第3話 大奥は金欠です~わたくしの仕事 弐

 亥ノ刻いのこく――午後十時ころようやく小説が書き上がった。

 全九巻の長編だ。九冊を並べてひとり悦に入る。


「さすがに疲れた。推敲すいこうは明日に回すことにしよう」


 書き終えた小説を文机の横にある箱にしまい、充足を感じながら布団に横になった。疲れはすぐに睡魔を呼び高遠は深い眠りについた。

 


 ***



 ――うーむ。寝不足だ……。


 出仕しゅっしの支度を部屋方へやかたかすみが手伝ってくれているので威厳を保つように喉もとで欠伸を噛み殺した。――と、


「すいませぬ。少々よろしいでしょうか?」と障子の向こうから声がかかった。


「なにようか?」


 別の部屋方、吹雪ふぶきが対応する。


「お忙しい時間に大変申し訳ございません。本の回収のためまかり越しました」

「本、とな?」

「はい。御広敷おひろしきの役人が本を届ける部屋を間違えて記載していたそうで、すべてを回収しているのでございます」


 そういえば昨日本が届いていたが小説を書くのに夢中で確認をしていなかった。


「それなら文机の横に置いておる。しばし待――」


 最後まで言い終わらない内に、


「キャァァァ!」と空気を切り裂くような甲高い声が響き渡った。


「なにごとだ!?」


 高遠が慌てて部屋を出ると廊下の向こうから、


「高遠さま、高遠さまはおられますかっ!」と女中が着物の裾をはためかせて、速足で駆けてきた。


「ここだ。一体なにごとか」

「そ、それが、お小夜さよの方さまと、お八重やえの方さまが喧嘩を始めてしまい、収拾が付かなくて――」

「またか……」


 大きくため息を吐いた。

 小夜と八重は上様のご寵愛ちょうあいをもっとも受けているふたりで、なにかにつけて衝突してばかりなのだ。

 ドタバタと床を踏みつける音が派手に鳴り、女中や部屋方へやかたたちの、


「あれー!」

「お止めくださいませ!」という声が響いている。


 よく見ると、その物音の先に金崎が涼しい顔で佇んでいた。


 ――くそっ、相変わらずの『我かんせず者』め。


 金崎が止めようとしないので高遠にお鉢が回ってきたというわけだ。

 仕方がない。

 総触そうぶれまでに時間もないし、荒れた御中臈おちゅうろうを上様の御前ごぜんに晒すわけにもいかない。

 高遠は騒ぎの元へ急ぎ向かい、威嚇し合う猫のようなふたりを引き剥がした。


「そのような乱れた格好で上様の御前に出られまするかっ! 見苦しゅうございますぞ!」


 一喝すると小夜と八重は袈裟切りされたようにビクッと身を震わせ、はぁはぁと荒い息を収めた。

 廊下には髪を美しく飾っていたかんざしくしが散らばり、髷付油びんつけあぶらで整えた髪も四方に乱れ、着物は胸元が揺るみ、惨劇のありさまを物語っていた。

 高遠の一喝でつかみ合いは止めたものの睨み合う視線は揺るがない。

 十八歳の小夜が憎々しげに言う。


「……後ろでクスクスとこれ見よがしに笑いおって……! わたくしのなにがそんなに可笑しいのか?」


 十七歳の八重は口元に手をやり煽るような声で答える。


「別に、お小夜さまを笑ったわけではありません」

「いいや。着物の柄合わせがどうのと聞こえた」

「被害妄想のお強いこと」


 またぞろ、つかみ合いに発展しかけるふたりに高遠はドスのきいた低い声で言った。


「いい加減になさいませ、おふたりとも。己が今どのような姿になっているかおわかりか? まるで縄張りを争う野良猫ですぞ。とても大奥きっての美女とは言えぬ見苦しきお姿。そのような姿で総触れに出ることは許可できかねまする。部屋へ戻り、頭を冷やしなさいませ」


 地鳴りのような低い声と感情のない無表情が小夜と八重の身をすくませた。

 ついでだ。もう少し脅しておこう。


「このようないさかいが続くのであれば、上様のお渡りを禁じることを考えねばなりませぬな。これは最終通告ですぞ。塩沢さまから謹慎きんしんを言い渡される前に慎まれるがよろしかろう」


 大奥総取締役、塩沢に睨まれたら最後、ここ大奥で無事に暮らすことはできなくなる。

 ふたりは顔色を青くさせて「はい……」と答えた。

 部屋方たちに連れられて部屋に戻って行く姿を見届けてから高遠は急ぎ広間へ向かい、なんとか総触れには間に合った。

 しかし、朝からどっと疲れた。


 ――まったく酷い目にあった。いつの間にか金崎殿は消えているし、つくづく要領のいいお方だ。


 そう、いささか腹を立てながら仕事場である千鳥ちどりに向かい障子を開けると、そこには金崎がなに食わぬ顔で座っていた。


 ――今日は金崎殿と一緒の日だったか……。

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