(2) 第一章 一、奇跡(二)

    **



 ……ガラガラガラ。

 遠くの方から、どこかで聞いたような、固い車輪の転がる音が聞こえだした。

(古い洋画とかで、たまに聞いた音とそっくりだ)

 意識が朦朧としてきた中で、その音を耳が拾っていた。



「……アー。アーアー」


 自分のカスレ声が、かなりはっきりと聞こえる事を確認する。耳もそれなりに回復しているようだった。幻聴ではない。

(聞き違いじゃない。車輪の、馬車の音だ)



 ――ガラガラガラ。


 そして、「どどどっ」という音もはっきり聞こえるようになった。

(馬だ。馬車だし当然か。でも――音が多いし、少し重い音のような……ていうか『車』じゃないのか。この星の文明はどうなってるんだ?)



 意外過ぎる音に多少混乱しつつも、とりあえずそれも受け入れる事にした。音はまだ遠い気がするが、目視で確認できるだろうと未だ重い頭を起こす。


 辺りは、夜に近い暗さの中にあった。かろうじて、姿程度は見えるかどうかという中で、その音の正体に期待をかける。




(嘘だろ――)


 灯り――松明を掲げた騎馬が前に四騎、ランタンをいくつか掛けた多頭引きの箱馬車が一台、その後ろにも同じく何騎か、速度を落としつつ街道をこちらに走ってくる。それらは意外な速さで、もはや眼前に迫る勢いだった。


 彼らは馬でさえ、金縁の黒い馬衣と鞍のせいか威圧感と尊厳がにじみ出ていた。そのうちの一騎には、馬用のプレートアーマーが装着されているだけでなく、何かの紋章らしき装飾が入っている。後ろの箱馬車も、黒塗りに金縁の装飾と、正面に同じ紋章が描かれていた。




(――軍馬じゃないか。野盗みたいなのよりは全然当たりだが、身元不明じゃ捕まる……?)


 十メートルほど手前で隊は止まり、鎧付きの騎馬がゆっくりとこちらに来る。


 馬に跨るその男には、プレートの鎧。口元と目元だけが開いた兜からは金色に光る目。そしてもちろん腕と足にも、金属の防具が鈍く光っている。ガッチリとした体躯に、その鎧は少し窮屈なように感じた。それが余計に、その男の強さを滲み出させているようだった。




 彼は殺気を抑えているようだが、威圧感が剣から漏れ出ていた。その気持ちを隠すつもりは無いらしい。松明と手綱を左手に持ち、少しこちらに掲げるように照らしている。いつでも剣を抜くつもりなのだろう。


「誰だ。なぜこんな所でうずくまっている」


 ハッキリと通る低い声には、妙に抗い難いものを感じた。だが、その声に殺気は籠っていない。警戒と、しかし気遣いを感じさせる不思議な声色だった。




(威圧するだけなら簡単だろうに、オレが女の姿だからだろうか)

 とはいえ、考えてみれば何と答えて良いのかが全く分からなかった。


(正解が見つからない――下手するといきなり殺されるんじゃ……)


「どうした」


 彼はもう一度、警戒と気遣いの混じった声色で問い直した。だが、『早く答えろ』という圧を少し込めている。





「ァ……、オ――」


 ――『オレ』と、言いかけて、バカな事をと思った。

(女の姿でオレとか、たぶんどんな星でもおかしいはずだ)




「――ア、ァシ、ア……」


 急いで『私は』と言い直した。が……

(発声は全然出来ないままじゃないか! そういえば唇と舌は意識していなかった!)

 母音はある程度発せられるようになったので、あとは体を動かす事に全力を注いでいたのだった。






「声が出せないのか? それとも……」


 騎兵の男は、先程よりも確かな威圧と殺気を込めた声を発した。

 おそらくは奇襲――傷病人のふりをした暗殺――に対する警戒を強めたのだろう。彼は剣の柄を握り、すでに刃が少し見えている。




(どうしたら……このままじゃ適当に切り捨てられる可能性が――)


 しかし、もはや頭を回転させるだけの余力さえ残ってはいなかった。

『助けてくれ』と、いう表情くらいは向けなければ。




 だが、その顔を男に向けたかどうかの所で、完全に意識が失われた。気力を振り絞って維持していた四つん這いも虚しく、その場に伏せ潰れたのだった。


「おい。どうした!」




    **



 ――明らかに意識を失ったその姿に、騎兵の男は少し慌てるように馬を降り、そのみすぼらしい少女を抱え上げた。ボロボロの茶色いワンピースには、擦れた雑草が所々に付いている。


「状況は?」


 箱馬車の中から、凛と通る女性の綺麗な声が発せられた。




その声に、少女を抱えた騎兵はすぐさま返答する。


「かなり衰弱しているようです! どこかの手の者という事は無さそうですが……」

 抱えた少女を見て、その騎兵は言葉を選んでいた。




「何です」

 女性は、早く答えなさいと言わんとするような、急かした声色で問い直した。

「銀髪の娘です! 瞳は赤でした。古代種と思われます!」

 その返答に、今度は女性の方が言葉に詰まる。




「いかがいたしましょう」

 捨て置くのもまた。冷静にお考えください。と、男は続けた。

「……感染症状は? 末期症状は無いのですか?」

「末期症状は見られません。純粋な衰弱だと思われます」




 女性は、さらにほんの数秒を一考し――

「――分かりました。こちらに乗せなさい。保護します」

 迷いのない、美しく通る声で静かに短く指示を出した。




 了解しました。と、男は素早く箱馬車に駆け寄り、扉を開けて少女を座席にそっと座らせた。


 中の女性は、少女を支えるように抱き止め、その頭をゆっくりと自分の膝に乗せた。光沢生地のふわりとしたバロックドレスが、少女の頭を優しく受け止めるようだった。女性が覗き込むように首を傾げた拍子に、艶のある長い金髪がするりと垂れた。その金の光沢は、黒とダークレッドのドレスによく映えている。少女を見つめる碧の瞳は、悲しみと哀れみを向けていた。




「後は私が見ます。完全に日が暮れてしまいました。急ぎなさい」

 そう告げて視線を男に戻し、小さく頷いた。命令口調だが、声は優しい。

 はっ。と、男は敬礼し、扉を閉めた。すぐさま自分の馬に駆け乗り「全速!進め!」と、短く号令をかける。




 隊は、統一された動きで瞬く間に隊としてのトップスピードに乗った。並の練度ではない、精鋭部隊にしか出来ない走り出しだった。

 馬車の中では、少女が加速でずり落ちないように、女性が柔らかく、そしてしっかりと支えていた。




「お嬢様、私が致しますのに」

 前後向かい合わせの席に座っている女従者が、「お嬢様」と重ねて声を掛けた。

 主の上質なドレスに、みすぼらしい少女の汚れが付いてしまう事も気揉みしていた。




「あなたの席では後ろ向きで支えにくいでしょう。私で構いません」

 女主人としての威厳を崩さない口調だが、慈しみのある声色だった。ドレスの事など微塵も気にしていない。



「それにあなたには、帰ってからこの子の面倒を見てもらうつもりだから、今のうちに休んでおきなさい」

 そして、世話をかけるだろうけど。と、独り言のように付け足した。




    **



 夜の街道を二時間も駆けると、町に到着した。

 町の周囲は高く頑強な城壁で囲まれており、城門の上の見張りが、主人の隊が帰還してくるのを確認していた。隊は合図を送り、開かれた城門の中へと速度を落とさずに通り抜ける。慣れた門兵によって、門はすぐさま閉じられた。




 この町はそれほど大きくないが、似つかわしくない規模の城壁を持つ。それだけ、脅威が身近にあるという事を表している。


「無事に、町に入ったようね」




 女主人は、緊張した面持ちからやっと、少し穏やかな表情になった。二十歳に満たない娘ながらも、主人としての責任からか、凛々りりしさが備わっている。美しさの中に、時折見せる柔らかな表情には、あどけなさがほんの少し残っていた。




「リリアナお嬢様、長旅お疲れ様でした。本当に、無事に帰って来られて良かった……」

 目の前に座っている女従者は、心の底から安堵していた。どっと疲れたのか、色白の整った顔に、目の下にはクマがはっきりと浮かんでいた。




「ガラディオが居るから大丈夫よ。今日も無事だったでしょう?」


ガラディオは、抜きん出た膂力りょりょくと武功だけでなく、引き際の上手い部隊長で、リリアナの御付きの一人である。今はこの直属部隊を率いているが、元は王直属近衛師団の団長だった。




「だとしても、狼に囲まれたら肝が冷えますって。何が疲れたって、この恐怖が一番の疲労の元なんですよ」


 ほら、見てくださいこのクマ! と、手鏡を見ながらリリアナに顔を向けていた。リリアナよりは少し年上だが、元の気質が明るく朗らかなので、どちらかというと妹のような雰囲気を見せる事が多い。人を落ち着かせるようなブラウンの瞳に、緩いウェーブのある栗色の長い髪。それを後ろで束ねているが、取り乱したせいか後れ毛がいつもより垂れている。




「はいはい。でも、まだあなたにはこの子の看病が残っているのよ? 一刻を争うかもしれないわ」

 やれやれとあしらいつつ、まだ気を緩めきるわけにはいかないと、自分にも言い聞かせるように告げた。


「ええ、分かっております。すぐに準備しますね」

「私も手伝います。シロエ、あなたは部屋と水の準備を。私は薬湯を作ります」

 屋敷にはまだ到着していないが、着いてからの手はずをお互いに確認していた。


 


 ほどなくして屋敷に到着すると、部隊長のガラディオは素早く馬を降り、そして箱馬車の扉を開けた。


「お嬢様。少女は私が運びましょう」

 おっと、少しだけお待ちください。と、断りを入れると、ガラディオは隊員達に「解散」と短く告げた。




 色黒で、厳めしい顔つきで眼光も鋭いが、笑うと愛嬌のある良い顔をする。ガラディオは、「皆よく切り抜けた。しっかり休めよ!」と、ひとこと付け足すと、皆も敬礼して宿舎へと去って行った。宿舎と厩舎は屋敷の隣に併設してあり、どんな緊急時にもすぐに駆け付けられるようになっている。また叩き起こされる可能性はゼロでは無いが、長旅で疲れた部隊をすぐに休ませるのも大切な指示の一つだった。




 ガラディオは向き直ると、「一歩だけ失礼します」と馬車に一歩踏み込み、そのがっちりとした太い腕で、ひょいと少女を抱え上げた。


「ありがとう。シロエに部屋を準備させます。シロエ、急いで」

 シロエは、「はい」と短く答え、ガラディオには「念のため、離れにしましょう」と伝えて、共に屋敷の離れに向かって行った。




 離れは、悪夢のような感染症に誰かが罹患した時に、隔離用にと作られた小屋だった。屋敷からは、五十メートル以上は離して建ててある。


「あの子の体……見た所、あれは放置されていたのかしら……かろうじて食事は与えられていたようだけど、ついに捨てられたのね。よくもあんな所に……動けないように、数日間は何も与えずに弱らせてから捨てたんだわ。信じられない」




 リリアナは一人になってから、ようやく感情を表に出した。怒りのあまり、いつの間にかドレスの裾を強く握りしめていたが、はたと気付いて指の力を抜いた。


「薬湯で、少しでも体力が戻ると良いのだけど……」




「あっ」と、リリアナは御者が馬車の外で待機している事を思い出した。そして、「待たせました」と、彼に手を引かれて馬車を降りた。部隊でも年長者である御者は、主人であるリリアナが一人で馬車を降りる事を許してくれないのだった。




「ありがとうキール。あなたもよく休んで頂戴ね」


 キールが居なくては、騎馬と同じような速度で駆ける事などできない。この腕利きの御者が居るからこそ、安全な、獣に追い付かれない速度で移動出来るのだ。キールに見送られながら、急ぎ足で屋敷の中へと向かった。




「私の周りは有能な人達ばかりね。ありがとう皆、そしてお父様」


 無事に帰るといつも、家臣と父に感謝の言葉を紡ぐのが習慣になっていた。本心からあふれる気持ちで、自然とこぼれるのだった。




「おかえりなさいませ。お嬢様」


 屋敷で出迎えたのは、執事のセバスチャンだった。細身の長身で口ひげを綺麗に整え、いつ見ても姿勢が崩れている事が無い。背筋が自動的に伸びる装置でも付いているのかと思う程だ。




「ただいまセバス。ちょっとその、薬湯を淹れるわね」

 理由を説明する時間が惜しいと思い、リリアナは言葉を濁して調理場に向かう旨を告げた。


「かしこまりました。何か必要なものはございますか?」

 理由を言わなければ、聞かない。不必要にあれこれしようともしないし、不足があればいつでも助力する。そういう風に出来ている男がセバスチャンであった。




「そうね、漏斗だけ準備してくれるかしら」

 言葉を濁した事。薬湯と漏斗が必要な事。この二つから、セバスチャンは『誰かが衰弱していて、しかも自力で飲み込む事が出来ない状況にある』という事を察した。

「はい。それでは改めて洗浄と消毒をして参ります」




 期待以上の申し出に、リリアナは驚いて少し目を見開いたが、この男はいつもこうだったと思い直した。

「ありがとう。助かります」



 そう言って、自身は調理場へと向かった。他の従者なら『私がやります』などと、いちいち自分でする事の理由を説明しなければならない所だが、セバスチャンはリリアナの言動に割って入らない。リリアナがする事には全て意味があっての事だから、余計な手出しは不要であると十全に理解していた。




(セバスの読みだけは、いつも驚かされるわね。何を拾って来たかまで察してそう……)

 リリアナは小さくつぶやき、薬湯の準備を進めていた。




     **



 リリアナは、この国の王女だった。王位継承権も十三位という遠い位置だが持っている。本来ならば「王女様」と呼ばれるところを、本人がそれを嫌がった。れっきとした直系の王族なのだが、破棄したと言い張っている。継承戦争のようなものが起きても巻き込まれたくないから。と、いう事だった。



 この度の王都への往復は、定期的に行われている。王都にわざわざ出向かせるのは、王がリリアナに会いたがる事以上に、王子達の何人かがリリアナの本意に偽りが無いかを確認するためであった。こうした事は、大体が王位継承権の中位にあたる人物があら捜しをしたいためなのだが、あまり無視を決めても逆に腹を探られてしまう。



 どちらにしても馬鹿げていると思うリリアナだが、「親を安心させる効果があるならそれも良し」と、割り切って出向いている。兄弟はあまり好きではないが、親である王と王妃の事は好きだし、尊敬もしているからだった。



 末席の王女が町をひとつ治めているのは、臣民を近くで守りたいというリリアナの一心で、王の理解を得る事に一番苦労した所である。王は、可愛い娘を手元に置いておきたい気持ちと、王族としての使命という大義に――と、建前では言っているが、大事なひとり娘に嫌われたくないために――相当悩んだ結果、精鋭部隊を連れて行くならと泣く泣く承諾したのだった。


 それでも、少数で移動するなど本来なら、普通の王族は絶対にしない事だった。それは、万が一獣に囲まれた時に、対処しきれないからである。




 この『獣』は、特別に人を好んで襲う。それが何種類も存在している。


 数が多いために最も遭遇するのが、狼のような見た目のものだ。体長は尾を含まずに、二メートルを優に超える。これは必ず五匹以上で狩りを行うという習性がある。他には熊のような獣が体長五メートル、トラのようなシマのある獣が体長四メートル程の大きさを持つ。熊とトラは、基本的に一頭で狩りをするが、どちらも二頭以上でチームを組む事もある。




 彼らは、まるで人間を主食にしているかのように、人を見れば必ず狙ってくる。満腹ならば他の動物は見逃しても、人間だけは逃さない。攻撃性も高く、多少の傷では怯まない。つまり出会ったら最後、重傷を与えるほかに逃げる手段は無い。多少訓練された程度の兵士達では、切り抜けられないだろう。




 しかし、ガラディオはその獣の群れに囲まれようとも、難なく突破口を開く。先端に槍と斧を付けたような鋼鉄製の長物を振るい、獣を容易く弾き飛ばせるからだ。そして、部隊は少数だからこそ、その小さな突破口から抜け切る事が出来る。


 普通は馬車が居ては追い付かれるが、キールの操縦する八頭馬車は、騎馬と変わらない速度で獣の追走を引き離してしまう。騎馬隊も各々が優秀で、ガラディオの真似は出来なくとも、一匹ならば容易く完勝する猛者ばかりであった。




 隊が獣の群れを突破した後は、今度はガラティオがしんがりを務める。後ろから追いすがる獣を、薙ぎ払いながら平然と抜け切ってしまう。


 これは常人に出来る事ではないし、ガラティオが居なくては、こんな無謀な人数で町から町への移動は到底出来ない。この精鋭揃いの部隊だからこそ敢行できる荒業の中の荒業であるが、それが『わざ』として可能ならば、最も理に叶った行軍と呼べるものだった。




 それと言うのも、王都へは速く駆ければ一日で到着できるギリギリの距離であるからで、「可能なら早い方が良い」と、リリアナの意見を通した結果だった。


 間に野営するとなると荷が増え、夜の見張りのために人員を増やし、野営中に獣に囲まれた時、完勝するための兵士を揃えるとなると、さらに数が必要になる。王族を連れて野営するという事は、部隊を今の何倍にもしなければならない。そんなコストも時間も人員も、町の警固を割いてまで掛ける必要は無いというのが、リリアナの意見だった。


 


 開けた街道で獣に出くわす事はそこまで多くは無いのだが、全く無いと言える程に討伐が出来ているわけでもない。町への移動を十回すれば一度は当たるかなという頻度で、今回も久々に、運悪く帰りに襲われたのだった。




 いつも通りガラディオが突撃し、突破口を開いてそこを全速で突き抜ける――はずだったのだが、横槍が入ってしまった。誰の手の者かは確認出来なかったが、矢を射かけられ、隊列が乱れてしまったのだ。射手は数本の矢を放った後逆方向にすぐに逃げ去り、こちらも何とか切り抜けたのだが、暗殺を目的とした襲撃を受けたのは初めてだった。




 もしも手練れの相手が混じった中で、獣の群れにも応戦しなければならない状況だったとしたら……負傷者や死人が出たかもしれない。従者のシロエは怯えきってしまっていて、今回は本当に危ない行軍になってしまったと、リリアナは一人反省していた。




 古代種と呼ばれる少女を見つけたのは、その襲撃の少し後で、獣を振り切って間もない時だった。全員がピリピリとした戦闘の余韻を残したままで、しかも夜が迫っていた。少女を拾う事を躊躇したのは、襲撃がそこでもう一度あるかもしれないと考えたからだ。


 だが、そんなお粗末な手を使うだろうか。あれはおそらく様子見で、あるならば次回以降に、もっと数をぶつけてくるはずだと、そう考えた。『少女が居るのは偶然だ』という判断は、正しかったのだと。




(――それに、古代種なら自分で利用するはずよね)


 屋敷で薬湯を準備しながら、リリアナはもう一度胸中で繰り返した。足を止めたあの時にもし、本当に襲撃が繰り返されていたらどうなっていただろうか。今の隊ならば数倍の数までは耐えられる。が、五倍ほどをぶつけられたら、要人守護の足かせ状態では全滅しかねない。




(――古代種なら足止めできる。と、考えていたなら?)

 とはいえ、あの暗がりでは、無視を決め込めば髪色など見分けが付かずに走り抜けていただろう。速度を緩めずにトップスピードのままならば、なおの事だ。




(……考え過ぎも、良くないかしら)

 エサを置くにしても、警戒度が最大の状態の時になど、無視される可能性の方が遥かに高いと敵も分かっているはずだ。




(だから再度の襲撃はあり得なかったし、助けてあげられて良かったのよ……ね)

 しかし、ガラディオの「捨て置くのもまた」という言葉がリリアナの頭から離れなかった。




 あの時間が部隊を危険に晒している事も、古代種が面倒な事に変わりない事も、頭では分かっていたのだが……リリアナには臣民を、しかも倒れ込んでいる人を捨て置く事が出来なかった。少女なら、尚更だった。

「……とりあえず、反省会は明日ね。薬湯を持っていくとしましょう」




     **



 離れでは、すでに少女をベッドに寝かせ、シロエがその体を拭いている所だった。ガラディオは、少女を運んだらすぐに宿舎に戻ったようだ。


「傷は? あと、汚されていないか、とか……」

リリアナは、虐待がどのレベルのものかをシロエに尋ねた。




「そうですね、おそらくは放置がほとんどだったのではないでしょうか。目立った傷はありません。食事も、虐待レベルですが僅かに与えられてはいたようです。この数日間は完全に抜かれていたようですが、発見したタイミングが良かったですね。あと一日遅ければ危なかったかもしれません」


「そう。見立て通りね。まだ……良かったって言えるかしら」




「はい。純潔も大丈夫でしたよ。お嬢様が面倒ごとを言うのはいつもの事ですから、あとはそんなに気になさらなくても大丈夫ですよきっと」

 シロエも疲れているはずなのに、リリアナの行動を励ましてケラケラと笑ってくれている。


「ふふ。ありがとうシロエ。ところでこの子、水は飲めたかしら。予防のためにも飲ませておきたいのだけど」




「それが、意識が全く戻らなくて……脱水も心配なので、起こしたいんですが」

 そこまで疲弊するものだろうかと、二人で顔を見合わせる。


「……しょうがないわね」

 リリアナは苦渋の決断をしたような表情で、シロエの目を見て頷いた。




「え……本当にするんですか?」

 そのつもりでこれを持ってきたのよ。と、漏斗をシロエに手渡した。薬湯も、ほどよく冷めているからこっちからねと告げる。




「あの、後ろの初めてを奪ってしまう事になるのでは……」

 センシティブな事なので! と、シロエはリリアナの決断を非難めいて最後の抵抗をしてみせた。 

「ならないわよ! 私も手伝いましょうか? シロエ」




 意識が無い時や、特殊な状況下で水の汚染度が高い時、粘膜吸収を期待して『後ろから注入』する事がある。今は脱水状態が非常に心配なため、薬湯を『どこから飲ませる』のかは四の五の言っていられないという判断だ。その辺りは、シロエには決断しきれない所がある。


 リリアナは、お互いに眠いのだし早くなさい。と、ぐいとシロエから漏斗を取り上げようとした。




「お嬢様……分かりました。せめて、目撃者は一人の方がこの子のためです」

 観念したシロエは、少女の尊厳のためにと、リリアナには退室を求めた。


 王室医療の秘伝のひとつ、『リリアナ特製の薬湯』は排出機能を一時的に低下させ、腸内で水分吸収を促す調合になっている。そのため、排出されてしまう事態はそう起こらないのだが、外部から注入する姿は、きっと人には見られたくないだろうというシロエの配慮だった。




「そういうものかしら? まぁそれじゃあ、シロエは明日お休みになさい。必ず休む事。いいわね?」

 救命行為に頓着の無いリリアナはそう言い残し、小屋から出て屋敷の寝室へと向かった。




 二人は、お互いにやっと一人になった所で、ホッと心の緊張が解けた。

 リリアナもシロエも、思いのほか疲弊していた。道中、これまで獣に出くわすことはあっても、対人戦闘になる事は無かったからだった。




 獣は知能も低く、行動パターンも分かっている。だが、人間は別だ。本能ではなく、意思で動く。そこには思想や欲望、支配や恐怖などが入り乱れる。今日は単騎で、しかもすぐに引いてくれたから良かったものの、相手側にもっと伏兵が居て乱戦になっていたら……などなど、『読み切れない状況』が、いつか来るという事実を突きつけられたのだ。いわば、予期せぬ初陣となってしまった事は、非常に大きなストレスとなっていた。




 実際としては、リリアナもシロエも箱馬車の中で、二人して小さく身を寄せ合っていただけだったのだが……リリアナは自分の選択のせいで皆を窮地に陥らせた事を、シロエはただ何も出来ない自分に、悔しく歯がゆい思いに打たれていた。


『長い一日だった……』

 二人は、今日この日の無事を噛みしめて、奇遇にも同じタイミングでそう言っていた。




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