1話 リリア&ルナ姉妹

 それは正午を少し過ぎた頃のことだ。花は咲き乱れ、鳥は歌い、太陽は眩しく輝いている。今日も森は平和な様子を見せている。だがそんな中、異変は突然訪れた。謎の男――勇者がどこからともなく現れ、森の中に倒れ込んでいたのだ。


(体を上手く動かせない……。これが手の感覚か……?)


 彼は前世とは異なった身体感覚に戸惑っていた。目はまだ上手く開くことができず、触覚もイマイチだ。かろうじて手の感覚が掴めてきたところである。女神達によると、かつての体にそのまま魂を戻すのは掟に反するとのことだった。そこで、新しい肉体を用意してもらったのだが、この様子では慣れるまでにはしばらく時間がかかりそうである。


(――むっ? これは、柔らかい感触だな……。スライムか何かだろうか?)


 勇者は、ぼんやりとした頭の中でそう考えた。そこでようやく、閉じられていた目蓋が開き始める。少しずつ光が差し込み、やがて視界がハッキリしてくる。最初に見えたのは、美しい女性だった。


(誰だ……?)


 勇者は、まだ完全には覚醒していない頭で考える。彼女の瞳の色はとても美しいルビー色だった。髪は黒色のロングで、高い身長と調和が取れているように思えた。


「あの……」


 女性が勇者に向かって話しかけてくる。だが、それ以上の言葉は発しなかった。代わりに動いたのは、彼女の視線だ。その視線は勇者の瞳ではなく、彼の手へと注がれている。そこには、彼女の胸があった。とても大きく、柔らかい胸だ。


(マズイっ!?)


 勇者は慌てて手をどける。


「エッチ……」


 女性は顔を真っ赤にして呟く。だが、勇者はそれどころではなかった。


(何かがおかしい……俺の腕はどうなっているんだ!?)


 勇者の腕は、人間らしいものではなくなっていた。その腕はまるで獣のそれのように毛深くなっており、指先からは雄々しい爪が伸びていた。勇者は自分の体に起きた変化に驚き、動揺するばかりだった。彼は震える身体を起こして、腕に続いて足や全身も確認していく。そして、一つの結論に達した。


(俺は……狼になっているのか!?)


 彼の頭は真っ白になる。前世とは異なる体を用意するとは聞いていた。それはいい。だが、てっきり同年代の男の体だと思っていたのだ。百歩譲って、多少年代が前後することぐらいは覚悟していた。しかし、まさか動物になるとは思ってもみなかった。


(ぐっ……)


 あまりにも衝撃が大きかったせいだろうか。あるいは、身体にまだ慣れていないにもかかわらず体を起こしたせいだろうか。彼は立ちくらみを起こしてしまう。そして運悪く、彼が倒れ込んだ先には女性がいた。結果的に、彼は女性を押し倒す形になってしまった。


「ひぃっ……! だ、だめぇ……」


 女性は怯えたような声を上げる。だが、逃げることはしなかった。彼女は顔を赤らめ、そしてその赤面を隠すように髪を前に引っ張り顔を覆った。彼女は明らかに勘違いをしていた。不慮の事故ではなく、意図的に押し倒してきたのだと。


「やぁん……。乱暴しないでくださいぃ……」


 彼女は恥ずかしげに身をよじる。その姿は実に艶めかしいものだった。勇者は思わずドキッとする。彼の暖かい息が彼女の滑らかな肌に触れる。すると彼女はビクンと体を震わせた。


「あぅ……」


 彼女は小さく喘ぎながら、潤んだ瞳で勇者を見つめる。彼女の顔には羞恥の色が浮かんでいた。そして、意を決したように瞳を閉じる。


「【レビテーション】」


 二人の間の空間に黄色い魔法陣が現れる。それは勇者に作用し、彼の体をわずかに持ち上げた。その隙に、彼女は勇者の体の下から素早く抜け出した。彼女は深呼吸すると、攻撃態勢に入った。


「【エンチャント・アタック】【エンチャント・スピード】」


 彼女が呪文を唱えると、赤とオレンジの魔法陣がそれぞれ彼女の体に現れる。彼女はもう一度深呼吸すると、右足を大きく振り上げた。


「何事にも……順番があります!」


「グフッ……」


 勇者の腹部に強烈な蹴りが入る。彼はうめき声を上げ、勢いよく吹き飛ばされたのだった。


*****


 狼として転生を果たした勇者。彼は些細な誤解から、女性に勢いよく蹴り飛ばされてしまった。彼の体は森林地帯を抜ける。空中でバランスを取ろうともがく彼の視界は、広大な湖を捉えていた。そこは”無限の湖”と呼ばれる特殊な場所であり、回復効力を持つ魔力水が豊富に存在する。だが、今の勇者はそれどころではない。


(これはマズイ! なんとか停止を……)


 湖まではまだかなりの距離がある。だが、勇者の研ぎ澄まされた感覚は、彼の進行方向に強大な生物がいることを感じ取っていた。


(このままでは衝突してしまう……。どうにかして止めなければ……!)


 彼は地面に足を引っ掛け、ブレーキをかける。だが、それだけでは止まることができない。


(何か魔法で止まることはできないか? だが、俺が使える魔法では……)


 前世の彼は、魔法を苦手としていた。賢者のミアからはよく呆れられていたものだ。


「ぐぉっ!」


 彼の背中に衝撃が走る。だが、それは勢いの割には小さな衝撃にも思えた。


(影結界……? これはとても高度な魔力結界だ。いったい誰が……?)


 勇者は痛みに耐えながら思考を巡らせる。その時だった。


「ふふ……。勇者、痛かったかしら?」


 謎の少女が声を掛けてきたのだ。彼女は小柄で、ダークグレーの中くらいの長さの髪を持つ美しい少女だった。アホ毛が特徴的な可愛らしい顔をしている。勇者をここまで蹴り飛ばした長身で黒色ロングの髪を持つ女性とは、異なる雰囲気を纏っていた。唯一の共通点として、瞳がルビーのような美しい色合いをしていることがあげられるだろう。ただし、こちらの少女はまるで死んだ魚ような瞳をしているのが特徴的だった。


(誰だ……? なぜ、俺が勇者だということを知っている……?)


 勇者は警戒を強める。だが、彼が考えを巡らせる前に、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「リリアお姉ちゃん! そんなに高度な結界を張って大丈夫なんですか!? 霊体の維持が……」


 彼をここまで蹴り飛ばした女性の声である。


「これぐらい大丈夫よ。というか、あんたが考えなしに蹴り飛ばすから、あたしが止めてあげたんじゃない。――ほら、ルナ。あたしの前に来なさい」


「ふぇえ……。――いたぁっ……」


 姉の前に移動した女性――ルナは情けない声を上げる。姉からデコピンを受けたのだ。そんなやり取りを眺めていた勇者は、少しばかり頭が混乱していた。


(この少女がお姉ちゃんだって? 二人が姉妹なのは……まぁ瞳が同じような赤色だから納得できるとして……。こっちの小さい方がお姉ちゃんなのか?)


 小柄で、ダークグレーのミディアムの髪(アホ毛付き)を持ち、死んだ魚のような目をしている方が姉。長身で、黒色ロングのストレートヘアを持ち、快活そうな印象を受ける方が妹。少し信じがたいが、どうやらそういうことらしい。勇者が思考を整理していると、デコピンダメージから立ち直った妹が口を開いた。


「蹴ってしまってごめんなさい。遅くなりましたが、自己紹介しますね。私はルナ。こっちはリリアお姉ちゃんです。今は霊体ですけど……」


 彼女はそこまで言うと、軽くお辞儀をした。そして、顔を上げて言葉を続ける。


「あれを見てください」


 彼女は湖上を指差しました。そこには、二つの肉体が浮かんでいた。


(あれは……誰だ?)


 勇者は疑問に思いながらも、彼らの姿を凝視する。だが、遠目では彼らの正体が何なのか分からない。


「片方はリリアお姉ちゃんの体、もう一つはグランベル国王の体です」


(え……?)


 勇者は耳を疑う。そして、しばらく呆然とそれらを眺めていたのだった。


*****


「あの……狼さん。あなたの考えをお聞きしたいのですけど……。お話できますか?」


「がう?」


 ルナに言われ、勇者は即座に答えようとする。だが、上手く声を出すことができなかった。勇者から転生してから驚きの連続で忘れかけていたが、今の彼は狼なのだ。人間の言葉を上手く発することができない。


『貴方の思考を音声化するための技能を創造しますか? YES/NO』


 その時、無機質な音声が勇者の脳内に響いた。リリアの声でもルナの声でもない。それは神界の女神達の声に似ているように感じた。勇者はとりあえず、その言葉に従ってみることにした。


(答えはYESだ。俺は、狼の姿でも話せるようになりたい……!)


 彼は心の中でそう念じる。すると次の瞬間、緑色の魔法陣が彼の頭上に形成された。それは彼の全身を通り抜けたかと思うと、虚空へと消えていく。そして、彼の脳内に再び声が響き渡った。


『【発声】の技能を創造しました。これにより、自らの形態に左右されず人語の発声が可能となります』


「あ……あ……。は、話せるぞ! 一体どういうことだ!?」


 勇者は転生後、始めて人語を発することに成功した。前世よりも少し声質が低くなっているようだ。


「あはは……それはあなたの【創造】スキルのおかげでしょう」


 ルナがそう答え、リリアは同意するように頷いた。


「創造スキル?」


「はい、勇者様! それはとっても珍しい能力なんですよ! 特別な役割を持つ人しか持っていません!」


 ルナが無邪気に答える。だが、勇者の頭の中は疑問符だらけだ。


「どうして、俺が前世で勇者だったって分かったんだ? というか、前世の俺は【創造】スキルを持っていなかったんだが……。勇者が特別な役割じゃないって言うんなら、一体誰が特別なんだよ?」


「ふふふ……。それはリリアお姉ちゃんです!」


 ルナが誇らしげに言った。どうやら、リリアも【創造】スキルを持っているようだ。だが、その答えは勇者の疑問を解決するには不十分だった。


「魔王……」


 リリアの声が静かに響いた。


「何だと……?」


「【創造】スキルを与えられるのは、魔王の役割を持つ者よ」


 勇者が問い返すと、リリアは微笑みながら言葉を発した。


「今生の俺は……魔王だって言うのか? 俺が魔王に転生してしまったと? 女神様はこの世界を救いたいんじゃなかったのか? どうして、悪い魔王なんかに俺を転生させたんだ……?」


 勇者の頭の中がぐちゃぐちゃになる。彼は混乱しながらも、必死で言葉を紡いだ。そんな彼に対して、ルナは優しく語りかける。


「勇者様。いろんな疑問が浮かんでおられるようですが、まずは一つ明確に致しましょう。”魔王”という言葉を聞いて、何を思い浮かべますか?」


「…………」


 勇者の頭の中には、人族が魔王に抱いているごく一般的なイメージが浮かんでいた。悪の親玉。人類の敵。世界を滅ぼす者。しかし、ルナの澄んだ瞳を見ると、その答えは間違っているように思えた。


「何となく察しがついておられるようですね。”魔王”は世界にとって悪い存在とは限りません。ただ単に、魔族の王に選ばれたというだけの存在なのです」


 彼女はそこで一呼吸置くと、再び口を開いた。


「人間と同じです。”人間の王”という言葉には、悪い意味は込められていません。”魔族の王”も、本来それは同様です」


「……つまり、”魔王”は本来、ただの魔族の代表に過ぎないということか」


「ええ、そうね」


 勇者の答えに対し、ルナの代わりにリリアが首肯する。


「それじゃあ、どうして戦争なんて起きたんだよ?」


「権力への欲求、飢餓への恐れ、他にもいろいろあるわ。人族も魔族も、決して一枚岩ではない。いろんな思惑が絡み合った結果、この世界に争いが生まれたのよ」


「……なるほどな」


 勇者はリリアの説明を聞き、納得した。それと同時に、彼はあることを疑問に思った。


「リリア……じゃあどうして、戦争を止めなかったんだ? 前世の俺に……あるいは魔王を誤解している一般民衆に真実を広めれば、戦争を止めることだってできたんじゃないか?」


 勇者は純粋な疑問を口に出した。リリアは一瞬、悲痛そうな表情を浮かべる。だが、すぐに元の凛とした顔つきに戻った。


「父の予言よ」


「お父さんの予言のためです」


 リリアとルナが揃って答える。その態度からは、強い決意のようなものが感じ取れた。


「なるほど……。自らが傷つくことを知りながら、それでも予言に従ったわけか。それでも守るべき未来があったと……。その行動には敬意を表するべきだろうな」


 止められたかもしれない戦争を止めなかった姉妹は、本来であれば責められるべき対象だろう。しかし、彼女達の揺るがぬ目を見ていると、勇者はどうしても非難の言葉を口にすることができなかった。


「――それで、今後はどうすればいいんだ? 君達の父君の予言について、もっと詳しく聞かせてくれ」


「えっと……それは……。リリアお姉ちゃん」


 ルナが助けを求めるようにリリアの方を見る。


「……」


 リリアは何も答えない。ただ、どこか遠くを見つめるような目をしていた。


「リリア?」


 勇者が彼女の名を呼ぶと、ようやく彼女は勇者に視線を戻した。


「これ以上、あんたに詳細を伝えるわけにはいかないわ。一つずつ、予言に従った行動を取ってもらうことになる」


「……そうか。それで、具体的には?」


「あんたの【創造】スキルを駆使して、人間形態になりなさい。そして、ルナと二人でクランドル砦に向かうのよ。そこでイベントがあるわ」


「え? リリアは行かないのか?」


 今この場には、三人いる。勇者、小さな姉リリア、長身の妹ルナだ。てっきり、勇者はリリアも一緒に行くものと思っていた。


「私の肉体は、この湖に囚われているのよ。湖のすぐ近くならこうして霊体で活動できるけど、クランドル砦までは動けないわ。回復するまで、グランベル国王の体と一緒にここで留守番ね。イベントにはあんた達二人で行ってもらうしかない」


「ふむ……。それで、イベントって何だ?」


「結婚式よ」


 リリアはさらりと言った。


「……誰のだ?」


 勇者は思わず聞き返した。


「カドベリーの賢者ミアと、貴族のケイン卿の結婚式ね。あんた達は、その結婚をぶち壊しに行くの」


「ミア……? えっ!? あのミアが結婚!? しかも、デブで欲張りで傲慢なケインと!!??」


 勇者は驚きの声を上げた。前世の彼は、魔王を倒すべく色恋沙汰から遠ざかっていた。だが、そんな中でもわずかながらいい雰囲気にもなったことのある相手が存在する。それがミアだ。彼女がいけ好かない貴族と結婚すると聞いて、心穏やかではいられなかった。


「驚いている暇はありませんよ。早く変身してください! クランドル砦に向かいます!!」


 ルナが慌ただしく急かす。彼女は強化魔法を発動したかと思うと、勇者の巨体を抱えて森の中を進んでいった。リリアはその様子を静かに見送っていたが――


「あっ……」


 不意に、何かを思い出したかのように声を上げる。


「【創造】スキルの有効時間を伝え忘れていたわ……。日が沈んでいる間しか使えないのだけれど……」


 彼女は呟くが、既に遠くまで行った二人にその声が届くことはないのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る