、この地位に就くことは許されないのだと、アドレー公爵はそう語った。
(その大公爵の家名を、オレも背負っていかなくてはならない)
改めてそう思うと、想像もつかない重圧がのしかかる。出来なかったでは、済まされない。
「今は難しく感じても良い。だが、そのような不安も消し飛ぶくらいのメニューを用意しているから、安心するといい。講師も極上の者達を連れて来たからな」
先程までの圧はふっと無くなり、穏やかな雰囲気に戻っていた。しかし、不穏な事を言っている事実に変わりはない。アドレー公爵は本気で、全力でオレを磨き上げようとしている。オレはそれに、応えきれるのだろうか。
目標に向かって突き進めるという期待と、不安とが入り混じる。
「おいおい、さっきの威勢はどうした。言っておくが、これからは甘やかしたりせんからな」
そう言う公爵は、どうやって孫をあやそうかと苦悶している人のような顔に見える。それが演技なのか素なのかは分からないが、お互いに不安はあるのだと理解できた。
「フフ……はい。大丈夫です。望むところですので、頑張ります」
(とにかく、向き合えるものが出来た事を喜ぼう)
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