第54話 騒動の裏と裏取引
「……どうやら、収まったようだな」
グランヴェンシュタイン城の間借りしている邸宅。
その書斎の窓から街の様子を窺っていたドゥーラン・グァバレア辺境伯は静かに、けれど焦りを含んだ声でそう呟いた。
魔獣の活発化という兆候はあったとはいえ、数千体規模の
その一部始終を見ていた辺境伯は考えていた。
明らかに自然な動きではない。
「もしや……もしや『奴ら』が魔獣どもをけしかけてきたのか……?」
だとすると、それは辺境伯にとって一大事だ。
二日前の朝早く、魔獣の大群が迫っているという話を聞いた時には、自身も第七層まで避難することを本気で考えた。
そこで辺境伯を踏み止まらせたのは勇気――ではなく、この二年間で貯め込んだ財産を捨てていくのを躊躇ったからだ。
ハーヴォルド家令嬢には「清貧な暮らし」などと
やがてはダグラスがハーヴォルド家令嬢を娶り、その領地も財産も自分のものとなる――とは言え、それには現ハーヴォルド家当主の逝去を待たなければならない。
現ハーヴォルド家当主――バドゥル・ハーヴォルド・グランヴェンシュタイン伯爵は頑強さで知られる人物だ。
数年程度で死ぬとは思えないし、それまでの年月、贅沢から遠ざかった暮らしを送るなどということは、辺境伯にとって考えられないことだった。
ミナティリアに運ばせた財宝は、来るべき日まで贅を尽くした生活をするための大事な資金なのだ。
そう。ウォル・クライマーはこの
ただそれはまったく無関係ということではない。
辺境伯はこの不自然な
しかしながら、もしこの
いや、厳密に言えばひとつ、心当たりはある。
けれどあれは取り戻したその日に金庫の中に仕舞い、それから一度も取り出していない。
「奴ら」がその存在に、気づくことはないはずだ――
「だが……念には念を、入れておくか……あれをより安全な場所に移しておかねば」
辺境伯は窓辺から離れると、机に置かれた小ぶりな真鍮製の騎士像から剣を取った。
その剣は鍵になっている。辺境伯はそれを手に金庫の前まで足をずって歩いていくと、三つ並んだ鍵穴に順に挿し、中央を左に一回転、上を右に半回転、下を右に二回転半と回していく。
金庫の扉が開き、中に納められたものがあらわになった。
「…………」
それは鍵だ。
青味がかった岩を削りだしたような見た目の、大ぶりな鍵。
一般には知られていない「壁の守り人」の秘宝。「王の鍵」である。
辺境伯は手を伸ばし、それを掴もうとして――
「――やはり、既に回収は済んでいたというワケだな」
突然、部屋の中に響いた自分以外の者の声に、ばっと背後を振り返る。
すると部屋の中……先ほどまで辺境伯自身がい窓辺に、いつの間にか一人の男が立っていた。
白っぽい外套で頭を含めた全身を覆い、顔も布で覆われていて容貌を見ることは叶わない。頭には呪詛めいた文様が染め抜かれた黒い布を巻き、腰には十字架を思わせる長剣を下げている。
明らかに城の人間ではないし、尋常の者とも思えない雰囲気を纏った男だった。
その眼光に睨まれた辺境伯は、驚愕しつつ後ずさる。
「貴様、どうやって――っ!?」
と言いかけたところで、窓の向こう。テラスに立つ何かが部屋を覗き込んでいるのに気がついた。
猛禽めいた鋭い眼光で辺境伯を睨むのは、人の背丈を越えるほどの、鷲型の魔獣だ。
目の前の男は、その魔獣の背に乗るなりしてこのテラスへと降り立ったのだと想像がついた。
こともなげに魔獣を従える男。
間違いない。「奴ら」の仲間だ。
「お前からは『王の鍵』は捜索中だが見つかっていない……そう聞かされていたが?」
男はがしゃり、と金属製のブーツを鳴らして辺境伯へと近づいた。
その距離を少しでも保つかの如く、辺境伯はまた一歩後ろへ下がる。
「ああ……ああ。捜索に向かわせていた者が、その、二日ほど前に戻ってな。ようやく……本当にようやくだぞ? 『鍵』の回収に成功したというわけだ」
「ほう……報告によれば、その者が戻った晩には既に『鍵』は金庫の中に収まっていたそうだが……?」
「ぐっ……」
なぜそんなことを知っている。
喉まで出かかった言葉をなんとか呑み込み、辺境伯は押し黙る。
あの夜、書斎で鍵を見つけたのはダグラスだった。
まさかあの出来損ないが自分を裏切ったのか?
一瞬、その可能性を考えた辺境伯だったが、すぐに違うと気がついた。
不肖の息子に自分を裏切る度胸など、ありはしないのだから。
それよりあの時、自分とダグラス以外にもうひとり、その場に居合わせた人物がいるではないか。
書斎に何者かがいる気配を感じ、賊を警戒して部屋に入れてしまった、護衛の男だ。
まさか息子が自分の金庫を暴いているなどとは夢にも思わず、結果として開いている金庫の中を見られてしまった。
奴に違いない。あの護衛が自分を裏切った……いや、最初から自分を監視するために「奴ら」が送り込んできたのだ。
安い給金でよく働くと思って、近衛にまで取り立ててやったというのに、裏切り者め――!!
辺境伯はこの場にはいない護衛の男に怒りを募らせるものの、しかし今は目の前の窮地をなんとかしなければと思い直す。
何しろ目の前の男は、人類を脅かす魔獣を従える者。
その技術を人類のために役立て、貢献しようとはしない。それは端的に、「奴ら」が人類と敵対していることを意味している。
もっとも人類の側はそんな敵の存在に気づいてすらいないのだが。
ともかく、そんなわけで目の前の男を含め「奴ら」に人の法は通用しない。
貴族を傷つければ死罪と決まっている――そんなことはこの男にとって、何の意味もないのだ。
「待て。我々のあいだには、どうやら誤解があるようだ。そうは思わんか? んん?」
「誤解か。確かに、そうだな」
辺境伯の拙い弁明に、意外にも男は同意を示す。
一瞬、ほっと気を抜いた辺境伯だったが、その後に続く男の言葉は彼を恐怖させるのに十分なものだった。
「お前は誤解しているようだ。自分が我らを謀り優位に立てると……我らを謀っておきながら、無事でいられると……な」
じり、じりと辺境伯に歩み寄りながら、男は腰の長剣を抜き放った。
辺境伯は悲鳴を上げ、さらに後ろへと後ずさろうとするが、すぐに背中が金庫にぶつかった。
これ以上は下がれない。
「我らがわざわざ、お前の都までの道を開けてやっていたのは、何のためだと思っている? お前をこれ以上、肥え太らせるためではないぞ……?」
がしゃり、がしゃりと、ゆっくり近づく男の足音は、辺境伯にとって死神のそれにも等しい。
逃げ場はない。
死ぬ。殺される――
「待ってくれ。違う、違うのだ――確かに黙っていたのは悪かった。しかし少しばかり時間をかけて、自分の財産を余分に取って来たからと言って、何も問題はあるまい――?」
「貴様のおかげで、我らはこうして街まで出向くはめになった。人目につく危険を冒した上、わざわざ向こう側から連れて来た獣を、陽動のための捨て駒にして、だ……」
ついに辺境伯の目の前まで来た男は、手にした長剣を振りかぶる。突きの構えだ。
「その代償を――どう支払う?」
「まっ、待て……よせやめろ――っ!!」
この期に及んで見苦しい言い逃れを続ける辺境伯を、男は完全に無視していた。
無慈悲にも長剣が突き出され――辺境伯の顔、そのすぐ横を通過して背後の壁に穴を穿った。
辺境伯自身に、傷は無い。
それでも恐怖で腰が抜けたのか、辺境伯はずるずると背を擦って、床に尻餅をつく。
着ているガウンの股座が粗相で濡れていた。
「……本来であれば裏切者は始末すべきだが――お前は腐っても『壁の守り人』の一族。その血はやがて我らに役立ててもらう」
そう告げると、男は剣を壁から引き抜き鞘へとしまう。
そして目の前でへたっている辺境伯を――
「ぐぼふっ――!?」
思い切り蹴り飛ばして、金庫の前からどかした。
男は金庫を開け、「王の鍵」を掴む。
「『鍵』は貰っていくぞ。貴様は我らのため命を使うその時まで、せいぜい惨めに生き延びるのだな」
それだけを告げると、男はさっと外套をひるがえしてテラスまで戻り、鷲型魔獣の背にまたがる。
鷲型魔獣は男が乗ったのを確認すると、翼を広げて空へと羽ばたいていった。
辺境伯はしばらくのあいだ、蹴り飛ばされた姿勢のまま動かなかった。
いや、動けなかったと言った方がいい。「奴ら」に対する切り札だった「王の鍵」は奪われ、もはや連中を都合よく操ることは叶わない。
辺境伯は「奴ら」と、ある取引を交わしていた。
それは密輸用の地下坑道からグァバレア領都まで、獣侵領域を「奴ら」の力で安全に行き来できるようにするというもの。
それにより辺境伯は屋敷に残してきた財宝を、部分的でも回収することができるようになる。
見返りとしてグァバレア領都から「王の鍵」を探し出し、「奴ら」に渡すことになっていた。
ただ、鍵を渡したら取引はそこで終わってしまう。
そう考えた辺境伯は鍵の発見を「奴ら」に隠し、グァバレア領都までの道を確保させ続けていたのだ。
本当は「鍵」がどこにあるのかは知っていたし、一番初めにミナティリアを向かわせた際に回収させていたにも拘らず、である。
しかし鍵を回収していたことを知られ、その鍵も奴らに奪われた。
つまり、もう二度と第五層の屋敷には行くことはできないということだ。
地下坑道の存在はハーヴォルド家令嬢に知られてしまったが、辺境伯はその利用を諦めたワケではなかった。何となれば、その位置さえ隠し通せば問題ないと考えていたのだ。
まだまだ屋敷には財産が残されているし、それらの回収は続けるつもりだった。そのために、ミナティリアに替わって使える
が、それももう叶わない。
これから先、ハーヴォルド領を手に入れるまで、贅を尽くした暮らしをどう保っていけばいいと言うのか……?
いや、辺境伯にとって問題はそれだけではない。
さらに悪いことに……やはりこの不自然すぎる
あの男はこの城に侵入するため……普段城を守っている守衛戦士団を街の防衛で手一杯にするために、大量の魔獣をけしかけて来たのだ。
確かに、結果として城を守る者はほとんどいなくなり、奴は簡単にここまで侵入を果たした。城にいる……いや、街にいる誰もが市壁の外に注意を奪われ、空を行くあの鷲型魔獣の存在になど気づきもしないだろう。
だがしかし――「奴ら」は大きく動き過ぎた。
もしかしたら後々になってこの不自然さに疑念を抱き、魔獣が何者かの意図に従って動いているということに、気づく者がいるかもしれない。
そうなったら、非常にまずいことになる。
特に――ミナティリアから直接話を聞いているであろう、ハーヴォルド家令嬢とその場に居合わせた取り巻き共だ。
もし奴らがミナティリアから第五層の――獣侵領域の様子を聞いたら?
魔獣と出くわすどころか、姿を見かけることさえなかった……その不自然さに気づいてしまったら、どうする?
辺境伯の指示で第五層の屋敷まで行き来していたミナティリア。その道中の、最大の障害が、まるで何者かが意図したように取り除かれていた……などということになれば。
辺境伯と「奴ら」の繋がりを疑うのは必然だ。
もちろん、それを示す証拠など何ひとつとして残っていない。
ミナティリア回収させた財宝はすべて製錬所に買い取らせたし、その財宝も既に鋳直されて別のものになっているだろう。
財宝を持ち込んだアルドグラム製錬所の所長ジャミルは、元第五層の人間だ。
辺境伯が仕事を世話してやった恩があるし、金もたっぷり握らせてある。
そこから情報が漏れるはずはない。
はずはない……が。
「やはり……危険な芽は確実に摘んでおかなければ……な」
辺境伯は壁にかかっていた宝剣を手に取る。
飾り物ではあるがその刃は鋭く、人を切り裂くのに十分だ。
これで……ミナティリアの口を封じる。
それがもっとも、安全で確実だ。城の地下監獄にいる今なら容易いこと。
「それに、あの小娘は他にも色々と知りすぎているからな……」
辺境伯がミナティリアにやらせていたのは、第五層の屋敷から財宝を回収して来る仕事だけではない。
さらに以前――第五防壁の崩壊前には、口にするのも憚られるような、あらゆることをさせてきたのだ。
もしミナティリアがそれらの出来事を喋ったとしても――やはり証拠のひとつもないことだ。大した問題にはならないだろう。
けれど、それが原因でハーヴォルド家に腹を探られるのも都合が悪い。何より、ダグラスとハーヴォルド家令嬢の婚約を断る口実にされでもしたら面倒だ。
ならば――
「ぐふふ……少々惜しい気もするが、致し方ない。せめて、死に際の恐怖に引きつった顔で、儂を楽しませるのだぞ――……」
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