(7) 第一章 三、明日に繋がる糧(二)


 ――頭が……痛い。


 頭の左半分が、芯から熱を持っている。それは低温で焼かれているような痛みで、じくじくと続いている。

 そのせいで、眠りから覚めたのだ。鬱陶しい痛みだ。眠っていたいというのに……。



 痛みと眠気が交互に、意識を遠ざけたり戻したりを繰り返している。

 しかしオレはいつ、眠りについたのだろうか。痛みと眠気のせいで、その時の記憶を思い出せない。時間感覚も無い。いつから眠って、いつから痛くて、どのくらい眠っていたのか。



 しつこい痛みを堪えるように、瞼をぎゅっとつむると、無理矢理に刻み込まれたような記憶が浮かぶ。


 ――知らない記憶を、思い出したような?



 それは、別人の記憶を突然思い出すような感覚だった。しかし、それは強引に見せられているような、嫌な痛みをどこかに感じるものだ。

 だが、この眠りの前までは無かったはずだというのは、はっきりと分かる。その情報が痛みの波と共に、今、一気に頭の中を走り抜けた。







『ほとんど何も説明出来ないまま送り出してすみません。その星は『オロレア』と言います。さて、手短に重要事項を送るとしましょう。


 あの時に急いでいた理由はお分かりでしょう。危うくそちらの体が完全に死んでしまいそうだったからです。本当にギリギリだったかと思います。ですので、不足していた情報を、今あなたを転移させてすぐに送信する準備をしております。エネルギー等の調節に時間が掛かりますので、送信完了まで数週間はタイムラグが生じる事をご了承ください。あなたの脳に直接焼き付けますので……いけませんね、これは余分なお話でした。それではご説明を、あなたの記憶領域に送信いたします。



 一つ、そちらの体の状態いかんに寄りますが、あなたのゴーストがそちらの体に定着するまで早くて二週間、長ければ二年は必要です。



 一つ、そちらで体が動かせるようになっても、まだ意識消失などを経験しておられるなら、それは転移のせいで脳とゴーストに深刻なダメージが残っていると言えます。症状の出た日は早急に十時間以上安静にしてください。先程述べた完全定着するまでの期間は強く興奮しない事と、頭を揺らしたりしないようにご注意ください。脳への定着が不完全だと、その後の体への影響は計り知れません。



 一つ、あなたのゴーストは、そちらの体に引きずられて強い影響を受けます。性別が違う分、能力はもちろん、感性や衝動などの本能的部分などなど、体に色々と引きずられるため戸惑うかもしれませんがご了承ください。しかし前にお伝えしましたが、タイミングもその後の状況も、恐らくその体以上の好条件は他に有り得ないレベルです。幸運なのです。



 一つ、そちらの体の元のゴーストは、ほとんど消えているなら心身共にあなた一人のものです。ただし、体のゴーストが根強く残っている状態で転移していた場合には、人格が二人になる可能性があります。状況的にほぼあり得ない事ですが、未練や執念が強いゴーストであればあり得ます。その時は仲良く共有なさってください。



 一つ、転移に失敗はありませんでしたが、あなたのゴーストが体に定着できるかは、実は賭けのレベルです。仮に、その体が拒否反応を起こした場合、指の一本さえ動かせません。その場合、不幸な目に遭われている事でしょう。その時の対処も次にお伝えします。



 一つ、状況が悪く自害したい場合、心の底から念じてください。少なくとも一週間以内に、こちらからあなたのゴーストに過負荷を掛け、苦しまずに死なせます。


最後に。もしも、自害の念を出さずに数年を過ごされましたら、改めて「お願いしたい事」がございます。



 以上です。送信に伴って、数日は頭痛が出るかもしれません。病気ではありませんので気になさいませんよう。ただ、これもそちらの脳に負荷の掛かるもの。頻繁にこうした送信が出来ない事をお許しください』






 ――クセのある、早口で一方的な物言い。


 このまどろみの中でも、眠気を押し返すように怒りが込み上げてくる。それと共に、心の底に沈めていたはずのものが、一緒に湧き上がってくるのを感じる。


 何もかもが一方的だ。これは、あいつの仕業に違いない。違うわけがない。あの『科学者』は、今度は気楽にメールでも送るかのように、人の頭の中にデータを焼き付けたのだ。しらじらしい言い回しが好きなのか、それとも、他人の事を何とも思っていないのか。



『多少の事は気にするな』という性質タチでもお持ちなのだろう。

(……本当に滅茶苦茶だ)

 なぜ、あの時オレを、事故で死んだままにしてくれなかったのか。



 あっけないとは思ったが、死ぬ覚悟はずっと持っていた。そもそも、人でありながら人を信用できなくて、息苦しかったのだ。いや、社長の事は、少し気を許していただろうか。温かな家庭に憧れた時期もあったが、そんな幻想にいつまでもすがりつくようなお子様でもなかった。



 他人の家庭は、どうしてあんなにも温かそうに見えるんだろう。そういう疑問はあったが、それも大した疑問ではなかったというのに。

 自分の代わりに誰かを守れたら良いな。なんて不釣り合いな願望もあったが、そのくらいだ。



(……だから、事故死なら事故死で、それで良かったんだ)

 じいちゃんの所に行ったら、また修練でしごかれるかもしれないが。

 それよりも、死ぬなんてまだ早いと、怒られるかもしれない。それとも悲しませてしまうだろうか。



 悲しませるくらいなら、知らない星であろうと、生きていて良かったのだろうか。

(……なんでオレは、取り留めのないこんな事を)



 ここに連れて来られた事を、悔やんでいるのだろうか。

 体が動かず、最初から苦労しかなかった。

 オロレアという星の名も、初めて知った。

 とにかく分からない事ばかりだ。



 今でさえ、ただ歩けるようになっただけだ。ただ可愛いだけの、何も出来ないお人形様だ。

 リリアナやシロエに、頼ってかくまってもらわなければ生きていけない。

 もう二十歳も過ぎた男が、少女になってしまった。

 可愛い子だが、虐待されていたという。



(可哀そうに……)

 オレが居たら、守ってやれただろうか。

 今からでも、守ってやれるだろうか。

 何も知らない、このオロレアで。



 いや、そうか。もう、この子は死んでしまったのか。

 この体には、オレの意識しかないようだから。



(……本当に、可哀そうに)

 少しでも、幸せを感じた事があっただろうか。



 オレのようなゴーストに入られて、嫌ではなかったのだろうか。

 あの日に何とか動けたという事は、嫌ではなかったと信じたい。



 科学者は、なんて自分勝手なんだ。

 オレを飛ばして、この子は見殺しにしたのか。



 いや、こちらには何も干渉できないんだろう。

(分かるだけというのも、辛いのかもしれないな)

 この体に定着するまで、長く見て二年。



 この体に、オレの意識が引きずられるのだそうだ。

 女の子なんて、何を感じてどう考えるのか分からない。お手柔らかに頼みたい所だ。

 科学者が、オレに頼み事があるという。



 目的が、あったという事なのか。

 先にそれを言えば、少しは印象も変わったかもしれないというのに。

(……こんな途方もない事をしてまで、叶えたい事って何だ?)




(そんな事を聞いてしまったら、沈み込んでばかりも――)

「――いられないじゃないか」


 自分の声で、夢から覚めた。

 可愛く高い、庇護欲をそそる声。夢の中の元の声とは、似ても似つかない。

 そう、今は声もこんな感じで、体も少女だ。元の自分とは、何もかもが違う。



「……踏ん切り、つけないとな」

 夢の中で色々と気持ちの整理がついたのか、気分は悪くなかった。陰鬱な気持ちは消えてはいないが、僅かだが望みが見えたような感覚だ。



 意味も分からずにこの体で生きていく事に、どうにも嫌気が差している気持ちはある。しかし、この体に転移された意味が、目的があったというなら、応えてやろうかと思う自分が居た。

 そういえばオレは、今どこで眠っているのかと目を開いてみると、そこには天蓋があった。周りは銀刺繍のレースが垂れている。少女趣味の、あのベッドだ。



(お屋敷の新しい部屋で、倒れたんだった)

 リリアナのお爺様――公爵がいち早く見繕った婚約者が、もう居るかもしれないのだそうだ。だが今は、現実味が無くてどうでも良いような気がしている。



 あんなに取り乱したのは、この体の影響だろうか。オレはこれまでの人生で、肩で息をするほど感情的になった事などない。

 それよりも、倒れてから何時間経ったのだろうか。十時間は安静にしておけと教えられたら、さすがに怖くてすぐに起き上がる気になれない。



(シロエが様子を見に来てくれるまで、もう一度寝て居ようか)

 窓から入る薄い日差しが、朝なのか夕方なのか分からない。



 倒れた時は、午前中に部屋の案内をされていた。あの時の影の向きはどちらだったか……退屈しのぎに思い出してみようと思ったが、やはり面倒になって止めた。

 二人には心配をかけてばかりだ。なぜ意識を失うのかが分かったから、あとで伝えておこう。






 ――倒れてからは、丸一日経っていたようだった。

 結局、気が付いたのは早朝だったようで、シロエを待とうと決めたすぐくらいに、看病に来てくれた。

 ノックは無かったが、「エラ様……」と、つぶやく声でそうだと分かった。



「シロエ、いつも心配かけてごめんなさい。もう大丈夫です」

「エラ様、気が付いていたんですか? ノックもせずにすみません。夜中はまだ眠っておられましたけど、いつお目覚めになったのですか?」



「ついさっきです。やっぱり、かなりの時間眠っていたんですね」

「はい。昨日の朝、このお部屋で倒れられて。今は早朝なので、二十時間近く眠っておいででしたよ」

「ご心配お掛けしました。昨日の事、取り乱してすみません。でも、それももう大丈夫です。散々お世話になっているのに、我儘を言って本当にごめんなさい」



「いいえ。お怒りになるのも当然でした。男性であるという事を、どうしても失念してしまうので……最初はなぜそんなに嫌がっているのか気付けませんでした。こちらこそ、本当にすみませんでした」

 薄暗くてシロエの顔は良く見えないが、とても申し訳なさそうにしているのが分かった。


「謝らないでください。きっと、色々と無理を押して私のためにしてくれたでしょうに、私は自分の事しか考えていませんでした。私が悪いんです。リリアナにも、後で謝りたいです。後で会えますか?」



「エラ様……。はい。今、お呼びしますね」

 すっと踵を返して、すぐに呼びに行こうとするシロエを引き留めた。

「いやいや、待って。まだ早いですよね。リリアナの都合の良い時間にしてもらってください」



「大丈夫ですよ。書簡を朝一番で出したいからと、そろそろ起こすように言われていますから」

 公爵に宛てたものだろう。さらに便宜を図ってくれるようにお願いするものに違いない。

「それなら、その書簡は出さずに、先に私と会ってもらえるように伝えてください」



 それを聞いてシロエは、少し考えてから「そのようにしますね」と部屋を出ていった。

 その間また少し目を閉じていようと思ったが、そう時間を置かずに二人が来てくれた。

 頭痛が少し気になったが、体を起こして二人を迎えた。



「エラ、良かった目が覚めて。また倒れるんだもの……今はもう平気なの?」

「ありがとうリリアナ。もう大丈夫そうです。それから、昨日は本当にごめんなさい」

 しっかり目を見て、昨日の非礼を詫びた。

「いいのよ。私が悪かったのよ。あなたの気持ちを考えずに行動してしまったんだから。怒って当然だわ」



 リリアナは小さく首を横に振り、オレの手を取って続けた。

「私は行動の早さが自慢なんだけど、今回は完全に裏目に出てしまったわ。ごめんなさい。お爺様には上手く説明しておくから、安心してね。お爺様も、お父様と同じくらい私に甘いんだから全然大丈夫よ?」

 優しい笑顔のリリアナだが、少し無理をしているようにも感じる。



「いいえ。リリアナ。今回の事は、私の我儘に過ぎません。散々お世話になっている上に、色んな配慮まで無下にする所でした。そんな恥ずかしい生き方はしたくありません。リリアナがしてくれる事は何でも受け入れます。だから、昨日の事は忘れて、何も気にしないでください」


「エラ……でも私は、あなたを大切にしたいのであって、嫌な思いを押し殺して生きて欲しいわけじゃないの。良かれと思った事で、苦しめる事になるなんて私も嫌よ」



 リリアナは、なぜこんなにしてくれるのだろうか。うっかり優しさに甘えてしまいそうになる。

 ただ、このままでは堂々巡りになりそうだから、落としどころを見つけなくてはいけない。

「えっと、公爵様は、私の事を何もご存知ないですよね。だから、一度私の事を見ていただいてから、先の事はそれからお考えくださいとお伝えしてはどうでしょう」



 いくら何でも、見た事もない相手の婚約者など、先走って見繕うとも思えない。普通ならそうするだろうという、当然の流れを提示すれば『会うまでは全て保留』されるはずだ。

 冷静になれば、このように特に取り乱すような事では無かったと思うが、昨日はどうかしていたようだ。



「確かに……そうね。養子のお願いを快諾してくれただけで、婚約者を探しておくとは一言も書いて無かったし。お爺様ならこうするだろう、という考えがちょっと行き過ぎていたかもしれないわね」


 リリアナも、近親者の事になると『読み過ぎ』てしまう事もあるのだろう。知っているからこその深読みは時として、当然むべき流れを問題の外に置き去りにしてしまう。



「はい。なので、きっと私のために書いてくれた書簡も、出さないでくださいね。その後にどういう結果になろうと、私はリリアナに感謝しかありませんから。昨日の事は本当に忘れてください。お願いします」

 腹を括ると、やはり物事は落ち着いて考えられる。ここにきてようやく、本来の自分の思考が戻ってきたように思う。



「エラ、なんだか大人っぽくなった……?」

 リリアナは急に、ポカンとした表情でオレをじっと見た。

「……私は元々、大人ですよ?」



 これはきっと、一応の目標が出来たからだろう。自分と、この体と、あの科学者との関係の、何か割り切れない気持ちが少し落ち着いたからだ。あいつが……いや、彼がここまでしてまで、お願いしたい事というものに興味が湧いたのだろう。


 彼の願い事とやらを、オレは聞いてやりたいと思った。そういう気概があるだけでも、気持ちが落ち着きやすくなるようだ。



「うそよ。シロエはどう思う? 昨日までと雰囲気が違うもの」

「そうですね。何か、憑き物が落ちたような良いお顔に見えます」

(この二人が鋭いのか、オレが分かり易いのか、どちらだろうか)



 観念して、意識を失っている間に得た情報を二人にも話した。科学者からの一方的な伝達で、こちらから質問などは出来なかった事を、リリアナは少し残念がっていた。

「その体、なかなか一筋縄ではいかないようだけど、逆に言えば二年後が楽しみでもあるわね」

 リリアナの言葉に、シロエも頷いている。



「そういえばエラ様、そろそろお風呂に入ってみませんか? お体に何か良い作用があるかもしれませんし、何より気分転換にも良いですから」

「お風呂があるんですか?」

 シロエの言葉に、思わず反応してしまった。



 こちらに来てからは、シロエに拭いてもらうばかりでお風呂は初めてだ。そもそも、お風呂があるというのは嬉しい情報だ。

「はい。このお屋敷ではいつでも入れますよ。何せ、この地方には温泉が湧いていますからね」

「温泉!」

 さらに飛びついたオレの反応を、シロエもリリアナも、ニコニコと嬉しそうに眺めている。



「やっぱり大人びて見えたのは気のせいだったわね。エラはエラのままだわ」

「そうですね。エラ様はエラ様です」

 二人がからかうものだから、何とはなしに頬を膨らませ、拗ねて見せた。自分でも驚いたが、そうした方が楽しい雰囲気になると思ったような、勝手に顔がそのようにしたような、不思議な感覚だった。自分としては照れ臭さが残るが。



「あら。そうして頬を膨らませたりすると、本当に女の子みたいね?」

「それは……そろそろ、この姿に見合った振舞いに、慣れないとですしね?」

 からかうリリアナに、曖昧な、誰に対してか分からない言い訳をした。自分でも良く分からない事をしてしまったからだ。だが、案外開き直ってしまったほうが、この姿で生きるのが楽になるだろうと思った瞬間でもあった。



「良いじゃないですか。可愛くて。そうした感じの、使える仕草を今度お教えしましょう」

 シロエが言うと、何やら恐ろしい事のように聞こえる。真に受けて教わると、悪い子に育ってしまいそうだ。

(それに、今はあまり、掘り下げないで欲しい……)

 開き直ってしまおうとは思ったが、やはり気恥ずかしいのだ。



「そ、それよりもお風呂に入りたいです。シロエには拭いてもらっていましたが、頭も洗いたいですし。自分で洗えるくらいには、体も動くようになったでしょうしね」

 まだ歩ける程度だが、体を洗うくらいも出来るだろう。



「じゃ、案内はシロエに任せるわね」

「それではエラ様、朝ごはんの前に入っちゃいましょうか。湯殿にご案内いたしますね」

「はい! 楽しみです」

 風呂は良い。銭湯に行くのも好きだった。汗を、桶いっぱいのお湯で一気に流す爽快感は、他では味わえないだろう。


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