音に散る
節はいつも通り、夕方の片付けをしていた。店の大きな窓から射し込む夕日に名残惜しさを感じながら、これから始まるイベントの準備についてを考える。
“オルゴール”は晴れの日はたいてい店を閉じていたが、二月は晴れでも雨でもほとんど開いている。
この時期に店を開けないお菓子屋さんはない。“オルゴール”は喫茶店だが、ケーキやパイ、コーヒーや紅茶はテイクアウトも販売している。この店の一番人気の商品はアップルパイだが、二月はこの時期限定で販売するブラウニーが飛ぶように売れた。『バレンタインにここのブラウニーを、好きな人にあげると恋が実る』だなんて噂が広まったからだとこの店を切り盛りする律は言っていたが、節は実力だと思っていた。
どれだけの人間がこの時期に『恋』をしているのだろう?
どれだけの人間が『好きな人』の傍で過ごしているのだろう?
節はふと過ぎった疑問を大きく頭を振って払いのけた。
「だめだっ! これから大事な演奏があるってのに自分で風を乱しちゃ」
独り言に自然と力がこもる。店内の片付けは大分済んでいて、お客もそろそろ店を出る支度をしようかという感じである。
今日は五時半に店を閉め、本業である演奏会に出席しなければならない。大切な演奏会だというのに、こんな気持ちじゃいい音を創れない。律が怒るに決まっている。彼は風が乱れているのをひどく嫌っているから。
風と調和することで音を操る律に、風の声を聴いて引き出す俺では敵わないという惨めな思いがあった。風を読むことのできる俺たちの特殊能力は演奏をするには便利だが、ひとたび自分の内から出る風が乱れればあっという間に逆の効果を発揮する。それだけ神経を使うが、それでも喜んで聞いて下さる人のことを思うと気にならなかった。
同様に俺たちは喫茶店を開いているのだが……。
なんで繊細な指の動きを必要とするバイオリン弾きの律が包丁を持ったり小麦粉を練っていたりするんだ?
彼は楽しんでいるみたいだけどどうも納得ができない。
節は大きな溜息をついて、カウンターを布巾で磨く。
「あいつの気まぐれも、毎度のことか」
陽はほとんどビルの中に消えてしまった。幾分か真冬よりかは温かくなってきていたが、それでも陽が陰ればやはり寒い。
節は掃除に集中してすべてを一回忘れることにする。
カランカランという、ドアの上につけた鈴が音を立てる。節は顔を上げ、中に入ってきた少女を見た。
中学生ほどの年齢で、制服は着ていない。暖かそうなハーフコートからスカートの裾がひらひらとしている。セミロングのさらさらの黒髪がよく似合う、色白の少女が不安げな顔をして立っていた。
節は、ここらでは見ない子だな、と思った。
「いらっしゃいませ」
営業スマイルで少女を迎え入れる。彼女のこわばった表情が少し和らいだ。
「何かお探しで?」
節は動こうとしない彼女に話しかける。この店の雰囲気に戸惑っているのだろうと判断したためだ。
ある程度の常連にならないと“オルゴール”の持つこの空気には馴染めない、どこか人を拒むような風がそこにあったから。そう感じてしまうのはたぶん律の元々の性格にある所為だと節は考えている。
「あ、あの……」
彼女は照れくさそうに俯いた。
こういった仕草をする様子から、バレンタインのプレゼントを買いにきたのだろうと推測する。でも彼女は同年代の女の子の事情とは違うように見えた、否、風が節にそう告げた。
節はそれを知り、どう対処したらよいか考えあぐねる。こういうことはこの店を仕切るもう一人、律に任せるのが彼の特性に合っている。経験がない上に柄にも合わない節が解決できることではない。
律を呼んで後のことを任せようかとも思ったが、如何せん、律は演奏会の準備のために店を出ている。彼としても早く店仕舞いをしてリハーサルをしなくてはいけない。
とはいえ、これは難問だ。適当に扱って良いものではないと判断して、節は彼女を店の奥に案内することにした。
「どうぞ、奥へ。君が贈るに相応しいプレゼントを一緒に選んであげよう」
布巾を脇に置いてカウンターを出る。まだそこから動こうとしない少女を、節は強引に手を引き連れていく。
「あっ、そこまでしてくれなくていいですっ! あたしは……」
彼女は何かを言いかけ、そのまま口をつぐんだ。
「そう、何も言わなくて良い。わかるから」
「え?」
少女が通された奥の部屋にはグランドピアノが一台おいてあった。防音設備がついた練習部屋だ。
「ここ……?」
「ま、取り敢えずその椅子にでも腰掛けて待ってて。店内を急いで片付けて戻るから」
ピアノの傍にある椅子を指さして節は言うと、部屋を出た。店内に残っているお客はみんな知っている人だったので節は彼等に事情を説明し、すぐに店を出てもらった。
入り口に掛けてあった看板をCLOSEにするとさっさと部屋に戻った。
「どーも、おまたせ」
「あの……これって特別待遇ですよね?」
申し訳ないと言うかのように呟くような声で問う。
「気にすることはないよ。それにこのほうが話しやすいでしょ?」
にっと笑って少女の前に置いた椅子に座る。少女は再び俯いて黙ってしまう。
「折角ここまで来るのに勇気を使ったのに、何もできなかったら損だよ? それとも、二人きりになったから緊張してる?」
からかいの意味も込めて言ったつもりだが、彼女は無反応だ。
節は頭を抱えた。
彼女が何も言わなくても、風読みの力で彼女が言わんとすることは手に取るように分かる。でも、それですべてを当てて見せても意味がない。彼女が彼女の力で、心の中にしまい込んでいるモノを吐き出さねばならない。
「……黙っていても分からないんだけど」
本当はすべてお見通しだが、彼女が何かを言い出すのではないかと話を促す。
「ねぇ、真名さん?」
試しに名前を呼んでみる。すると彼女は顔を上げ、不思議そうな瞳が節を見つめた。
「え?」
「俺は音名節。この店の店員をしていて、フルート演奏者。気を紛らわすために、一曲吹きましょう」
優しくそう言って節は立ち上がり、部屋の隅にあったケースからフルートを取り出して構える。
すぅっと息を吸い込み、気を集中させる。
彼女から聞こえてくる音をこのフルートで表現しようと思っていた。残酷なことかもしれなかったが、彼女のため、そして自分のためになると密かに思っていた。
風の導きで奏でる音はどこか悲しげな音色だった。
暗い夜空に浮かぶ孤独な月を連想させる不思議な音。
白く輝く月をじっと見つめる少年が何かを叫んでいる。
誰かがどこかで泣いている、そんなビジョンが浮かぶ。
彼女の頬を一筋の涙が伝ったのを感じ、節は演奏を止めた。
「諦めることはないよ。彼は君のことを想っている。忘れてなんかいないよ。行って、ちゃんとその気持ちを伝えるべきだ」
フルートを置いて、彼女の涙を取り出したハンカチで拭う。
「でも、あたし、こんなんじゃ……」
「ここまで来る勇気があれば大丈夫。なんなら、まじないをかけてあげよう!」
あと一押し。節はそう思った。フルートを握り直し、集中する。彼女の想いが報われるようにと祈りを込めて。
心の芯から暖まるメロディー。
ほかの誰でもない、自分だけの音。
この音が、あたしの中にあったのだろうか?
少女は瞳を閉じてそう感じた。包み込まれるような優しい旋律に彼女は感謝した。
「……ありがとうございます。これであたし、やっと……」
「さ、これを持って行っておいで。きっと想いは届くよ」
綺麗にラッピングされた小さな箱を手渡す。中身はもちろんここの名物、ブラウニーだ。
「あ、料金幾らですか?」
受け取って彼女ははっとする。節は首を横に振った。
「うまくいったかどうか教えにきてくれた時で良いよ。残り物だし、あげるよ」
嘘も方便で、さらりと言って彼女の手を止めさせる。残り物だなんて言ってはいけなかったような気がしたが、それはもう後の祭りである。
「はい、かならず報告をしに来ます」
彼女は明るく微笑んで立ち上がるとお辞儀をする。
「ほら、いってらっしゃい」
部屋のドアを開けると、彼女は幸せそうに走って出ていった。
それと入れ違いで律が帰ってくる。彼の桃色を帯びた長い銀髪がなびく。律は不思議に思って振り向くが、そこには何もなかった。
「今の“風”は?」
カウンターで掃除の続きを始めていた節を見つけて問い掛ける。
「女の子、だよ」
「え? じゃあ今のって……」
律の顔が少し青くなる。
「りっちゃん、お前のお節介病がうつっちまったようだぜ」
むすっとして言うが、心は非常に穏やかだった。これなら、今日の演奏会は成功するだろう。
節はふっと笑んで、彼女に幸せが訪れるのを願った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます