第5話ポーケル

 向島博監督は、ここが勝負時だと理性と感覚、両方で感じた。一気に二枚替えし、フレッシュでまだスタミナに余裕のある選手を投入する。

 監督もまだ諦めているわけではない。だがそれは、得失点差を少なくすることで、勝ち点を持ち帰るところまではいかないだろうとも思っている。


 名古屋の猛攻が再開されていた。まるでパス練習かのように、パスが繋がっていく。

 あらたに入った選手がチェイシングする。だが、ロンド鳥かごの練習かのように、ボールは貫通していく。


 名古屋のフォワードがシュートを放つ。ゴールキーパーが勢いよく弾いた。バチンと音がしたセカンドボールを、利根が回収する。


「ヘイッ」


 大吾が左手を軽く挙げてボールを要求した。利根はロングボールを蹴りだす。スライスがかかったボールを、大吾は左足のインサイドで柔らかくトラップする。


「当たれば飛ぶぞ! 身体を当てていけ!」


 河崎英五が指示を出す。名古屋のディフェンス陣は一斉にプレスに行った。


 大吾はボールを右足インサイドで左足に持ち替えさらに右足へと戻す、ダブルタッチ・フェイントでプレスをいなした。あんまり簡単にかわしたため、躊躇したディフェンスはそれ以上突っ込んでこれない。


 大吾はゴール前に突貫した。風切り音がするような、疾風はやてのような一陣の風。


 次に来たディフェンスを、大吾はボールを跨ぐ高速シザースボールまたぎで翻弄した。相手の重心が傾いたときに、逆を突く。ボールは奪われることがなく、大吾がその両足に加速をかけ始めようとした。

 

 ボールが奪えないのなら、狙うのはボールではない。物理的に身体に身体を当ててしまえばいいのだ。

 ショルダーチャージが大吾を襲った。

 体重の乗ったそれは、54kgの身体をいとも簡単に思い切り吹っ飛ばす。

 

 審判が笛をかき鳴らしながらやって来る。

 体格の小さな大吾のすっころび方からして、審判へのチャージの心象が悪い。名古屋にはイエローカードが、岡山には直接フリーキックがもたらされた。


「小さい体は得だなあ! ええ!?」


 そう言いながら、真吾が手を差し出して大吾を引っ張り上げた。


――本気で思っているのか


 俺は、あんたのようになりたかったんだ

 父を越える、あんた

 テクニックと、パワーと、スピード

 まるで元ブラジル代表のロナウドのようなあんたに


 引っ張り上げられて横に並ぶと、その差は残酷に映る。顔を数度傾けないと、視線は交差しない。苦々しい思いが、頭の中を揺れ動く。


「さっきアシストしてもらったからな。蹴らせてやるよ」


 慈悲を告げる声が聴こえる。憐れむような言い方に聴こえるのは、卑屈に過ぎるだろうか。


 兄・真吾はA代表でもたまにフリーキックを蹴る。だからこそ、名古屋のディフェンスは真吾により注意を払わなければならない。


 真吾が助走を開始した。蹴るふりをして、名古屋ディフェンス陣は一斉にジャンプする。兄はダミーキッカーとしての役割を完全に果たしたのだ。


 ジャンプしたその下を、大吾が右足インサイドで撃ち抜いた。試合前に降っていた雨が奏効し、程よく水を吸った芝が、そのシュートスピードを余計に加速させる。

 

 思わず、右手の握りこぶしを高く突き上げる。左ポストすれすれを渾身の一撃は捉えていたのだ。


 パン! と真吾が大吾の後ろ頭をはたいた。


「良いよな。小さい奴は……」


 そう呟きながら、兄は自陣へ戻る。


 自分は兄の大きさに憧れていた。ところが、不思議なことに兄は自分の小ささを羨ましがる。神様がいるなら、交換を申し出たいほどだ。




 2点差となって、岡山イレブンの息が復活してきた。

 確か、『試合中に漏らしたら、マークが近寄ってこなくなった』と言ったのは元イングランド代表の、ゲリー・リネカーだ。文字通り、やけくそ気味なのかもしれない。


 ファウルゲッターという役割は確実にある。大柄な体を活かし、前線のポストプレーでタメを作り、ときには倒れてファウルを演出し、味方にフリーキックのチャンスをもたらすのだ。


 この日の大吾がそうであった。

 小柄な身体・・・・・を活かし、相手のフィジカルなプレーにはたまらず吹っ飛ぶ。審判はその性質上、ダーティなプレーだと思ってしまう。


 大吾がボールを持つと、躱されるか、ファウルで止めるか。通常では反則ではないプレーでも、彼は倒れてしまうためにフリーキックを得てしまう。




 前半がなんだったかのようにゴールキーパーと、利根の奮闘が続くようになってきた。

 ここに来て、ようやく岡山はディフェンス陣が守備方法を学んできたようだ。


 大吾のドリブル突破が続く。今度は、ボールを中心にして周るルーレット・フェイントで華麗に躱した。次に来る相手も、またルーレットで躱す。

 ダブル・ルーレット。

 抜かれた相手は当然良い顔をしない。するわけがない。今度は真後ろから、チャージを受けた。


 強い衝撃!


 あざができているかもしれない。完璧なファウル。



 右斜め45度。これは真吾の好きな角度だ。


「譲ってやるよ」


 兄の言葉に、大吾は頷く。


『今度は左利きの真吾が蹴って来るに違いない』


 河崎英五も、名古屋ディフェンスも、観客もそう思っていた。そのためか、大吾に対する警戒心が大幅に減少する。


 キーパー河崎が左手を前に差し出してフリーキックに対する壁を調整する。壁は4枚。センチ単位でその立つべき場所に指示を出す。


 真吾の蹴って来る範囲からはコースを消した。これで大丈夫なはずだ。河崎はそう確信した。


 しかし、真吾が走ってボールをスルーしたとき、河崎は嫌な予感を覚えた。そしてそれは的中してしまった。


 大吾が今度は左足でフリーキックを蹴ったのだ。

 

 放物運動したそれは正確に、ゴールの左上隅を射抜いていた。


 3-4!


 名古屋スタジアムは、名古屋サポ、岡山サポ両方を巻き込み、異様な雰囲気に包まれ始めた。

 

 

 

※※※※※



 名古屋のプレーが荒くなってきた。

 よくわからないやつが途中出場してきてから、いきなり3点を返されたのだ。狼狽し、錯乱するのもわからなくもない。 


「リターン!」


 中盤よりやや前方で大吾はパスを出した相手に、ボールを戻すことを要求した。疲れている味方のパスは、わずかにずれた。それに触れようと大吾が足を延ばしたときに、業を煮やした敵に軸足を刈られ、激しく削られた。


――いってえ!


 思わず、その場に転び込む。

 メディカルスタッフが担架を掲げてやって来た。左足にやや違和感が残る。しかし、ここで退場するわけにはいかない。ルーキーである自分に、初年度に早々何度もチャンスがあるわけではない。しっかりと爪痕をつけて、向島大吾という存在をアピールしなければならないのだから。

 プロサッカー選手とは、個人事業主でもあるのだ。


 その敵にレッドカードが出される。スタジアム中に、名古屋サポのブーイングが鳴り響く。


 このまま敵が残れば、危ういところだった。デビュー戦で再起不能? とんでもない!


 メディカルスタッフが、ベンチに向かって手で〇を作って掲げる。そうだ、こんなところでいなくなるわけにはいかない。




 またもや、直接フリーキック。ただ、狙うには距離がありすぎる。だが、距離があるならあるだけ狙うためのキックの種類を大吾は持っている。


 本来のロングフリーキッカーである利根が、大吾に語り掛けた。


「ここからじゃ狙えんだろう」


「大丈夫です」


 大吾は、ボールの前に仁王立ちをする。そこから、四股を踏むように数歩下がる。


 スタジアム中が沈黙しだした。まるでこれから起こることを見届けるかのように……


 足を踏み出す。


 一歩……

 

 二歩……

 

 三歩……


 四歩……


 そして右足を振りかぶり、人差し指と中指の間で、ボールの中央よりやや下を振り抜いた。


 それはピストルから放たれた弾丸のように、一直線にゴールに向かって強襲をかけた。さらに、キーパーの手前で野球のナックルボールのように不規則に変化する。




※※※※※




「おまえ、帰って来いって!」


 すでにスタジアムを後にしたサポ仲間に、電話をかけている観客がいた。


「すげえことになってんだって!」


『いや、もうチケット捨てたし……』


「じゃあ、もう一度チケット買えばいいだけだろ!」




※※※※※




 アディショナル・タイムに入った。

 スコアは大吾のフリーキックによるハットトリックで、4-4の同点。


『どうやら、勝ち点1を持って帰れそうだ』


 向島博監督は、そう思った。

 

 大吾の技術は認めるよりほかない。

 体が小さいことから、プロで活躍するのは無理だと思っていた。身長だけではない。食が細く、肉の付きにくい虚弱な身体。思えば真吾に注ぐべき愛情も、その貧相な身体から大吾に向けられていたかもしれない。


 1980年代なら、それでまだ行けただろう。

 

『ロベルト・バッジョ』


 彼を連想せざるを得ない。


 80年代から90年代にかけて、サッカー界は様変わりした。テクニックの時代から、戦術とフィジカルの世界になったのだ。

 無敵を誇ったグランデ・ミラノのオランダ・トリオ。ファン・バステンにグーリット、ライカールト。彼らが揃って190cm近かったのは偶然ではないはずだ。


 ロベルト・バッジョは、その過渡期の選手だった。戦術とフィジカルに遷り変るサッカー界に、技術だけで立ち向かった男。

 得点したあとに、ゴールセレブレーションでユニフォームを脱いだ時に見せたそのガリガリの身体。スピードも特筆すべきほどではない。 


「とんでもない選手生活になるかもしれん」


 その言葉を口に出すと、完全に聞き取れなかったコーチが『なんです?』と聞き返してきた。


「なんでもない」


 と、応じる。


 バッジョの選手生活は、靭帯断裂、半月板損傷、骨折と大きな怪我との闘いであった。加えて戦術志向の高い監督との不和。予期できないプレーをするため、あらかじめ戦術に組み込むことが難しいのだ。


 それでも、1993年のバロンドールを受賞している。イタリアで最も愛され、嫌われた選手と言われている。


 自分の息子がそうなるかもしれないと思うと、股間がヒュっとなる。




 大吾がまたもやボールを持つ。観客の目が一斉に向けられた。

 ゆったりとした動作から、急激にドリブル速度をあげる。チェンジ・オブ・ペース。

 

 スピードの最高速度自体はそれほど速くはない。だが、一瞬の加速力と、敏捷性アジリティ

 それはまた向島大吾というフットボーラーの良質な一面性であった。


 マークを引きはがした大吾は、兄の前方スペースへとスルーパスを出した。シュルシュルと芝との摩擦音が聴こえそうな鋭い軌道。


 真吾はそれを受け取ってワンタッチでシュートを打つ。河崎英五が元代表の意地を見せるかのように右手で弾き出し、左コーナーキックとなった。


 大吾はコーナーキックを蹴ろうと、スポットに向かう。もはや若造の越権行為を誰も止めようとはしない。


 アディショナルタイムが終わろうとしている。

『このコーナーキックが終われば試合終了だろう』

『良い試合が見れた』

『まさか、フリーキックのハットトリックがJリーグで起きるなんて』

 引き分けだろうとだれもが思っていた。




 大吾が左手を挙げる。

 助走を開始し、弓を引き絞るかのように、大吾は右足を振りかぶる。そして、ハンマーを振り下ろすかのようにボールに足をヒットさせた。


 ボールは美しい軌道を紡いだ。カーブを描いてスライスしたそれは、雨上がりのピッチに幾重もの虹を築き上げた。


 スタジアムにいる全員が、それをスローモーションで見ていたかのように錯覚する。観客も、スタッフも、ピッチ内にいる選手でさえも。


 ただひとり、大吾だけがそのボールの残像を正確に追っていた。


 ボールは、すべてを飛び越えて、右サイドネットへと収まった。

 まるでそこにいるのが当然であるかのように。玉座に座った王様のように。


 テンテンとボールが跳ねて、主審がゴールを宣告する笛を鳴らす。そして、試合終了を告げる笛も同時に。




 岡山サポーターの奇声に近い喜声と、名古屋サポーターの断末魔のような、悲鳴と罵声による狂気の交響曲がスタジアム内に響き渡る。

 怒号と咆哮とも違う叫びが、スタジアム中をこだました。

 フィールドを漂う水蒸気が龍を形づくり、風に煽られ、半瞬ののち消えた。蜃気楼にしては観ていたものが、勘違いにしては気にするものが多かったかもしれない。


 それがひと段落すると、スタジアム中から拍手が巻き起こる。ホームとアウェイの垣根を越えた、破裂したかのような歓声。今度は敵も味方も関係ない。

 このサッカーというスポーツが好きなものであれば、だれもがこれに混じったであろう。


 大吾は交響曲のために用意されたスタジアムにて、ロックスターのように右拳を振り上げて揺蕩たゆたう。


 大吾の喉が咆哮をあげている。

 自分でも想像していなかった心の震え。

 魂が、自身の魂魄が揺さぶられているのだ。


 大吾はデビュー戦で30分の出場ながら4ゴール1アシストという凄まじい結果を残した。

 フリーキック4発は過去に例がない、史上初の出来事だった。


 完璧なまでのデビューがそこにはあった。


――向島大吾を見たか!?


 雷撃のような痛覚が、大吾の五臓六腑を刺激する。

 それが心を打ち震えさせ、勢いよく全身を循環する沸騰した血液が汗となって蒸発し、生きていることを実感させた。


――サッカーを選んで、間違いではなかった


「俺が俺である理由がこれだ!」


 一度は身長によってフットボールを諦めかけた大吾にとって、それは最高の贅沢・至福の刻。または自分の生存意義を認識させたのだ。


 祝福に来たチームメートが大吾におぶさり、積み重なるようにして何重にも倒れこむ。

 小雨が舞っていたスタジアムはいつか止み、午後5時の夕空が大吾を祝福するかのように照らしている。

 仲間が上に重なり、彼はピッチに顔を埋める。

 今日起きたことが本当であったのか、芝生の匂いで確かめようとしたのだ。


 残酷なまでに追い求めていた、フットボールの香りがした。

 それはとても心地よくて、臓腑を駆けまわり、酩酊を引き起こし、これから先の人生を賭けるには充分な意義を感じたような気がした。


 気のせいでも、それはそれでいい。

 自分自身を鼓舞するには満足な、人間的な臭みすら感じた。




「小動物は人に好かれるからな」


 だれに聴こえるでもなく、真吾がそう呟いた。

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