第36話 少女の秘密と忍び寄る影
グランヴェンシュタイン城内の庭園。
クラルゥの私室からの帰り道、ミナはウォルたちと共にメイドのトゥルーアに先導され、城の通用門に向かっていた。
領主家令嬢のお墨付きを得たとはいえ、入門記録のない三人が堂々と正門から出て行けば、門を守る
「それにしてもムル、よくクラルゥのスキルの弱点に気づけたね? 教えたことはすぐ覚えるし、クァリヴァインでもいい作戦を思いついてくれたし、もしかしてムルってすごく頭がいいのかも」
「あの、ウォル様。そんなに褒められると照れてしまいます……」
先を歩く二人はそんなやり取りをしている。
最後尾を歩くミナは、そんな二人の姿を微笑ましく思った。
ミナやウォルが褒めて、ムルが照れる。ここ数日で何度も見たやり取りだ。
もはやミナの日常の一部と言っていいくらいに。
彼らと出会って行動を共にするようになって数日間。その日々はこれまでの生活とはまったく別世界のようだった。
リナと二人だけで心身を削るように必死に生きていたミナにとって、頼れる仲間や信頼を寄せてくれる友の存在なんて、望むべくもなかったのだ。
けれど今は彼らがいる。
ムルは気弱で自信が足りないけれど、素直で純粋で、自分を頼ってくれる姿はまるでもうひとり妹ができたみたいに思う。
ウォルはやらしいことばかりするけど、いつも仲間たちを先導し、率先して危険を引き受けみんなを守る、頼りになる存在だ。
もし自分がそんな彼らの役に立てているなら、それ以上に嬉しいことはない。
願わくば、これからもずっと彼らと一緒に冒険者として活動を続けて、共に
「…………ミナティリア・ナジェラーダ」
不意に。
建物の影が落ちる暗がりから名前を呼ばれ、ミナは凍りついたように足を止めた。
「なぜこんな所にいるのだ? 前に来てからさほど経っていない。もう一度お使いに行ってきたワケでもなかろう?」
闇の中から姿を現したのは、護衛をひとり伴ったドゥーラン・グァバレア辺境伯だ。紫のけばけばしいガウンに身を包み、ごてごてと宝飾品を纏った禿頭の巨漢。
その姿を目に留めた途端、ミナは心臓が締め付けられるような痛みに襲われる。呼吸が浅く、早くなって、脂汗が首元を伝って流れ落ちた。
「そ、の……友人が伯爵家ご令嬢と懇意の仲だとかで、今夜は彼女に招かれて……」
息も絶え絶えにそう告げる。
間違っても辺境伯の身辺を調べに来た、などと知られるわけにはいかない。そんなことが知られれば自分はもとより、ウォルやムルまでがどんな悲惨な目に遭うか分からない。
「そして貴様も腰巾着としてついて来たというワケか? 随分と暇を持て余しているようだな? んん?」
ずりずりと、靴底を引きずるように歩きながら近づいてくる辺境伯。その手が、硬直したまま動けないミナの肩を掴む。ぞわぞわと指先を這わせる、下卑た感情がありありと伝わる触り方だ。
「あの、早く行かなければ、友人たちに怪しまれます……」
辺境伯の手が肩を伝い、首を伝い、顔まで這い上って来たところでミナはなんとか声を絞りだす。それでも辺境伯が手を離すことはなかった。
「貴様、自分の立場が分かっておらんようだな。儂から受けた恩を忘れたのか? それに、目的のためには儂の協力が欲しいんだろう? そのためにその身を捧げると誓ったはず……。友人たちと楽しく城の茶会に興じる資格が、貴様にあるとでも思っているのか? どうなんだ?」
「…………申し訳、ありません」
ミナは必死に耐えることしかできない。
唇を噛み締めて震えながら俯くその姿に、辺境伯は興が乗ったのか「ぐふふ」と嗜虐的な笑いを漏らす。
「その友人たちとやらは貴様の正体を知っているのか? 貴様がこれまで何をしてきたか? どうだ? もしそれを知ったら奴らはどう思うだろうな?」
「…………!」
もしそんなことになったら。
きっと彼らはミナを軽蔑するだろう。
自分のことを仲間だと、友人だと思ってくれている彼らの気持ちを裏切ったミナを、決して許しはしないはずだ。
蔑む目でミナを見て、怒りの言葉をミナに投げかけるかもしれない。
そんなことは耐えられない。
想像しただけで涙が溢れてくる。
「……誰にも」
ぽたりぽたり。顎先から雫を滴らせ、ミナはやっとの思いで言葉を紡ぐ。
「……誰にも、何も、言うつもりはありません。彼らは何も知らないです、教えられる、ワケがない……!」
涙が止まらなかった。
そんなミナの姿を見て、やっと満足したのか。辺境伯はすっとミナの顔から手をどける。
「分かっているならそれでいい。どうやら退屈過ぎて魔が差しただけのようだな? ぐふふ――それほど時間を持て余しているなら、またお使いに行って来るがいい。しくじるなよ?」
そう言うと、辺境伯はまたずりずりと靴底を引きずって、元来た闇の中へと戻っていく。
終始無言の護衛もそれに続いた。
「忘れるな、ミナティリア嬢。貴様は儂の道具だ。儂のために働き、儂だけに尽くすのだ。貴様はとうに穢れている。人並みの楽しみや幸せを享受できるなどと、勘違いするでないわ」
その言葉を最後に、闇の中からは何の声も聞こえなくなった。
気配も遠ざかっていく。立ち去って行ったんだろう。
そう認識した瞬間、ミナは膝から崩れ落ちた。
寒い。
身体を守るように両腕で抱く。それでも震えが止まらなかった。
辺境伯の言う通りだ。
「私……何を勘違いしてたのかしら……」
ウォルたちと過ごす日々があまりにも楽しかったから、思い違いをしてしまっていた。
こんな日がずっと続くんじゃないかと、心のどこかで期待してしまっていた。
「そんなはずないのにね……」
□壁□壁□壁□壁□壁□
「私、明日からしばらくまたバナンに出かけるわ」
城から宿に戻ってすぐ、リナが買ってきてくれていた夕食――パンとスープという簡単なものだけど――を食べながら、ミナが告げた。
「バナンに?」
俺はすぐに、リナが言っていたことを思い出す。
ミナは時々バナンの町に行き、そこにリナだけを残してどこかへ出掛けている。
「……何しに行くの?」
迷ったけど、そう尋ねる。でもミナは予想通り「何でもいいでしょ……」と答えを濁してしまった。たぶん、これ以上問い詰めても答えてはくれないだろう。
「ねえさん、それなら後で準備しておく。今回は兄さんたちが残るから、必要ない荷物は置いていってもいい?」
リナがミナにそう問いかけた。
ちょっと悪くなった雰囲気を払いたいという気持ちに加え、荷物の一部を俺たちに預けておくことで、自分たちとの繋がりを維持していたい――俺にはリナの言葉が、そう助けを求めているように聞こえた。
けれどミナから返って来た答えは予想外のものだ。
「そのことなんだけど、今回はあなたもここに残していこうと思うの」
「……え?」
リナが驚いたように目を丸くした。
「今まではひとりで残していくのが心配でバナンまでは連れて行ってたけど、今回はあなたの言う通りウォルたちがいるもの。信頼して妹を預けていけるわ」
ミナは「いいわよね?」と俺たちに尋ねた。
「もちろんかまわないけど……」
何だか不安だ。
リナのことを任されるくらいにはミナの信用を得ることができたということなのに、それを素直に喜べる雰囲気じゃない。
森の異変。辺境伯の邸宅と森を行き来する「怪しい奴」。時折街を離れるミナ。
バナンの町は森に近い。これらを線で結べないほど、俺も馬鹿じゃないのだ。
そんな心配が顔に出ていたのかもしれない。
ミナは殊更明るく「バカね」と言うと、食卓の対面から手を伸ばして俺の額を指ではじいた。
「一〇日かそこいらで戻って来るわよ。何『もう会えなくなるんじゃないか?』みたいな顔してるの」
「……そんな顔してた?」
「してたわ。捨てられそうな子犬みたいだった」
そう言ってクスリと笑う。その感情に嘘は無さそうだけど……どことなく寂しそうだ。
「……わかった。気をつけて行ってきてね」
正直に言えば心配だったけど、おそらく説得して引き止めるのは無理だ。
ミナの言う通り、二度と戻ってこないなんてことはさすがに無いはずだし、変に言い合って険悪になりたくはない。
俺が渋々引き下がると、ミナは満足したように「じゃ、リナのことは頼んだわよ」と念を押した。
□壁□壁□壁□壁□壁□
そして翌日。
昼過ぎに街を発つというミナを見送りに、市門まで足を運んでいた。
ミナはリナに何かを手渡している。それは小さな短剣だった。
「いい? これを常に身に着けておくのよ。出かける時はもちろん、夜寝る時も傍に置いておくのを忘れないでね? もし襲われたら、その時は躊躇っちゃダメよ。思い切りやりなさい」
……信頼とは?
リナはリナで「わかった」とその短剣を受け取ってるし、この二人は相変わらずだ。心配し過ぎだったんだろうか?
それからミナは俺に向き直る。
その表情は「やっぱりこの変態に妹を預けていくのは心配よね」みたいに胡散臭いものを見るようなもの――かと思ったけど、そうではなく真剣な顔だった。
「ねえ。私がいないあいだ、宿にヘンなやつが近づかないか注意しててくれないかしら? 部屋も、戻るまではリナと一緒に四人部屋にいてくれる?」
「……? うん、わかったけど……」
なんで?
てっきり「帰るまでには四人部屋から移っておいてよね!」くらい言われると思ってたので、意外だ。
まるで自分がいないあいだに、誰かがリナを攫いに来るんじゃないかと心配しているみたいな口ぶりだった。
もしそうだとすると、誰に?
訊いてみた方がよかったかもしれないけど、ミナはまるでそれを避けるみたいに「お願いね」とだけ言い残すと、足早にバナン行きの馬車に乗り込んでいってしまった。
「それじゃ、出してちょうだい」
「承知いたしました。それではウォル様がた、またお会いしましょう」
馬車を駆るのは、ここへ来た時に乗せてくれた行商人だ。
彼が手綱を軽く振ると、馬車を牽く馬がとことこと歩き出す。
ミナは幌の中に引っ込んでしまって、その姿を見ることは叶わない。
だけど俺たちは、彼女を乗せた馬車が見えなくなるまで、その姿を見送ったのだった。
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