第62話 大奥は華やかに咲く~沢渡主殿頭と高遠 肆

 高遠は表と奥を仕切る御広敷にある対面所へ向かった。

 入室前に深く深呼吸する。


 ――この面談、なりふり構わず向かってくるであろう。だが、負けはせぬ。屈したりなどせぬ。わたくしは大奥御年寄、高遠あかね。


 自分を奮い立たせ、襖の奥へ歩を進めた。沢渡主殿頭の視界に入ると、殺気を放つかのような視線が射貫くように高遠を刺した。それでもひるむことなく打掛の裾を畳をすべらせ、沢渡主殿頭と向かい合うようにして座る。

 張り詰めた空気のなか、高遠も沢渡主殿頭も、しばしの沈黙のなかに身を置いていた。

 襖や畳が音を吸い込みシンと静まりかえっている。

 口火を切ったのは高遠だった。


「――ひどくお痩せになられましたな」

「……幕府の苦難を理解しようとしない輩が多くてな。おちおち休んでおられぬのだ。――……目の前の人間も、そのひとりであるが」

「まさか。大奥は御公儀に添うよう、努力しておりますよ」


「いいや。禁止したことを守らず、表使に手間賃を出させ、贅沢な買い物をしておる。それだけではない。男色本出版などと風儀風俗を乱すおこないを平然と見逃しておる。市政を揺るがせることに罪悪感さえ持たぬ大罪人が、御年寄という重要な役目に就いておるのだ。とても見過ごすことはできぬ」


「そうなのですか。――では、その大罪人とやらは、どのような処分を受けるのでしょう」


 高遠が抑揚のない声音で返すと、ダン! と畳を踏む音が鈍く響き、沢渡主殿頭は前のめりの姿勢を取った。


「しらを切るつもりか? わしは知っておるぞ? あの男色本を書いたのは、お前だとな。金食い虫の大奥は男色本の売り上げをあてにしてまで贅沢をしたいらしい。なぜ、大人しくできぬ。なぜ、つつましく暮らせぬ? お前たちのような者がいるから、いくら布令を出しても無意味になってしまうのだ!」


 声はひび割れ、筋張った握りこぶしがブルブルと震えている。唸る犬のごとく沢渡主殿頭は続ける。


「公方さまにお仕えすべき者が、男色本などと低俗なもので財政をあがなおうなど、御公儀に傷を付ける行為に他ならぬとなぜわからぬのだ。それとも、金崎の二の舞になりたいか?」


 高遠はそのさまをじっと見つめた。

 恫喝は恐ろしくなく、むしろ空虚な叫びのように空しく響いた。


 背に崖があるのは、いつ崩れるかもしれないいただきに立っているのは沢渡主殿頭なのだから。


「――では、そのようになさればよろしいかと」

「なに!?」


「流罪の罪を与え、この大奥から引き離せばいいだけのこと。なぜ、そうなさらないのです。あなたほど力のある方ならば罪をねつ造するくらい、たやすいことでありましょうに。それとも、これ以上、大奥を敵に回してまで同じ手を使うことに賛同する人間はいないのでは?」


「きっ、貴様……っ!」

「そもそも」


 高遠は姿勢を正し、静かに続けた。


「わたくしの本は私家版しかばんでございます。契約もわたくし個人が結んでいること。奥向きにも、表向きにも一切かかわりございませぬ。幕府の財源を使ったわけでなし、印税もすべて大奥に納め、幕府の財源を圧迫せぬよう務めております。それのなにが問題だと仰せなのですか」

「っ……」


 金崎の件を出せば怯むと思っていた沢渡主殿頭は口を開くが、言葉を発することができない。ワナワナと震えているだけだ。


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