第64話 大奥は華やかに咲く 陸

 御広敷おひろしきを出ると塩沢が立っていた。


「塩沢さま。どうしてここへ?」

「お前がどう考え、どう凌ぐかこの耳で聞いておきたかったのじゃ」


 高遠の鼻先あたりにある目が光る。


「――やはり、お前は大奥になくてはならぬ存在じゃ。それがようわかった」


 大任を無事終えた臣下の労をねぎらうような声だった。

 しかし、どこか気分が晴れない。勝つか負けるかの二択しかなく、勝ったはずなのに心に棘が刺さったような痛みが残る。塩沢はそれを悟ったかのように、


「あれでよい。よいのじゃ。下手な情けはかえって傷を深くする」


 そう言い、高遠の前から去った。


 ――下手な情け、か。


 塩沢らしい言葉だ。じりじりと痛みを与えるより、いっそひと思いに刃を振り下ろす方が苦しみは少ないと決断できる立場にいる。だが、高遠は考えた。沢渡主殿頭は、どこで間違えたのだろうか? と。


 ――わからぬ。……が、金崎殿に罪をなすりつけたときには、すべては破綻していたのだろう。


 なりふり構わない行動として金崎を見せしめにし、大奥を敵に回したのは悪手だった。沢渡主殿頭の老中首座という地位は長くは続かないだろう。

 沈んでいく泥船から人が逃げていくのが見えるような気がした。

 

 ***



 御広敷おひろしきの部屋で鶴屋の女将、佐枝は機嫌がよく、舌はなめらかに言葉を滑らせた。


「刷っても刷っても、追いつかないほど売れております。誠、高遠さまのお陰でございます」


 そう言って満面の笑みを浮かべ、大仰に平伏した。

 千枚振舞を達成し、上方での販売も決まったという噂は広く知れ渡り、それが話題となってさらに売り上げを伸ばし、一巻、二巻の販売数は三千部に手が届こうというところまできていた。


 来年の一月には三巻の発売も決定となり、取り置きして欲しいという要望に応えて鶴屋では予約も行っているという。ここまでくると、高遠は口を挟めないに等しい。本問屋のしきたりは鶴屋に任せるしかない。しかし、印税と本の質だけは落とさないよう厳重に頼んだ。

 だが、これで今月と来月の末に納められる金も当初の予想よりずっと多くなる。販売が広く行われ、継続されるのだ。来年からはより大奥の助けになるだろう。

 高遠は、佐枝に言った。


「いや、そなたたち鶴屋の力と絵師の表紙があったればこその結果だ。引き続きよろしゅう頼む」

「こちらこそよろしくお願いいたします。それで、高遠さま。お願いしたいことがあるのですが」

「なんじゃ」

「新作が書けましたら、手前どもの店で売らせていただきたいのでございます」

「――……ふむ」


「もちろん、税も同じだけお支払いいたします。そして、原稿紛失というあってはならぬことを犯した罪滅ぼしとして、新作にかかる出版費用は、全額当家であがなわせていただきます。どうかお引き受け願いたく――」


 そう言って佐枝は頭を下げた。

 高遠の書いた二作品は未だ見つからず、誰が盗んだのかわからずじまいだ。しかし、そのことに対してはすでに結論は出ている。新作を書こうという気持ちになり、筆を進めているのが答えだ。高遠の目は過去より未来を見定めている。

 ならば、この申し出は願ったり叶ったりだ。


「わかった。そのように契約してくれるのなら、ひとつの条件と引き換えに今後も頼もう」

「ありがとうございます。して、条件とはいかようなことにございましょう?」

「なに。難しいことではない。今後、鶴屋から出版される男色本すべてを一冊譲って欲しいのだ」

「……それだけですか?」


 印税のときのように無理難題がくるかと思っていた佐枝は、拍子抜けしたような顔だ。


「そうじゃ。可能であるか?」

「はい。もちろんでございます。本のことでしたら手前どもにお任せください」

「うむ。では頼む」


 高遠は心のなかで笑みを零した。


 ――きっとお須磨の方さまは喜ぶであろう。

 

 それから数日後。十一月に入り寒さが本格化した日。

 幕府は質素倹約の項目を見直す布令ふれを出した。ついに幕閣たちが動き出したのだ。

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