(3) 第一章 一、奇跡(三)

 **




 ――次の日の午後。少女の意識はまだ戻らなかった。


 朝から医者も呼び、他の侍女も少女の様子を見守っていた。しかし出来る事もほとんど無く、時折汗のにじむ額を、侍女がかいがいしく拭いてあげるくらいだった。




 先程シロエも様子を見に行ったのだが、昨夜寝かせた姿勢のまま寸分違わず眠っていた。少女の小さな呼吸が、その胸を少しばかり上下させている事に気付かなければ、まるで死んでいるかのようだった。




「まったく起きる気配がありませんね……」


 シロエは落ち込んだ様子で一人つぶやき、離れの小屋から出た。そして、真っすぐにリリアナの書斎へと向かった。




 そこには、自然と皆が訪れていた。セバスチャンとガラディオは、あの少女をどうするつもりなのかをリリアナに問いに。シロエは休むよう言われていたが、あんな状態の少女を置いて休んではいられなかった。




「静かに眠ったままでした。顔色は幾分良くなっていましたけども」


 シロエは報告しながら、この場の重い空気がどのように流れるのかを見守るべく、さりげなくリリアナの側に付いて部屋に留まる意思を見せた。




 リリアナの書斎は、圧迫感が無いように広く、そして天井も高く作られている。しかし重厚感のある本棚が壁一面にあり、難しそうな本がぎっしりと詰まっていた。


 形から入るのが好きなリリアナが、『それっぽい書斎が良い』と言ったからだった。壁の色は明るいホワイトだが、大きな窓に掛けられた深紅に近い色のカーテンがあり、荘厳な部屋となっている。




 重厚感と落ち着きのある部屋だが、今は集まった人達の雰囲気で居心地を悪くしていた。


「そうなのね。ありがとう」と、リリアナはシロエに返事をしつつも、セバスチャンとガラディオに少しむくれた顔を見せている。二人に責められていたからだった。





「お嬢様、どうして捨て置かなかったんです。ここで育てるおつもりですか?」

 と、ガラディオは昨日の決断そのものを非難しているようだった。


「わたくしも同意見ですよ、お嬢様。不憫な少女には違いありませんが、世の迷信とは意外と根深いものです。それを子猫のように拾ってくるなど……」


 セバスチャンは半分諦めてはいるが、これだけはきちんとお伝えせねばとお説教モードであった。




「分かっているわよ。でも、あんな所に残しておいたら獣に食べられてしまうわ。街道付近にエサがあるなんて、学習させてはいけないでしょう」


 獣は人の味を覚えたら、人しか狙わなくなる。獲れた場所も明確に覚える。そうすると、今度はその場所が獣の縄張りになってしまうため、少女を拾った事は結果的に多くの臣民のためになっているのだ。




 しかし、そんなものは言い訳に過ぎない。リリアナはただ、見過ごせなかったのだ。

「お嬢様、そんなもっともらしい事を言っても、ほんとはただ放っておけなかっただけでしょう?」

ガラディオは、分かりやすいリリアナの心情を見抜いていた。それはセバスも同じだった。

「……どうせ二人とも分かっているんでしょう? なら、どうしたら良いか二人も考えなさいよ。古代種という存在を隠しつつ、迷信の方もどうにかする方法」








 古代種は遠い昔に、大きくは無いが集落を持っていた。銀髪に赤い瞳、透き通るほどの白い肌。皆恐ろしい程の美男美女で、普通の人間はその容姿を見ただけで、美しさに心を奪われるか威圧されるかだと言われた種族だった。



 しかし、彼ら曰く、人類の中で稀に生まれるただの人に過ぎないと。実際の所、稀ではあるが本当に普通の人間同士の間に生まれてくる、普通の人間なのだ。持って生まれた色が独特なだけで、どこも変わった所は無い。だが、見た目の違いというのは非常にやっかいで、銀髪赤目の子は呪いだ何だと迫害を受け、世間では『忌み子』であるというのが定説になっていた。



 運よく間引かれなかった子らが育つと、その眉目秀麗な容姿が際立った。だがそれはそれで、元々が忌み子であるがゆえに、末路は悲惨なものが多かった。


そんな彼らが、いつしか寄り集まるようになって集落が出来上がった。人里から遠く離れた所に。




 ただひとつ、厳密にいえば、少しだけ普通の人とは違う所があった。本当なら、誰も気付かなかったようなささやかな能力。それがこの種の集落を戦火に巻き込み、滅ぼした原因となっている。




 彼らは、当時に念動と呼ばれた『精神を他に干渉させる能力――精神感応』を持ちやすかった。何か特別な事が出来るほどではない、本当に小さな小さな力だった。しかし後に、ある国の軍部で、この精神感応によって特殊な金属を軍事利用できる事が分かった。その結果……最初は利用され、後に脅威となり、そして諸悪の根源のように滅ぼされる事になった。古い歴史の中で滅ぼされた種族という事から、一部の人間には『古代種』と呼ばれている。




 戦中も戦後も、なぜ利用されたかの事実は、一般には知られていない。ただ古代種が『終末の元凶』としての迫害を受けた。彼らを利用した兵器が引き金となり、世界が一度滅んだも同然になったと伝えられているからだった。

 古代種についての歪んだ記憶や伝記を知るのはごく一部の者だけになっているが、今なお偶発的に生まれる古代種を、世間は忌み嫌っている。伝記を知らない人間も、結局はその特異な色から差別をするせいで、間引かれる事も少なくない。




 ゆえに、伝記を知る者はこの銀髪赤目を『古代種』と呼び、世間は『忌み子』と呼ぶ。

 王侯貴族などには、更に別の意味でやっかいな存在となる。『古代種を側に置くという事は、何か強大な兵器開発を企んでいる』と、既成事実化されてしまうからだ。








「……世間的には、お嬢様の気まぐれで忌み子を育てている程度の事で済みますが……他国もですが、先ずはご兄弟が問題ですね」

 ガラディオは、とりあえずの問題点を述べた。どうせ後には引けない事だからと、非難する事は止めたようだった。



 それを聞いたリリアナは、さらりと流された自分の世評に不満を漏らした。

「私って、世間的にどういう風に見られているのよ」

「おや、お気付きでなかったんですか? でもまあ、それはそれで悪く言う人は居ませんよ。ハッハッハ」




 変わり者と言う、世間からのその言われようが面白いガラディオは、つい普通に笑ってしまうのだった。それもそのはずで、王の側近という立場から、リリアナのお目付け兼護衛として仕えるようになってから、未だ妹のようにしか見られなかったからだ。


 それがずっと悔しかったリリアナだったが、この頃はいつまでも言わせるだけではいないようになった。




「あなた、不敬罪という罪がある事をその首に教えてあげましょうか?」

 ニッコリと微笑みながら、小首をかしげて優しく問う。


 意外な反撃に遭ったガラディオは、うっ、と声を漏らして一歩後ずさった。シロエはリリアナの隣で空気のように静観していたが、不意の事で我慢できずに「プッ」とふき出した。




「フフフフ。少しは真面目に話すのかと思っていましたのに――」

「シロエ……あなたが笑わなければ、今回こそ私が主人としての風格を見せつけた所だったのよ? まったく……」

「フフフ、いいじゃないですか。さっきまでお説教モードだったセバス様も、ニコニコですし」

 指摘されたセバスチャンは、うっかり和んでしまった事をハッとしていた。




「い、いえ、あまり小言を言った所で……とは思っておったのです」

「セバスのお説教を免れたのなら、シロエの功績はとても大きいわね。まぁ、恰好をつけていても解決しないのだし……」

 そう言いかけて、リリアナは何かを思いついたのか、ハッと中空を見上げた。




「そうだわ! 恰好つけなければいいのよ」

 その言葉に、三人の視線が集まる。

「お父様に甘えてみましょう」



 古代種を抱えている事は、遅かれ早かれ兄達の耳に入る。「今は失われた古代の兵器を、もしかして見つけたり用いたり出来るのでは」と言う疑いを掛けられる事は、先日のような暗殺の頻度を高める事になってしまう。

 

 それならば、逆に堂々とそれらを認め、手出しするならば相応の覚悟を持つべしと触れて回るのだ。もちろん、表向きは国の平和のためであると理由をつける。それを先ずは国王に申告し、国王から王子達へ「リリアナのする事に触れるな」というお達しをしてもらうという算段だ。




「と、いう事で。堂々と兄さま達に通達してもらうことにするわ。隠してもややこしいだけだし」

 リリアナは意気揚々としていた。やっかいな状況の元ではあるが、少女が悪いわけではない。言わば歴史的差別の被害者である少女を、たった一人であれ、何とか助けられるかもしれないのだ。




「うーん、国王様はすんなり聞いてくださるでしょうが、王子様達は結局のところ警戒を強めてくるだけなんじゃ……ないでしょうか」

 ガラディオはやや否定的ではあったが、護衛する身としては当然の意見かもしれなかった。あえて危険な方に舵を切る気にはなれないのだ。


「少女が不憫であるという気持ちは、わたくしセバスも同じです。ですがわたくしはやはり、お嬢様の身の安全を第一に考えますので何とも……昨日は襲撃も受けたそうではないですか」




「二人とも心配し過ぎよ。襲撃については私も驚いたけど、逆に腹が決まったってものよ。どうせ何もしなくても襲われたんですからね。なら、いっその事狙われる理由がハッキリとしている方が、対処もし易いんじゃないかしら。


 問題は、あの子がターゲットになってしまう事だけど……それもどのみち、生きていれば狙われる事になっていただろうし、ここに居た方が安全だと言えるでしょう? それに、隠すよりも大っぴらにした方が、余程の対策をしているのだろうと警戒させられるわ」



 リリアナは自分の意見に納得しきったように、一人でうんうんと頷いていた。

「しかし……わたくしは心配です。それなら屋敷も町も、警固の人員を増やさなければなりませんな」

「同感だ。いいですかお嬢様。お嬢様の警護も、今の三倍程にしますからね。あのお嬢ちゃんの方にも同じだけ」



 セバスチャンとガラディオは、いつもワガママや無理を言われて慣れていた。人道に反さない限りは、反対はしても基本的にリリアナの方針に従う。その上で自分達の意見を添えていく。これが『お役目』というものだと、ガラディオはセバスチャンに教わってきていた。ただ今回は、お嬢様のワガママで済まないだろうなと、二人は覚悟を決めていた。




「うーん……最初は身辺警護だけにしましょう。町の警固を増やしても、暗殺の類ならあまり意味がないわ。それに、半端な力量の人だと被害が増えてしまうだけよ。屋敷内を四倍にして、町は変えない。これならいいでしょう?」




「……無難なところですね」

「セバスもいいわね?」

 問われて、最後にセバスは、ゆっくりと頷いた。

「はい。これで会議はおしまい。お父様に手紙を書くから、シロエは後で出しておいて」






 リリアナの側でじっと聞いていたシロエは、「かしこまりました」と、メイドらしく答えた。

そして、ここで区切りがついたのだと確信したシロエは態度をコロッと変えた。


「は~~。会議ってなんとなく緊張しますね! 皆さんの真面目な態度って、本物っぽいんですもの。というか私も王室の侍女なんてこと、すっかり忘れてしまってますしね! あ、お茶をご用意いたします。お話を聞いていたくて、分かってたんですけどお出しするのを忘れてました~」




 アハハーと誤魔化し、そして許してもらえる事も知っているので全く反省していない。

「分かってたのか忘れてたのかどっちだ。まぁオレはいいよ。戻って警護の準備をする」


 ガラディオはリリアナに軽く礼をし、そしてやれやれ、といった表情で部屋を出て行った。主人自らが危険を顧みない事と、しかしそれもやむを得ない状況である事に、歯がゆさを覚えていた。何より彼は、防衛戦があまり好きではないのだった。苦手ではないが、好きではない。待ちの一手が好ましくない。という、彼の気性や戦闘スタイルと合わないからであった。



「わたくしも結構ですよシロエ。お嬢様に甘いものをご用意するので、一緒にお持ちなさい」

 先に行っています。と、セバスチャンはしっかりと一礼をしてガラディオの後に続いた。こういう事態にさえ慣れている彼は、すでに切り替えていて普段と変わらない。



「はーい。それではお嬢様、少しお待ちくださいね」

 そう言うとシロエは、扉の前でリリアナの方に向き直って片足を引き、両手でスカートの裾をふわりとつまんで軽く頭を下げて見せた。

 シロエはマイペースであり、主人であろうとくだけた態度を取る事もあれば、その時の気分や雰囲気で『侍女らしく』振舞うなど、かなり勝手なものであった。そして、それが許される環境である事を知っている。


「フフフフ。たまにはしておかないと、お辞儀も忘れてしまいそうです」

 そう言いながら、パタパタと部屋を出て行った。




「……いいんですけれどね」

 お辞儀の前に、礼節をもう一度叩き込んであげようかしらと思ったリリアナだが、そのうちセバスにやらせようと考え直して忘れる事にした。そもそも、シロエに怒るような気持ちはこれまで持ち合わせた事が無い。

 いつも、シロエの振舞いに救われる事があるから許してしまうのだった。今回もガラディオの抑えられない苛立ちを、自然と削いでいるのだ。皆、シロエのそれを理解していて、彼女の振舞いを微笑ましくさえ感じている。


「それよりもあの子……衰弱が激しかったけど……きっと大丈夫よね。そろそろ目を覚ますかしら」




 シロエがお茶の用意をしている間に、父である国王への手紙を書き始めてふと、思い出していた。というよりも、出来る限りの治療はしているため、余計な考え事をやめていたのだった。朝から医者を呼んで診てもらっているし、他の侍女に看病も続けてもらっている。もう出来る事が無いのだ。後は、無事に目覚める事を祈るしかない。


 窓からの光は、リリアナの影を大きく斜めに伸ばしていた。

「あの子を保護してから、もうすぐ一日が経つのね」





    **



 ――オレは、夢をみているようだった。


 なぜなら、オレはまだ祖父の道場で鍛錬しているからだ。

(じいちゃんはもう、老衰で亡くなっているのに)



 師範である祖父との鍛錬は地獄のようだ。とにかく痛い。純粋なスピードもパワーもこちらの方が上のはずなのに、手も足も出ない。おそらくは祖父が知らないような動きで攻めても、一瞬で間合いを潰されて何も出来ずに攻撃を食らってしまう。祖父からの攻撃も、もちろんほぼ何も出来ずに食らってしまう。初撃を受けたり流したりしようにも、それを読まれて殴られる。



 フェイントなんて当然読んでいるつもりだ。だが、祖父と対錬していると、もはや何がフェイントで何がそうでないのか、完全に分からなくなってしまう。そうしたやりとりが、数分のうちに何十と繰り返される。祖父の道場は、素手だけでも痛いのに、直弟子は刀も使うからその痛みは尋常ではない。木刀だから体は切れないし、もちろん本気で当てたりもしない。が、軽くでも耐えがたい痛みだ。



 普通の生徒にはしない鍛錬だが、武器があっても無くても『動きの元は変わらない』らしい。せめて、こちらから行かなければ殴り放題殴られるから、何とか先に手を足を、刀を、出すのだが……先手だろうが後手だろうが、どちらも意味のない事なのだと終わってから思うのだ。



 祖父に、どうしたらそんな事が出来るのかを聞いても、『反射で動けるくらいまでがんばれ』といった言葉しか返ってこない。頭では分かる気がするが、それを体に反映する事が出来ない。


 ――そう、この頃はまだ、反射で動けるまでがんばれていなかったのだ。だが今は、全てではないが出来るようになってきている。それを、祖父に見てもらいたかった……。いつもそれなりに褒めてくれていたが、きっと、もっと本気で褒めてくれたはずだ。



 あんなに強い人が、仙人みたいな人が、死ぬはずがないと思っていたのに。でも、老衰だって言われたら、なんとも腑に落ちた。悲しいけど、そうか。と。

 でもやっぱり、出来るようになった姿を、死ぬ前に見てもらいたかった。見せてあげたかった。孫のオレを、自慢にしてくれていたから、余計に……。



「じいちゃん……会いたいよ……」

 久しぶりに祖父の夢を見て、あまりに強く思ったのかもしれない。その寝言で、なんとも切ない気持ちで目が覚めた。目が覚めたが、泣いてしまっていたらしい。涙で視界がぼんやりとしている。





「目が覚めたのね! 大丈夫? その……寝言を聞いてしまったの。ごめんなさいね。おじい様……どうかなさったの?」

 ぼやけた視界には、二人がこちらをのぞき込むように映っていた。金髪碧眼の女性と、栗色の髪でブラウンの目をしたメイドさんのようだ。



 ここは少し広めの天井で、十畳以上はあるだろうか。頭の近くには大きな窓があり、夕焼けの赤い光が少し差し込んでいた。二人の他には、天井と壁くらいしか視界に入れられない。つまりオレは、ベッドに寝かされているのだろう。オフホワイトの天井と壁は、夕日を受けて温もりがあり、居心地を良くしてくれていた。



「あ……いえ、これは、夢で……」

 今発したはずの声は、いったい何だろう。自分のものではない。



「いえ……ンッ、ごほっ。はい。祖父は、亡くなって、います」

 自分が出しているだろう声色と喉に違和感があり、少し咳き込んでしまった。聞きなれた自分の声ではないが、しかしこの声は、確かに自分が話した言葉だ。少しかすれているが、少女のようなかわいらしい声だ。



(これは……女の体になった、オレの声なのか?)

「そう……。立ち聞いてしまってごめんなさい。でも、目が覚めて良かった。それで、あなたの事なんだけども……教えてもらってもいいかしら。私はリリアナ。この屋敷の主人なの。こっちはシロエ。あなたの看病をしてくれていたのよ」


 そう言った金髪の、凛とした綺麗な声のリリアナという人は、手を隣に向けてシロエという女性も紹介してくれた。



(看病を……。オレは、助かったんだな)

「あり、ありがとう、ございます」

 まだ上手く声が出ない。



(それに、言葉に何か違和感がある……そう、日本語じゃない。なのに言葉が分かるし、勝手に相手の言語で話している。耳慣れないのに、馴染んでいる――)

「本当に目が覚めて良かったです。衰弱が酷かったので、危なかったんですよ?」

 シロエというメイド服の人は、高く柔らかな声をしていた。



 涙が引いてはっきりと見えてきた目で、リリアナという人とシロエという人に改めて目を合わせた。そのまま驚きとともに、何度も二人を交互に、まじまじと見てしまった。あまりに美しいからだ。



「何か驚いてるの? 大丈夫よ。ここにはあなたに酷い事をする人間は居ないわ」

 リリアナという人が、優しくなだめてくれた。置かれた状況はよく分からないが、助けてくれたし、悪い事を企むような人たちには見えない。しかしそれにしても、こんな美人を間近で見た事がない。芸能人でもそうは居ない。そう思うと、とたんに緊張してきてしまった。こんなに綺麗な人と会話した事なんて無いのだ。



「い、いえ。その。お二人とも、すごく、キレイ……なので。驚き、ました……」

(何を言っているんだオレは。それに、今、絶対に顔が赤くなっている。状況を掴むために冷静にならないといけないのに、何を考えているんだオレは……)



「まぁ! 目覚めてすぐ褒めてくれるなんて。ありがとう。あまり言われる事がないから、嬉しいわ。でも、あなたもとっても可愛いわよ? 少しやつれてしまっているけれど、お食事を摂って? そしたらきっとすぐに良くなるし、もっと可愛い姿に戻るわ」

 リリアナは、オレの左手を取ってキュ。っと、握りしめてくれた。



「それと、いつまでもあなたと呼ぶのは寂しいわ。お名前、教えてもらってもいい?」

 そう言われて、ハッとなった。



(何と答えればいい? 今は女の姿、少女であるなら、本名のユズキはまずい。かといって、何が適当なのかも分からないぞ……全て信じて本当の事を話すか? しかし、それでは運任せが過ぎる。どうしたらこの人たちを信じられる? 記憶を失ったとでも言うか……しばらく様子が見たい)



「あの……思い、出せません」

(地球に無いような、ウソ発見器や思考を読む装置なんかがあったら終わるか……だが、そうした道具類は近くに無いように見える。咄嗟にしては下策とはいえマシな方か……?)



 なるべく表情に出さないようにしているつもりだが、どうにも体と意識の繋がりが悪いままのようで、不安な気持ちが顔に出てしまっているのが分かった。体も、思うように動かせないままだった。眠っていたせいか、あの街道の時のようにさえ動かせない。力が全く入らない。



「……そう……なの?」

 リリアナの表情は怪訝そうに見えた。そしてシロエの方に向き、シロエは首を横に振った。


「ごめんなさいね。辛い記憶も、思い出しちゃうわよね。いいわ。名前は思い出したらでいいし、何なら新しい名前を私がつけてあげましょうか。その方が、もしかしたらあなたの気持ちも楽になるかもしれないし。嫌じゃなければだけど」



 オレはコクリと、一度だけ頷いて言った。

「おねがい、します」

 それを聞いたリリアナは、短く「ホッ」と息をついた。

 そして、次はオレの顔をじーっと見つめて、少し頭をかしげて考え込んでいる。



「そうねぇ……。うん。決めたわ。あなた本当に可愛いし、エラという名にしましょう。今日からあなたは『エラ』よ。どうかしら」

 割と自信ありげな表情で、意外とさっくりと決めてくれたようだ。そして、一応こちらの気持ちも考慮してくれるようだった。



(こっちは何が普通の名前かも分からないんだし、良いように言ってくれているから迷う必要は無いというものだ)

「はい。ありがとう、ございます。エラ……良い名前、ですよね? そうします」

(引き出せる情報は何でも欲しい)



「もちろん! 良い名前よ? あなたの可愛さをそのまま名前にしたのだから。ね? シロエもそう思うでしょ?」

 何かとシロエに確認を取っているが、それだけ信頼の置ける仲という事だろうか。



「ええ。とても良い名ですね。お嬢様にしては百点満点で驚いたくらいです。とっても素敵なお名前ですよ。エラ様」

 お嬢様を軽くイジってから、オレを早速その名で呼んでくれた。



「ありがとう、ございます」

(エラというのは、可愛いものを差す言葉なのか。そんなに可愛い顔をしているのか?)

 なんとも、少し照れ臭いものだ。



「そういえばエラ様、少しお食事を摂った方がお体のためです。温かいスープをお持ちしますから、少しでも召し上がってくださいね?」


 シロエは、そう言って部屋から出て行った。静かで柔らかな所作が、そしてそれだけでなく隙の無い動きをしているように見える。コツコツという足音はわざと立てているのだろうか。滑らかで自然な動きの中に、足音だけがそれにそぐわないような、少しちぐはぐな気がした。



「すぐに持って来てくれるからね。エラ、体を起こせそうかしら?」

 リリアナはずっとオレの左手を握ったまま、気遣うようにして離さない。

「あ、はい……いいえ、体が、動かないです」


 悲しいほどに、体は何の反応も示さなかった。今は声が出るようになっただけマシだろうか。




「やっぱり……じゃあ、シロエが戻ったら体を起こしてあげるわね。腕も、力が入らないのね。さっきからだらりとしていて、動かせそうになかったから。シロエにも伝えておくから、遠慮しちゃダメよ? してほしい事したい事、ちゃんと言って頂戴ね?」



 こちらの言うことを、信じつつも確認もしている……ように感じる。しかもかなり自然に。


(いいや、考え過ぎか。まさか少女の中身が異星人とは思わないだろう。しかし、どんな発言が地雷になるか分からない以上、こちらからはほとんど何も聞けないぞ。全然気が休まらない……オレはこういう探り合いは苦手なんだ)



 ただ、本当に悪いようにはされないのではと思う。ほんの少しの会話だが、心から気遣ってくれているのが伝わる。向こうもこんな得体の知れない少女を拾って、困惑しているのではないだろうか。



「あの……」

「なぁに?」

 思案しながらゆっくり言葉を選ぶオレに、リリアナは優しく答えてくれる。



「わたし、は、これから、どうなる、でしょうか」

 言葉は分かるし、自然と向こうの言語を話しているが、どこか片言のようになる。脳内の自動翻訳の限界だろうか?



「何も心配しなくても大丈夫よ。先ずは、あなたの体を回復させましょう。エラの事は、私たちが守ってあげるから心配しないで。もう、あなたに酷い事をする人は絶対に近寄らせないから」


 真摯に、しっかりとこちらを見つめてくるその瞳には、まっすぐな想いを感じた。強い意志の籠った眼差しだ。



(これは……疑う方が恥というものだな。しかし、酷い事をする人とは何だ?)

 この少女の身に何かあったという事だろうか。そもそも、俺自身がこの体の持ち主の、これまでの人生を全く知らないのだ。なぜ、街道の外れに倒れていたのかさえ。



「酷い……人。私は、追われて、いますか?」

「追われては……いないと思う。エラ、ご両親の事は覚えている?」

 と、聞かれても全く分からないのだが……そのまま答えても問題ないだろうか。などと考えた所で、オレの頭ではこれ以上の探り合いは無理だろう。



「なにも……覚えて、ません」

「そう……よほど酷い目に遭ったのね。可哀そうに……。そうね、エラがもう少し回復して、たくさんお話出来るように元気になったら、その時にもっとお話ししましょうね」


 リリアナは言葉を選びながら、そしておそらく、『酷い内容の話』をすることになるのだろう。こちらの事を気遣って、この話を終わりにしたようだった。




 ――コンコン

 ドアをノックする音がして、シロエが戻ってきた。

「お嬢様、エラ様のスープをお持ちしました」



「ありがとう。入ってきて頂戴」

「お待たせいたしました。少し冷ましてありますが、まだ熱いようでしたら仰ってくださいね」

 そう言って、シロエはベッドの右側に回る。



「シロエ、エラはまだ体が動かせないの。食べさせてあげて。私はエラの体を少し起こすわ」

 リリアナの手が、枕とオレの首の間にするりと入り、後頭部と首を支えるようにして、フワリと抱きしめるようにオレの上体を引き起こした。



 しかし、首が座らずにかくんと、頭がリリアナの肩にもたれてしまった。

「あら……これではダメね」

 すると、リリアナはベッドに一緒に座り、オレをぴったりともたれさせた。彼女の体に。


「これで飲みやすいはずよ」

 オレの上体はリリアナの膝にもたれた形で、頭はその胸と腕に抱かれて、上質のリクライニングにくつろいだ状態になっている。



「こ……これは、もうしわけ、ないです」

 気恥ずかしさ。申し訳なさで胸がいっぱいになる。屋敷の主人だと言ったリリアナに、こんな事をしてもらうなんて。

(というか、こんな美女にこんな事を……)

 頭はもう、真っ白になっていた。



「あらあら、エラ様、お人形みたいですよ。なんだか絵になりますねぇ」

 ニコニコとしながら、シロエはスープをオレの口元に運んだ。

「少しだけ入れますね。熱過ぎたら遠慮せず吐き出してください」

 何の味だろうか。分からないがとても美味で、口の中が幸せになった。熱過ぎず、優しく喉を温めながら体に入っていくのが分かった。



「美味しい!」


「お口に合って良かったです。焦ってむせないように、ゆっくり飲み込んでくださいね」

 シロエはこちらが飲み込むタイミングを、しっかり見計らってスープを口に運んでくれる。気持ちとしてはもっと飲みたいのだが、体があまり受け付けないようだった。何度か飲ませてもらった後は、どうにも口が開かなかった。



「あら、あまり受け付けないようですね。戻してしまう前で良かったです。気持ち悪くなったりしていませんか?」

 そう言いながら、オレの口元を優しく拭いてくれている。そして、何やらノートにメモをしていた。おそらくは、どのくらい飲めたかを記録しているのだろう。



「ほんとはもっと、お腹いっぱい食べさせてあげたいんだけどね。しばらくは我慢していてね」と、リリアナはオレの体をそっと寝かして、毛布を肩までかけてくれた。

「ご迷惑、おかけ、します」



「いいのよ――」

 ――そうした会話をしていたはずだが、どうやら途中で眠ってしまったようだった。あとの事は記憶に無く、次に目覚めたのはまた数日後だった。







「さぁエラ様、お体お拭きいたしますね~」


 そう言ってシロエは、慣れた手つきでオレの体を拭いていく。恥ずかしいのはもちろん、自分の事は自分でしたいのだが……断ろうにも未だにオレは、体を動かせずにいた。あのスープを飲ませてもらってから数日経っているらしいが、悔しくも状況はあまり変わっていなかった。



「すみません……迷惑ばかりかけて。きっと、いつかお返ししますから」

 変化と言えば、少し流暢に話せている事だろうか。

「そんなの、ま~~ったく気にしなくても良いんですよ? こんな事を言っては何ですが、昔お嬢様のお世話をしていた時の方が、よほど手間が掛かってたんですから。フフフフ」


 どこか懐かしそうに、明るく笑うシロエ。オレに対しても同じように、楽しそうにお世話をしてくれる事が、本当に救われた気持ちになる。



「ほんとに……ありがとう、ございます」

 この屋敷の人達には、頭が下がる。いくら下げても足りないくらいだ。こんな見ず知らずの行き倒れに……厚意が本物だと感じるからこそ、その優しさに目頭が熱くなる。



「あら。な、泣いてるんですか? どこか痛かったですか?」

「い、いえいえ。違うんです。その、ありがたくて、胸を打たれてしまって……」

 涙まで流すつもりは無かったのだが、この体は涙脆いようだった。知らないうちに、本当に涙まで流れていた。



「エラ様は、とてもお優しいんですね。これまで苦労なさったのですから、今は遠慮なんてなさらずに、もっと甘えてください」

 そっと涙を拭ってくれて、そして頭をよしよしと撫でてくれた。

 気恥ずかしいが、こんな風に頭を撫でられる事なんて無かったように思う。慈しみを感じて、ただ素直に撫でられていた。



「私、毎日お世話しているから、分かるんです。エラ様のこの腕も、おみ足も、お肌のハリや筋肉の反応が違ってきてるんです。お体は確実に回復していますよ。エラ様、きっともうすぐ動けるようになりますから。だから、あまり思い詰めないでくださいね?」



 心を見透かされたような言葉に、ドキリとしてしまった。目を見開いてシロエを見つめていたように思う。想いは何も声にならなかったが、もう一度、大粒の涙がこぼれ落ちた。慌てて、それ以上泣くまいと眉間にも口元にもグッと力を込めた。しかし、もうどうしようもなく、ボロボロとあふれ落ちる涙は止まらなかった。



「エラ様……こんなに思い詰めていらっしゃったのですね。本当に、小さな体で、こんなにも……さぞかしお辛かったでしょう」

 シロエもまた泣きながら、ぎゅうと抱きしめてくれていた。



 どれほど経っただろう。ひとしきり泣いた後は、ただひたすら恥ずかしくてたまらなくなってしまった。

「あ、あの。もう大丈夫。大丈夫です」

 抱きしめられた形のまま、赤面している事を除けば。



「いいんですよ。まだまだ私はこうしていたいです」

「い、いえ、これ以上ご迷惑をかけるわけには……」

「もう……エラ様は少し大人びていらっしゃいますねぇ。私は全力で甘やかしたい気分ですのに」

 そう言いつつも、少しこちらの表情を確認してから、ベッドにそっと寝かせてくれた。



「ほんとに少し落ち着かれたのですね。私よりも、よほどしっかりしていらっしゃいますねぇ。それじゃ、お食事をお持ちしますね。今日からお粥だと言っていましたよ。楽しみですね」


 声色はたしなめるようだったが、なんだか、今度はシロエの方が少し悲しげな表情を隠したように見えた。微笑みか悲哀か、オレの頬に手を触れると、そのまま部屋を出ていってしまった。



 ――数分後。戻ったシロエは普通にニコニコとしていて、お粥を何度も根気よく、オレの口に運んでくれていた。こんなに美味しいお粥があるのかと感動し、先程まで泣いていた事などすっかり忘れて夢中で食べた。一口ごとに、まさしく体の隅々まで満たされるような、そんな感覚すら大げさではないくらいに絶品だった。




「フフフ。少量ですが完食ですよエラ様。たくさん食べられてエライですね」

 どうやら、シロエは甘やかしモード継続中らしい。ごちそうさまと言うだけでも褒めちぎりそうな雰囲気だ。



「ごちそうさまでした。おかげで、美味しく食べられました。いつもありが――」

「うううっ! エラ様は本当にエライですねっ! 私、今日は感動しまくりですよぅ」

 本当にごちそうさまで褒められてしまった。しかも、涙まで流して……。




「い、いえ、感謝しているのはこっちですよ。シロ――」

 言い終える前にシロエはまた抱き着いて、そしてこちらの顔を、その胸に埋めてしまった。

「う。うぐ。んんん」



「エラ様、いっぱいいっぱい甘えてくださいね。こんなに健気なのに、こんなに苦労して……私は、シロエは胸がいっぱいですよぉ」

 体の動かないオレは、胸に埋まる感動よりも、息の出来ない状況に冷や汗をかいていた。手でタップする事も、押し剥がす事も出来ない。



(窒息している事に早く気付いてくれないと、あと十数秒で息絶えそうだ……)

 これで死ぬのは間抜けだが、悪くない死に方かもしれない。などと最後の思考を巡らせていた所に、どうやらリリアナが来てくれたようだが――

(――少し遅かったかもしれない……)



「シロエ~ッ! エラが窒息しちゃうじゃないのよ! 早く離れなさい!」

「あ……」

「あ、じゃないのよ! もう! 様子を見に来て正解だったわね」

「すみません、つい~」

「エラ! しっかりして! エラ!」





 体を揺さぶられ、少しいた事に気が付く。

「だ……大丈夫です」

 死ぬときは、どんな時でも死ぬものだと地球でも思い知ったのに、ここでも再度体験するところだった。体が動かない限り、いつ死んでもおかしくないのだと改めて心に刻んだ。


 オレは呼吸を整えながら、意識がある間は常に、体を動かすための何かしらの鍛錬を続けようとも決意したのだった。



「良かった……。シロエ、あとでお説教よ」

「そんなぁ……」

 しゅんとするシロエを、かなり冷たい視線で圧するリリアナお嬢様は少し怖かった。



「あなた、感極まると抱き付くクセを治しなさいってずっと言ってるわよね」

 後で、と言っていたが、すでにお説教は始まるようだ。

「わ、私だって抱き付く相手は選んでますよ?」

 割と悪びれていないシロエは、少し得意げに答えている。



「そういう事じゃないのよ! っていうか、咄嗟の行動のように見えて選んでるわけ?」

 怒りを通り越して、リリアナは驚きを隠せなかったようだった。

「そりゃあそうですよ~。おじさんとかに抱き付くのはヤじゃないですか。可愛い人限定ですよ?」


 テヘ。みたいな仕草が似合う人を、初めて見たような気がする。そしてリリアナは、少し呆れているようだった。



「もういいわ……あとでほんとにお説教だから。それよりエラ、騒がしくしてごめんなさいね。あれからまた、数日意識が無くて心配したのよ? でも、お粥を食べられて良かった……。気分は悪くない? シロエはこんなだけど、お世話するのは上手なの。あれからもずっと看病してくれていたから、元気になったら一応褒めてあげてね」



 この人は屋敷の主と言っていたが、本当に人の上に立つ人物なのだと感じる。その場の雰囲気を作り出せる人と言うのは、意外と居ないものだからだ。


「うん。表情も少し良くなったわね。瞳にも力がこもってる。きっとすぐに動けるようになるわ。だから、安心して体を休めてね? こういう時は、焦るよりしっかり休む方がいいのだから」


 それじゃあまたねと、シロエを連れて出て行った。








 ――少し、気持ちが落ち着いたように思う。

 リリアナとシロエのお陰だと感じる。時間も必要なのだろう。焦っても、ストレスを溜めてしまうだけだ。



 この気持ちがいつまで持続するかは分からないが、突然こんな事になってしまったという事実を、少し受け入れられたのかもしれない。安心できる環境に、身を置けているのだと実感出来た事も大きい。



 そう思うと、急に今の自分が気になりだした。一体、どんな顔をしているのだろうかと。可愛いとは言われたが、どういった意味の可愛いなのか。今まで生き延びる事に必死で、そうした興味など一切持てなかったが……これは、動けるようになった時の楽しみにしておこう。



 この世界の事も、知らなければと考えるよりも、いつの間にか『知りたい』という気持ちに変わってきている。切迫した考えで居る時よりも、視野が広がったような気さえする。

(もしも平和に過ごせる世界なら、新しい人生を楽しめるのかもしれないな……)




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