雨の思い出

 ヒートアイランド現象により、雨が降りやすい天候の続くこの街は、首都変遷後、緑地帯が設けられたがあまり効果はなかったらしい。雨は霧のような日とスコールのような激しい雨の日を繰り返している。四季らしい四季は天候からはわかりにくくなったが、気温差と雨量の変化が季節の移り変わりを感じさせた。

 この島国には梅雨という季節がある。春から夏に移るその間に前線が停滞し雨を降らせるのであるが、この街はほとんど雨であるので、近年のこの都市で生まれた子どもはその違いを理解できなかったであろう。それでも昔からの慣習で、名前だけの梅雨があった。

 季節はちょうどその頃、昼夜問わず雨が降る鬱陶しい時季である。この街の中心部に位置する店“オルゴール”はこの六月はほとんど休みなしで経営している。何故なら、晴れの日が休業と決めていたからだ。

 納得がいかないという顔で抗議するのは、りっちゃんと呼ばれた青年、律だ。

「お前だって車の免許持っているじゃないか。車なんざ借りようと思えば借りられるだろ? 金には困っていないはずだし」

 腕を組んで呆れたと言わんばかりに節が文句をつける。律は子どもっぽく膨れた。

「僕はせっちゃんと買い物に行きたいんだよ! お店で使うものなんだから、ちゃんと一緒に選びだい!」

「誰も行かないとは言っていないじゃないか。俺が言っているのは、なんでいつもいつも俺が車出さなきゃならないんだってことだ。大体、演奏会のときも、その他のときも迎えに行くのは俺なんだぞっ!!」

 節は反省していた。律に出会ってちょうど五年になるが、なんとなく彼を甘やかしてしまった、と。それは初めて出会った時の印象を引きずっているからでもあったが、今となっては昔の話だ。このことと、車を出したくない別の理由の二つから、今回の件をどうしても引き受けるわけにはいかなかった。

「…………」

 律はじっと節を睨んでいる。節も睨み返した。互いに互いの気持ちを理解しているが、どちらかというと律の方が頑固者であるので、節が引くことで事が収まることが多い、いや、ほとんどだった。今日はその節が一歩も譲らないので、大したことではないケンカはなかなか終わりそうになかった。

「もういーよ! せっちゃんのケチ!」

 珍しく律が大声を出して、ケンカは一時中断となった。彼は長い銀髪をなびかせて、三階の事務所に引っ込んでしまう。帰るつもりらしい。律は大抵電車でオルゴールに出勤することが多く、帰りは節が送っていたが、今日はさすがに電車で家に帰るのだろう。しばらく上でごとごとと音を立てていたが、まもなくして律は着替えて下りてきた。

「じゃあねっ!」

 むっとした調子で節に声をかけると、少々乱暴にドアを開けて出て行ってしまった。

「――……って」

 節は物が置き去りにされたままになっているカウンターに視線を向ける。

「片付けるのは俺か?」

 特大のため息とともにモップを手に取った。


 * * * * * 


 翌日、東京地方は晴れた。よって、オルゴールはお休みの日である。

 節はオルゴールに向かわなかった。いつもならダイレクトメールなどの処理のために出向くのだが、昨晩のことにまだ腹が立っていたので、子どもじみているとは思ったが行くのをやめた。そもそも出勤は義務ではない。

 その代わり、節は車を少し走らせ、郊外にある川に行くことにした。なんとなく、昔を思い出してしまったからだ。

 この川は昔、まだ節が生まれるずっと前はその両岸がコンクリートで固められていた。しかし、都市緑化構想に基づき、両岸は草が茂っていた。草刈りが行われていないのか、子どもの背丈ほどまで伸びている。堤防を兼ねた小高い場所はサイクリングロードとして整備され、自転車に乗る人やジョギングを楽しむ中高年の姿を見かける。川の水位は連日の雨で増していたが、危険水位からはほど遠い。

 節は駐車場として開放されている砂利の敷き詰められた場所に車を停めると、周辺を散策することにした。

 やや湿気を含んでいるが、初夏を感じさせる風は心地よい。空は珍しく青く広がっている。太陽がとても明るく街を照らしている。気温が上がることうけあいだ。こんなに晴れていても、おそらく夕立が降ることだろう。

 節が歩きながら考えているのは律のことだ。律に対する苛立ちはもうほとんど収まっていたが、代わりにその気持ちは自分自身に向けられた。苛立ちというより、焦燥感に似ていると彼自身は理解していた。

 律に対する気持ちは明らかだ。ライバル、それがふさわしい。もはやその言葉はこの時代にとって死んでしまっているような、物語の中でしか存在しないような気もしたが、同程度の力を持ち、競い続けたい相手、いつか勝ち、また負けて互いに影響を及ぼしたいというなら、その単語はしっくりくる。一方的ではなく、双方的であるのが重要だ。

 しかし、今では律に勝てるはずがない、とどこか引いた場所で考える自分がいる。同程度の力、似た力だと思っていたものが、表面上はそう見えても本質は全くの別物ではないかと不安に思えたからだ。

 ――律のそばにいることは、互いにとってプラスに働くのだろうか。このままで良いのだろうか。

 律とケンカらしいケンカをしたことはない。ちょっとした言い争い、ちょうど昨晩のようなことは時々あるが、大抵律を甘やかしてしまうので、彼の意見が通ることが多い。よって節は律に振り回されることになる。

 なんで自分は律に甘いのか――節にはよくわからない。

 とはいえ、思い当たる点はあるのだ。

 律の雰囲気、そして第一印象……。

 節は今でも鮮明に覚えている。

 初めて見かけたときのあの冷たい表情。およそ人だとは思えない美しさと妖しさを持った横顔を。

 話しかけたときに無邪気で天真爛漫な顔をしたものだから、そのギャップに驚いて記憶に刻まれてしまったのだろう。

 あの彼と今見せる彼、ともに同一人物なのか、いや、少なくとも同一人格ではないだろう、と密かに節は思っていた。

 五年も四六時中顔を合わせているが、あの強烈な印象に相当するほどの表情はあの日の一度きりだった。

 なぜこんなことを考え出したのか、そのこと自体が不思議だった。最近、とりわけ詩音という少女に出会ってから心境の変化が目立ってきた気がする。

 店の空気も変わった。それにここのところ仕事が忙しい。店も忙しいし、裏稼業の呼び出しも増えた。転換期だろうか。あまり関わりのない大きな事件に進展があったらしく、律と節が所属している組織ではてんやわんやらしい。だからそちらが手の回らない範囲で対応できそうなものが二人に回ってくるらしかった。節としても律としても、オルゴールの経営以外の仕事は好きではなく、できることなら触れたくないことだった。

 そこまでゆっくりと考えていると、やがて公園にたどり着いた。ふっと節の脳裏に、以前ここで起こった出来事が過ぎった。


 ――――……

 確かその頃も梅雨のまっただ中だった。節の家は芸術に優れた家系で、主に絵画の方面に長けていたが、節の両親も彼自身もとりわけ才能があるというわけではなかった。ごくごく平凡な三人家族。父も母も働きに出ている。少子高齢化が顕著であるこの都市周辺では珍しくない、ありふれた家である。

 川を挟んで商業地と住宅地に分かれ、その住宅地の高層集合住宅地区に彼らは住んでいた。この地区は子どもを持つ世代が多く住み、学校などの教育機関が集中している。子どもの少ない、そして老人が異様に多い社会において、学校が成立するにはこういう現象が起きて当然だろう。

 小学校五年生くらいのことだったと節は記憶している。この頃に風読みの能力を自覚した。

 きっかけは音楽の授業で使うリコーダーだった。節の力は吹奏楽器に合うらしく、異変に気付くのにそうかからなかった。それまで大して楽器に触れなかったのだが、これを機に音楽に興味を持つようになった。クラブ活動もそういった方面に積極的に参加した。

 幸い精神的に安定していた節は、力が暴走することもなく、悪用することもなかった。能力的に弱かったからというのもあるかも知れない。節が楽しい時に奏でる音は周りを陽気にさせ、不機嫌であればそれは直ちに周囲に伝わり陰鬱にさせた。

 力に気付いた最初の時期、節のそばには幼なじみがいた。保育園からずっと同じクラスで、その子は女の子だった。低学年までは頻繁に遊んでいたが、高学年に進むにつれて互いに距離を感じるようになってきた。それでも他の誰よりも仲が良かった。

 彼女の名前はシノミヤレンという。

 レンはリーダーシップを発揮する活発な少女だ。節もどちらかというと活発な少年であったので、二人で学級委員をしていた。


 そんなある日のことだ。


 どういうわけか、その日のケンカは今までなかったほど大きなケンカとなってしまった。大人になった今の節は、その原因が一体何であったのか思い出せない。些細なことだったのか……はたまた、彼自身が重要に感じていなかったが、レンにとって重要なことだったのかも知れない。男の子と女の子の考え方は、どこか違うと思うからだ。

 放課後、ほとんどのクラスメートが帰宅してしまったあとだ。梅雨の晴れ間で、ずっと部屋にこもっていた彼らにとって、今日は絶好の外で遊ぶチャンスだ。だから、普段ならまだ教室に誰かがいそうな時分であったが、この日は節とレンの二人しか残っていなかった。ちょうど委員会の仕事があったのだ。

「――だから、そう言ってるでしょ? せっちゃんの意見じゃ絶対にまとらないよ!」

 レンは机を叩いて立ち上がった。教室に大きな音が響く。

 まもなく二つ目の音が教室を震わせた。机を向かい合わせにして座っていた節が張り合うように叩いて立ち上がったのだ。

「レンのアイデアは面白いかも知れないけど、突飛すぎるよ! 夏休みまでに形になるわけないじゃないか!」

「やれるわよ! だってわたしがやるんだから!」

「どんな基準てものを言っているんだよ。あと一カ月しかないんだ。それはわかっているんだろ?」

 節がきっぱり言うと、レンは顔を真っ赤にして膨れた。

「じゃあ、わたしが企画書をまとめてくるから、せっちゃんはせっちゃんでいい企画、出しておきなさいよね! とりあえず、今出したせっちゃんの案は、わたしが却下するから」

 レンは言い捨てると、鞄に端末機を押し込んだ。

「帰るの?」

 その様子をぼんやり眺めながら節は問う。

「今話し合ってもうまくいかないもの。明日、また続きをやるわよ! 覚悟しておくことね!」

 鞄を背負うと、彼女はさっさと出て行ってしまう。

 そんな調子だったので、一緒に帰ろうとも言えず、節はため息をつきながら時間をずらして教室を出た。



 家に着いてやることは宿題と企画書だ。

 誰も家にいないのを寂しいと思ったことはない。こんなもんかとぼんやり考えるくらいだ。最近は塾に通う友達も増えていたので、委員会の仕事で帰りが遅くなってしまう節は、共に遊ぶようなことも減りつつあった。

 節は私立の学校に通う予定もなかったし、勉強はできるほうであったので、塾に通うつもりもなかった。両親も特に求めることもなく、試験が嫌いな節にとって都合よく感じていたくらいだ。

 家に一人でいる間は大抵宿題をしたり、本を読んだり、勉強関係の資料検索をするなどして過ごした。この家にゲーム機はない。両親が認めなかったのもあるが、節自身も興味はなかった。ゲームをするより楽器をいじっているのが好きだから、というのもある。流行にも興味がなかったので、ここ最近は同級生との話題も合わなかったが、節のお人好しな性格のためか友人は多く信頼もあつかった。



 夕方までに宿題を終え、企画書をまとめ始めた頃、雨が降り出した。かなり強い雨だ。雷も鳴っている。昼間晴れて気温が上がったためであろう。室内は冷房がかかっていたからよくわからなかったが、たぶんそうだと節は思う。

 窓の外に目を向ける。高層階にあたるこの部屋の西側の窓からは川とその奥に緑地帯が見える。眺めがとても良い立地だ。だが、今見える外の景色は節の頭の中のようにうっすらと霞んでいた。

 時々稲光が走る。激しく雨が叩きつけられる音が地響きとなって身体に伝わってくる。

 節は心配になった。何を心配したのか、このときは全くわからなかったが、風の音がいつもと違うような、そんな気がしたかららしかった。

 そのとき、突然電話が鳴った。

「はい!」

 節が返事をすると回線が繋がる。端末の画面に映った中年女性には見覚えがあった。レンの母親だ。彼女は不安げな面持ちである。視線が節の背後をなぞっていた。

「レンがそちらにお邪魔していないかと思いまして」

 いきなり本題に入った。少々早口であり、焦りが窺える。

「学校で別れてから会っていませんよ。何かあったんですか?」

 節の問いに、彼女は言うか言うまいか視線をさまよわせ、やがて口を開く。

「それが……」



 節は夕立が降る街を傘を片手にうろついていた。正確にはレンを探している。

「……ったくあいつは……」

 傘は大して意味をなさない。土砂降りの雨の中、節はレンが行きそうな場所をあたっているところなのだが、今のところ有力な手がかりすら見つかっていない。レンの母親は思い付く場所すべてに連絡をとっているようだったが、いい情報はなかった。レンは携帯端末を買い与えられていたが、それは部屋に残されたままだったという。

 何故彼女は出て行ったか――それは些細なことが原因だった。夏休みに入ると同時に引っ越すことが決まったのだ。つまり、今彼女が取り組んでいる企画、林間学校のイベント準備が流れてしまう可能性が高いのだ。ひょっとしたら林間学校までは参加するのかも知れないが、彼女が考えた企画を準備するのはそれこそ難しくなるだろう。

「一体どこなんだ……?」

 大抵、彼女が家族ともめたときは節に愚痴が飛んでくるものだが、放課後のやり取りの意地か、今日は何の知らせもない。節は彼女がどうしているのか気になった。

 児童館は閉館時間前で、子どもの姿はまばらだったがそこに彼女がいた形跡はなかった。彼女と行ったことがあるファストフード店にも見当たらない。コミュニティーセンターでレンを見なかったか尋ねたが、期待する情報は得られなかった。

 この雨だから屋内だろうと思ったのだが、姿はない。住宅地区にあるのは、あとはコンビニエンスストアくらいだろうか。

 川の向こうの商業地まで行けば店などいくらでもあるが、この辺りからそこに向かうには子どもの足で三十分は掛かる。普通ならバスを利用するか自転車を使うところだ。彼女の自転車はそのままになっていたし、金銭類も傘も、つまりほとんど何も持たずに出ている。携帯端末さえあれば、バスには乗れるし買い物もできるが、それさえ置いていっているのだ。家を出た時刻も含めて想像するに、そう遠くまで行っているとは考えにくい。

 節が思いついた場所を一通り回った頃には、雨は小降りになっていた。すっかり足元がぐしゃぐしゃになってしまって気持ち悪い。

 節は大きなため息をついた。

 ――これ以上は無理かな……。

 諦めて家に戻ろうかと思った。辺りはもう暗い。街灯が点きはじめている。家に両親も帰ってくる頃だ。一応伝言メモを置いてきてはいるが、あまり遅くなると心配するだろう。

 ――そういえば、傷害事件があったばかりなんだよな……。

 治安は決して良くはない。学校で近隣の事件や事故の話はよく聞かされていたし、だから一人での行動は控えるようにと耳にタコができるくらいに注意されている。安全対策は街全体に施されているが、後手にまわっているという事実は事件発生件数が物語っている。

 節は不安になった。彼女が何らかのトラブルに巻き込まれているのではないか、と。

 そう思ったとき、何かひらめくようなものがあった。風がざわついている。

 節は最後に一ヶ所だけ行ってみようと、風の誘いに乗って足を向けた。



 薄暗い通りを早足で歩く。川に向かう通りは車が行き交うが人の姿はない。天気や時間帯の問題で、晴れの日の昼間にはサイクリングやジョギングを楽しむ人でいっぱいの場所だ。平日夕方、しかも雨天であれば人気がないのも頷ける。

 川の周辺は大きな闇が横たわっていた。水面に映る商業地のやかましいネオンが不気味に見える。

 節は迷わずに歩いた。そちらに行くべきだと感じた。風が導いてくれているような気がしたのだ。

 たどり着いたのは公園だった。サイクリングロードのある堤防の上から、公園全体を見下ろす。街灯の明かりで浮かび上がるベンチに、全身ずぶ濡れの少女が座っていた。ぼんやりと天を仰いでいる。

 間違いない、レンだ。

 節はそっと彼女の後ろに回り、声をかけることなく傘を上に突き出した。

 思惑通り視界に入ったらしい。彼女はすぐに首を後ろにまわした。目を大きく見開いている。

「風邪ひくぞ、レン」

「せっちゃん、あんたも風邪ひくよ」

 ぶっきらぼうに告げた節に、レンは何かを諦めたような顔をして笑った。

「よくここがわかったわね。わたし、ここに来るの初めてなんだよ」

「だろうな。俺も不思議だけど――そうだな、よくわからんけど、言うなら、風の詩が聞こえたから、かな」

 理解できないかも知れないけど、と言いたげな口調で節が言う。

「ふつう、そーゆー台詞言うときって『君の心の声が聞こえた』とか、言うもんじゃないの?」

 レンはからかうように告げた。笑っているが、いつものような明るさは節には感じられなかった。

「そーゆーキザな台詞は言わない主義」

 軽く肩をすくめて節は答える。

「じゃあ――本当に風の詩が聞こえたってわけ?」

 彼女はけらけらと笑っていたが、節が黙っていると彼女は沈んでいった。やはりわざと明るく振る舞っていたのだ。

「帰ろう、レン。迎えに来たつもりなんだけど。君のお母さん、すごく心配していたぞ」

 節が告げると、レンはぷいっと顔を正面に向けて俯いた。節からは彼女の頭が見えるだけで、表情を窺い知ることはできない。

「もっと心配すりゃいーのよ。わたし、納得できないもん!」

 ここから動かないという意思表示か、彼女は腕を組むと足を踏ん張って見せた。

「頑固だなぁ」

 呟いて、そしてため息。

「…………」

 しばし沈黙。遠く、車が水を跳ねる音が聞こえる。

「――引っ越すんだってな」

 節の台詞にレンは小さく頷いた。彼女はキュロットから覗く膝頭を抱える。濡れた前髪から雫が落ちた。薄い生地のTシャツが下着のラインを透かしている。

 黙ったままのレンに、節は続ける。

「仕方ないじゃん、そんなの。ここでだだをこねてもどうにもならないだろう?」

 レンは口を開かない。

「――レンが一生懸命になって企画を成功させようとしていること、お母さんはすごくわかってくれているんだよ。だから言い出せなかったんじゃないか? お母さんの気持ちも……」

「うるさいわねっ!」

 怒鳴った彼女の声には涙が混じっていた。

 節は口を閉じる。レンの気持ちが、つまり、状況は理解できるけど納得がいかないという苛立ちは、節によく伝わってきていた。彼女を包む風が感情を代弁しているのだ。

 だけど、そんな気持ちがわかったところで、どうしたら良いのかなど、未熟な節にはわからない。迎えに来たはいいが、いかに説得しこの状況を突破すべきか、よいアイデアは浮かばなかった。

「レン……君が帰るまで、俺、帰れないんだけど……」

「わたしの知ったことじゃないわ」

 つんとした態度の返事。

「女の子を置いていくなんてマネが俺にできるとでも思っているの?」

「だったら説得してご覧なさいよ」

 すぐに返事があるが、棘のある言い方だった。

 節は考える。彼女が何を望んでいるのか。その望みの中で、自分がどうにかできるものはないか。

 一つだけ、思い当たることがあった。

 節はため息をつく。仕方がない。

「――じゃあさ、俺、レンの立てた企画を手伝う。すっごいことやろう。協力して、最高の思い出を作ろうじゃないか。だから風邪ひくわけにゃいかないだろう、お互いにさ」

 照れのせいで棒読みの上、視線は傘の骨の辺りをうろうろしている。

 言い終えてちらりと見やると、顔を向けたレンの視線とぶつかった。

「本当に? 本当に手伝ってくれるの?」

 不安げな瞳が揺れる。とても綺麗な目だ。いい風が吹いている。

 節は身体に熱を感じた。言葉が出てこなくなって、とりあえずこくこくと力強く頷いて答える。

「うん。ありがとう。協力するって言葉、忘れないでよ」

 飛びっきりの明るい笑顔を作ると立ち上がり、ひょいっとベンチの背を乗り越えて節の隣に立つ。ちょうど同じくらいの背丈だ。

「帰ろう。せっちゃん」

「その前に」

 節は上に羽織っていたウインドブレーカーを彼女の肩に掛けてやる。服が透けるのが気になっていたのだ。

 レンは顔を赤く染める。何か文句を言いたげに口をパクパクとさせたが、ふぅと息を吐いて襟元をぐっと持ち上げた。俯いた顔には微笑みが浮かぶ。

「温もりが残ってる。せっちゃんの心のあたたかさ……なんちゃって」

 呟いたあと、レンは大きく笑って手を振り回した。今のはナシだと主張するように。

「さぁ帰ろう帰ろう。アイデアまとめなくちゃ」

「だな」

 照れもあって身体はあたたかい。一つの傘に身を寄せているが故の暖かさもあるのだろう。企画についてのディスカッションをしながら帰ったことは、節の記憶にしっかりと刻まれている。



 林間学校の詳細はほとんど覚えていない。とても楽しかったという印象だけが、ただ残っていた。



 ――――……


 レンは林間学校の直後に引っ越してしまったが、二十歳を過ぎた今でも連絡がある。仲は良いのだが、恋愛関係にはならなかった。これまでの過去がそうであったように、未来でもこの関係は崩れないのだろうと節は思う。

 ベンチで眠ってしまったらしい。頬に当たる冷たい雨に起こされた。気温が一定以上に達して、積乱雲が生まれたようだ。厚い雲が空を覆ってしまったために辺りは薄暗い。

 ぽつりぽつりと降り出した雨は、節が立ち上がると同時に本降りになった。

 困ったな、と節が思った時、背後からすっと傘が伸びた。振り向くと律が立っていた。

「たまにはお迎えもいいかなって」

 にっこりと律は笑む。

「ここまで何で来たんだ? 歩くと遠いだろ?」

 まさか迎えに来るとは予想していなかったので、節は心底驚いていた。今まで一度も迎えに来たことなどなかったはずなのだ。

「久し振りにバスに乗ったよー。電車で乗り継ぐよりラクだし。店にせっちゃんがいなかったから、風を追って来たんだ」

 節はますます驚いた。律が節より先に店にいることなど滅多にないからだ。

 持ってきたもう一つの傘を開くと律は節に手渡す。

「ふぅん……ここは僕にとっての森林公園と同じかな……良い風の吹く場所だね」

 律は視線を川に向けると告げる。

「たまに来たくなるんだ」

 受け取った傘を肩に載せて川に近付く。

「初恋の場所?」

 律が面白がって指摘する。

 節は身体の熱を感じ取った。

「律! 人の心を読むなぁっ!!」

 素早く振り向いて怒鳴る。心拍数が増えている。節は平常心を取り戻そうと呼吸を整えることに意識を向ける。

「……本気で怒らないでよ」

 律は、ちょっとした冗談じゃないかと言いたげに肩をすくめる。いつものように『りっちゃん』と呼ばなかったことに対してのコメントらしい。反省の色は見えない。

「ったく、前から言っているじゃないか。そーゆープライバシーを侵害するようなこと、するなって」

 ムキになり過ぎたとは思いつつも、注意しておかねばならないことだ。律のそういうところは見過ごせない。節は仕事で必要とされない限り、他人の心を読むようなことはしなかった。

「悪気はなかったんだよ。ごめん」

「今のはからかうつもりで言っただろ? 充分に悪気があったと見なすね」

「う~っ……」

 返す言葉が見つからないようだ。唸るだけで台詞にならない。

 節はそんな律に背を向けた。

「――よく来る気になったな」

 節の目の前を流れる水面には多数の波紋が広がっている。

「なんか、ね。滅多にないことするから、せっかくお天気だったのに雨が降ってきちゃったよ」

 とぼけるように律が答える。

「休業日に午前中から顔を出すなんて、確かに珍しいことだな。――ホント、あんなに天気が良かったのに」

 節はわざとらしく言う。

「理由、わかっているくせに、言わせたいのかい?」

 照れくさいのか、口調が冗談めかしたものになっている。

 節は彼に背を向けたまま黙っている。

 律はなかなか続きを言おうとしなかったが、観念したようだ。ぼそぼそとした声で続ける。

「――昨晩はムキになってごめん。せっちゃんが車を出したくないのわかっててわざと言ったんだ。こういうの、ヤキモチって言うんだよね? なんか変な感じがするけど」

「……ヤキモチ、ねぇ」

 呟いて、節は顔だけを向けて律を見る。充分に反省している様子だった。節はふっと笑う。

「お互い様かも」

 律は首を傾げる。節の台詞の意味がわからないらしい。

「……?」

「りっちゃんはいーねー。風読みといえど、俺の気持ちすべてがわかるかっていったら、そうでもないみたいだし」

 人には何かしら欠落した感情がある。いや、言葉を持たない感情が存在する。その感情はそれを持つ自身が理解しかねているもの――もし、その感情を他人から感じ取っても具体的にはわからない。

 ――ひょっとして俺は、感情を補い合うために律の傍にいるのか?

 思いがけない発見に、節の心はざわめく。

「??」

 律はますますわからないという顔をする。

「帰ろうか? それとも買い物に行くか?」

 節はにっこりと笑って問う。律がきょとんとしている。

「――未完成で不完全だから、傍にいられるのかな」

 風の囁きは耳を澄ませば聞こえるのに、何故気付かないのだろう。彼らは常に声をかけてくれているのに、どうして無視してしまうのだろう。

「行く。連れてってくれるの?」

 軽く飛び跳ねて、律が嬉しそうな声を出す。一瞬前に、冷たい精霊のような表情を見せて。

 この不連続にしか思えない一面に、節はいつもどきりとさせられる。それでも知らない振りを節は続ける。それが二人のバランスなのだと心得ているから。二人の風の奏でる音は、この微妙なずれが調度良い。

「いーや、迎えついでにりっちゃんが連れていくんだ。決まっているだろ?」

 けけけっとからかうように笑う。

「じゃあさ、気が済むまで付き合ってもらうよ。何か新作のお菓子を作りたくなってね。えっとね、たまには趣向を変えて和菓子を作ってみようかって思うんだけどさ」

 空いている片手を軽く回しながら乗り気で言う。

「いーけど、ほどほどにしてくれよ。振り回されている俺の身も考慮しろよ」

 ため息混じりに節が言う。律はもう高いところに立っている。うきうきしているのが様子からも、風からもわかる。

「まぁ、ちょこっとはね」

 その台詞には節を振り回している事実に対し微塵も反省していない様子が窺える。

「本当にわかってるんかなぁ」

 ため息をつきつつ、節は律の後を追った。

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