喫茶店オルゴールの日常

一花カナウ・ただふみ

風の詩

 詩音(シオン)がどこからか聞こえてくるバイオリンの旋律に気を取られていると、いつの間にか郊外にある森林公園に辿り着いていた。

 辺り一面に生い茂る緑の葉が、心地よさそうにさやさやと鳴っている。きらきらと輝く木漏れ日の照明に浮かび上がったのは、バイオリンを片手に弓を操る、風の精霊のような容貌の青年。淡い桃色を帯びたさらさらの長い銀髪は風と戯れ、彼の肌は降ったばかりの白雪のような透明感がある。すらりとした細身の長身にバイオリンは違和感なく溶け込み、彼の構えには少しの透きもない。この世の人であろうかと思われるほどに美しく、そしてこの世界とみごとに調和していた。

 見た目だけではない。彼のバイオリンの音色もまた素晴らしいものだった。この彼を取りまく景色そのもののごとく溶け込む響き。強さの中にはっきりとした優しさもうかがえる旋律。耳で感じる音ではなく、心で感じる音。

 詩音は言葉にならない言葉が次々と溢れ、それが声に変わらないことをひどく悔しく思った。この世の音ではない、新しい何かの存在にただ圧倒されるばかりで、掛ける言葉もなく、ただ彼を凝視するだけで立ちつくすより他なかった。




「おや?」

 彼は新しい風の音に気が付いて手を止める。視線を移した先には、緩くウェーブした赤茶色の髪を持つ二十歳前後の女性が立っていた。彼女の茶色の瞳はじっとこちらをとらえたまま動こうとしない。

「どうかしたかい? お嬢さん」

 バイオリンを下ろすと、彼女に向かってやんわりと笑む。そこで何かに気付いたらしい。一瞬目を見開いたあとで、そっと目を細めた。

「あぁ、君はよく僕の店に来ているよね。この近くに用事でも?」

 奇遇とばかりに彼が尋ねると、彼女は夢の中から戻ってきたかのような顔をした。

「……店?」

 程なく夢見心地だった心から解放された詩音は、その言葉を繰り返すのがやっとだった。

「分からないかな。駅の近く、っても十分は歩くけど、“オルゴール”っていう喫茶店。よく寄り道していってくれるよね?」

 彼はその容姿とはあまりそぐわない、砕けた口調でそう言った。

 詩音はそのヒントを頼りに記憶を辿る。彼女は思い出すと、両手をぽんっと叩いた。

「あ、あのお店の方だったんですか? 晴れの日には滅多に開いていない不思議なお店……」

 定休日は存在しない。天気によって開いているか閉まっているかが決まる珍しいお店。この辺の天気は雨の日の方がどちらかというと多かったから、決して休みが多いわけではない。

 詩音は少し古くさいレトロな感じのするその店が気に入っていた。その空間は外界とは別の空気があって、それが彼女の安らぎの場を生み出しているからだ。どこか世界と隔離されたようなそのお店で、目の前にいる彼が働いている姿は何となく想像がついた。

「そう。“僕の”っていうと、相方が怒るだろうから訂正しておくけどね」

 彼はいたずらっぽく、あどけない子供のするような感じで笑う。

「晴れの日が休みなのは、こうして野外演奏をしているからですか?」

 再びバイオリンを構えた彼に、詩音は尋ねる。

「半分だけ正解」

 弓の触れていない弦が澄んだ高い音を立てる。詩音はこの音で透明度の高い綺麗な氷を連想した。彼は弦が震えるのを見て嬉しそうに目を細めた。

「なんて純粋な心の持ち主だろう。君のピアノの音色を是非聞かせてもらいたいものだ」

 思わず漏らした彼の言葉を詩音は聞き逃さなかった。

「何故、私がピアノを弾いていると分かったんです?」

 詩音の質問に、彼は何も答えようとしない。かすかに動いた彼の表情は言うか言うまいか考えているように見える。

 ふぅと言う短い溜息のあとに彼は沈黙を破った。

「僕は風の旋律を聴いて人の聞く音に変換する者。いわば風の翻訳者ってところさ。こういう言い方をするのが一番適当だと思うんだけど、せっちゃんは仰々しいって嫌がるんだよね」

 苦笑してそう答えると、ピンと張った弦に羽が舞い降りるかのごとく弓をあてた。

「有栖川(アリスガワ)詩音さん。例えば君の纏う風を訳すとこんな感じになる」

 彼は両目を伏せると、弓をそっと引いた。

 するとどうだろう。再び世界は幻想に飲み込まれ、詩音は困惑した。

 まるで異世界に引きずり込まれたような不思議な感覚が彼女を支配する。

 風が歌い、光が舞う。木々の葉がつぎつぎとメロディーを口ずさみ、小さな花はくるくると踊り出す。

 やがて彼の姿もバイオリンの音色も、その中に違和感を残さず消えてしまう。媚びることなく、だからといって偉ぶるわけでもない。ただ調和し、混ざり合い、一つのモノにまとまっていく。

 くらくらする頭を抱え、現実に戻ってきた詩音は何も言えなかった。“何故私の名前を知っているの?”というありきたりな台詞は無意味なものに感じられたし、知っていて当然のような気分になっていた。彼の旋律を言葉にしようもなく、心がまだ震え、興奮冷めやらぬことしか分からない。今にも卒倒してしまいそうなのをなんとかこらえ、詩音はしっかりと足を踏ん張っていた。

 彼は伏せていた瞳を上げると物悲しげな表情で口を開いた。

「――何か残念だね。こうすることでしか風の詩(うた)を聴くことができないなんて。誰もが皆、個性的な歌を持っているのに、それに気付くことすらできないなんて」

 しゃがみ込むと、近くに置いていたケースの中にバイオリンをしまう。彼はそのまま立ち上がろうともせずに続ける。

「昔はね、誰でも風の詩を聴くことができたんだよ。人間が、彼等の声に耳を傾けることをやめてしまったから、彼等は人々に優しく歌いかけるのをやめてしまった。かく言う僕も、本当は彼等の声を聞き取れていないのかもしれない。そして、この声も届いていないのかもしれない」

 そこまで言うと、彼はケースを持って立ち上がる。そこには悲しげな様子は微塵も感じられない。

「ごめん。こんなことを言ったところでどうしようもないのにね。最近君のように風に好かれている人に会っていなかったものだから、つい。久しぶりに美しい旋律を持つ人間に会えて、吃驚していると同時に、すごく嬉しい」

「ど、どうも…」

 満足げに微笑む彼を直視できず、照れて赤くなった詩音は俯いて礼を言う。

「どうかその音を失わぬように。その音は君だけの物だから。――あぁ、どうしてこの場にせっちゃんがいないかなぁ。いればこの喜びを分かち合えるのに」

 台詞の前半と後半のあまりのトーンの違いが詩音の笑いを誘ったが、ぐっと押さえ込んで問いかける。

「“せっちゃん”って、店の相方さんですか?」

「そう。店のパートナーであり、僕と似た運命を背負っている人だよ。あ、自己紹介がまだだったね。僕は風宮律(カザミヤリツ)。よろしく」

「有栖川詩音です。こちらこそよろしくお願いします」

 名前を相手が知っているのは分かっていたが、自分から名乗らないのも何か妙なので詩音はペコリとお辞儀をして自己紹介する。

「そうだ、よかったら目的地まで送るよ?」

 彼女は言われてはっとする。バイオリンの音色に誘われてふらふらとここに来たのは良かったが、いかんせん、ここまでどうやって来たのかは記憶していなかったのだ。

「そう言ってもらえて助かりました。恥ずかしながら、ここまでどうやって歩いてきたのか覚えていなかったもので」

 耳を赤くして、照れていたときよりもさらに俯いて答える。

「だろうと思った。以前にも同じようなことがあったんだ。確か、せっちゃんに出逢った時で……」

 彼は歩き出した足を中途半端に止めた。その彼の後ろを歩いていた詩音は危うくぶつかりそうになるが、すんでのところでかわす。

「ひょっとすると、君も風の声を聴くことができるのかもしれないね」

 くるりと振り向いた彼の瞳は本当に嬉しそうにきらきらと輝いていた。詩音よりは年上なのだろうが、時折あらわす表情や仕草はどこか子供じみていて、彼女はそれにも動揺を隠せなかった。

 自分に素直だからこそ、風に好かれているのかもしれない。詩音は心のどこかでそう思った。

「今度うちの店に来たら、是非ピアノを聴かせてよ。美味しいケーキと紅茶をつけるから」

 そのとき、遠くで声が。男の人の、誰かを呼ぶ声。

 その声はだんだんとこちらに近づいていた。

「りっちゃん! なに可愛い女の子を口説いてンだよ!!」

 からかいの意味も含めて、道の奥から歩いてきた青年は叫んだ。律の持つ、青年男性にしては高いテナーボイスとは違い、その青年の声は落ち着いた太いもので、それはそれで綺麗な声だった。

 詩音は視線をその青年に合わせた。

「あ、せっちゃん。お迎えご苦労さま」

 律も、こちらに手を振って歩いてくる青年の方に向き直って声を掛ける。

 やってきた男は華奢な律とは対照的ながっちりとした体格で、身につけているアクセサリーや着ている服も正反対。中性的で柔和な律とは異なる男らしい顔立ち。色の薄いサングラスから透けて見える目は鋭くて印象に残る。この二人がそろうとミスマッチとしか言いようがなかった。

「俺はお前の足じゃねぇ!」

「なにもそんなこと言ってないだろー」

 ぷーっと膨れて律が答える。やってきた男は他にも何か言いたそうだったが、彼は詩音に目を向けた。

「あれ? 君はどこかで」

「有栖川さん、彼がせっちゃんこと、音名節(オトナセツ)。気楽にせっちゃんって呼んで良いから。僕はりっちゃんとでも呼んでよ」

 節の台詞を遮って律が紹介する。

 詩音は節にペコリとお辞儀をした。

「有栖川詩音と言います。あ、律さん、私は詩音で良いです。呼び捨てで」

「じゃ、りっちゃんと呼んでくれないとね」

 これで決まりとばかりに律が話を締める。

 節は腑に落ちない様子で首を傾げていた。

「どうしたの? せっちゃん」

 律が問い掛けるが、それには答えずじっと詩音を見つめている。

「何か、私についていますか?」

 不安げに上目遣いに尋ねると、節はにかっとその容姿とは不釣り合いな笑い方をした。

「なぁんだ。店に来てくれている子の中に同類がいたのか。律のバイオリンに誘われて、はるばるこんなところにねぇ」

 何も教えていないはずなのに、節は詩音がここに来てしまった経緯をズバリと当てる。今までの詩音だったらここで“何で分かるの?”と訊くだろうが、彼女はもう彼等の空気をつかんでいたので何も言わなかった。

 自分にも彼等と同じ何かが潜んでいることに気付き始めていたから。

 彼等の纏う風を、理解し始めていたから。

「詩音、りっちゃんを送るついでに目的地まで送るよ。時間があるなら、君のピアノをうちのお店で聞かせて欲しいところだけど、どう?」

 話の流れを読んでいる彼等には、いちいちことの成り行きを説明する必要はない。それらはすべて風が語ってくれる。

「それはいいですね、構いませんよ。目的地は“オルゴール”ですから」

 戸惑うことはなく詩音はにっこりと笑んで答える。

 その返事を期待していた二人は目配せをしてそれぞれが言う。

「そうと決まれば話は早い」

「どうぞ、僕らのお店“オルゴール”へ」

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