第4話両脚の価格

 180万円

 それが大吾の両脚に付けられた価格だった。


 自分の脚に値段が付く。奇妙な感覚が大吾を襲った。それは果たして安いのか、高いのか。


 元ブラジル代表のロナウジーニョは、兄・アシスが年俸300万円でプロになったときに、豪邸に引っ越したらしい。

 また、海外のリーグでは控え選手が億の金額を貰っていることも多いと聴く。


――17歳の社会人に付けられた金額としては妥当なのだろうか


 納得したような、それでいて不満であるような。正直、自分の脚に価格をつけられるという恐怖もある。

 世界のトップでは100億を超える選手もいる。あと20年やそこらで、そこまで自分がたどり着けるだろうか。


 まずは試合に出ないことには、お話にならないのは決まっている。トップに上がったばかりの選手にそう多いチャンスは廻ってこないはずだ。最初の1年は数試合に出て、プロに慣れるだけだろう。


 しかしながら、そういう思いはプロ契約をして一ヶ月も経たないうちにあっけなく打ち砕かれた。





 高校生でプロになると、通信制の高校に編入することも多い。

 大吾はその道を選ばなかった。

 チームと提携している学校で、同級生と最後まで登校する。一般的な常識を捨てずにいて欲しいという親の願いでもある。自分の先達である兄も同様だった。




 その日は早春にも関わらず暑かった。地球温暖化を嫌でも感じざるを得ない。

 大吾も思わず学生服を脱いで、白シャツになって授業を受けていた。


 机の右端に置いておいたスマートフォンが通知を知らせる。


『至急、連絡されたし』


 だが、授業を抜けるわけにもいかない。

 

 15分ほど経つと、今度は登録しておいたスポーツニュースの見出しが画面に表示された。


『J1リーグ岡山。集団食中毒発生』


 えっ、と思わず二度見をする。


――どういうことだ? チームは開幕戦を戦う名古屋へと向かうのではなかったか?


 遠征メンバーに大吾は選ばれていない。ヒエラルキーでいうとチーム内で最下位。

 最近の何事にも順番を付けない教育は正しいのだろうか。社会に出ると同時に、こんなにも厳しい競争社会にいきなり狩り出されるというのに。


 同時に『連絡をくれ』というのにも符合がいった。出番がもう来た、ということか。

 まどろっこしい言い方をすると『大富豪』または『大貧民』の『革命』。ヒエラルキーを一時的に覆すチャンスを与えられたのかもしれない。

 授業が終わると大吾は、担任に事情を告げてクラブハウスへと向かっていた。




※※※※※




「何をやっていやがる」


 他の選手が合宿中に集団食中毒に当たるという、料理人チームシェフがプロチームにあるまじき行為を働いてしまい、文字通り棚ぼた的なベンチ入り。

 試合に出る選手も多かれ少なかれ、こぞって調子が悪い。

 名古屋まで行く途中の高速バスで、何度トイレタイムを設けられたことか。もしかしなくても、チビっていた選手は何人かいたかもしれない。

 

 開幕戦の相手は、アウェーの名古屋。

 ワールドカップで正ゴールキーパーを務めたこともある、河崎英五を守護神に据える古豪である。対して岡山は、日本代表のエースである大吾の実兄・向島真吾を擁するも、他の選手は可もなく不可もない。コンディションは料理人のおかげで開幕戦からして最悪。


 ピッチ状態は試合前に少し雨が降り、やや重馬場。


 0-4で負けているときに、そう大吾は呟いた。

 動きが悪いどころではない。走っていないのだ。連動された名古屋の攻撃に後手後手を踏み、よくもまあ4失点で済んでいるものだ。


 キャプテンの利根亮平が両手を叩いてチームを鼓舞している。観客席では、アウェイにもかかわらずコアサポーターのチャント応援歌が鳴り響いていた。


 前者は現在進行形、後者は過去完了形。


 大きく打ち鳴らされていた太鼓は響くのをやめ、大声で歌われていた応援歌はそのさえずりを潜めていた。


『チームの出来が悪い時ほど、サポーターは応援しなければならない。見放す奴はそれまでの奴だ』


 そう言われている。


 だが、この日の岡山の出来はどうか。

 早々に試合を決められ、やる気すら感じさせられない。まともに走っているのは、真吾と利根くらいである。


「あ。あれを見ろ!」

 

 サポーターの一人が名古屋のゴールマウスを指さした。

 なんとゴールキーパー・河崎英五があくびをしている。暇で暇でしょうがないのであろう。


――俺が出てさえいれば……


 ベンチで大吾は、屈辱にまみれた。

 思い上がりかもしれない。年俸が億を越える元日本代表に、180万円のルーキーの高校生が敵意を向けている。滑稽ですらあったかもしれない。


 負けていた方が、控えの選手には機会がある。試合の趨勢を切り替える切り札としてだ。それ以外では、スタミナが尽きた選手の交代か、試合をクローズさせるためくらいしかない。


 大吾は『俺を使え』とアップを始めた。激しくステップを踏み、監督である父にアピールする。鬱屈した思いが、そのスピードを速くさせた。


 気付かないフリをしていた父だったが、他に使える手駒があるわけではない。父は息子の顔を見やる。燃え滾る静かな闘志が、その両眼をとらえていた。


 後半15分。

 電光式掲示板が交代を告げた。


 15→38


 向島大吾のデビュー戦が始まろうとしている。


 観客席は静まっていた。どちらかと言えば反感を持ってその交代を迎えていた。

 兄の向島真吾は、サポーターにすでに認められている。

 むしろ、いつ海外に行くのか。行かないで残留してほしい。行くなら莫大な移籍金を残して行って欲しい。

 様々な想いがサポーターにはある。


 その弟はどうだろう。確かに昨年の高円宮杯のMVPではある。しかし、この場面で出す選手か? 監督は試合を捨てているのではないか?




 向島大吾は、左足から緑の大地を踏みしめた。


――良い感覚だ


 そう思った。

 

――自分は自分だ。結果を残さなければ……

 

 個人主義的な屈折した感覚がそう思わせる。

 プロデビュー戦。緊張よりも、その168cmの躰を昂揚が包み込んでいた。

 己はこれほどふてぶてしかったのか。

 まるでピッチの外と、中とでは自分は別人ではないのだろうか。

 たぶん、自分はヤジロベエのようで。

 渦巻く情熱と凍り付く心が、その時々によって同居と別居を繰り返しているのだろう。


 4-3-3のインサイドハーフに大吾は入った。中央で周りを見渡してみると、味方は腰に手を当てている者が多い。


――こいつらに期待しても無駄だ


 心の中で断言する。

 比較的軽い食中毒と、スタミナが切れているだけではない。心が折れている。


 3点差が付くと、だいたいのサッカー選手はその試合を諦めるものだ。野球のように満塁ホームランでもあれば別だが、4点を返すことはサッカーではほぼ期待できないからだ。

 2-0は危険なスコアと呼ばれるが、3点差を跳ね返した試合は『奇蹟』と語られる。

 2004-2005シーズンのヨーロッパ・チャンピオンズリーグ決勝のリバプールSC対ASミラノなどがその一例だ。


 嵩に懸けて、名古屋は攻めてきた。優勝争いするにせよ、降格争いするにせよ、得失点差は重要のはずだ。


 バックスディフェンス陣も、センターフォワードである兄・真吾のマークに就いているひとりとそのカバーとを残して上がっている。よほど舐められている証拠だ。


 名古屋がサイドチェンジを幾度も繰り出す。岡山イレブンはもうそれに付いて行けそうもない。じわじわ鼠をいたぶる、猫のような所業。


 中央に放り込まれるクロスを、キャプテンのアンカー・利根が胸トラップで綺麗にカットした。どうやら、まだ彼は諦めてはいないらしい。


 利根が前方に蹴りだした。188cmの兄・真吾が、それを競り合う。


 ディフェンダーと腕が絡み合い、軋み合う音が聞こえてくるようだ。どちらがボールに先に身体を当てられるかの競争。真吾は腕を相手の肩に置いてジャンプし、一瞬早くボールに触れた。


 ヘディングによるポストプレーで落とされたそれに、誰よりも早く反応する大吾。

 次のプレーを考えている暇はないはずだ。勢いよく直感が、大吾の脳裏に焼き付いた。




 落とされたボールを、大吾は直にインフロントで前方に蹴りだす。敵のプレスが追いつく前に。弧を描いて、ダイレクト・ループ・スルーパスがその右足から放たれた。


 ボールの放物線はきれいな糸を引いた。

 観衆そして敵は一瞬硬直し、0.001秒、人間の感覚では判らない時間、彼らの時計の針を強制的に止めてしまった。それは絹のような、奇妙に滑らかさを感じさせる味方をも欺くパスであった。


 意表を突くパスというものは、受け手をも騙す。着地した真吾は我を取り戻し、前方へと疾駆した。


 センターバックと体の入れ合いが始まる。体をぶつけ、肘で付き合い、ユニフォームを掴み減速させようとする。

 

 それでも、抜け出したのは真吾だ。そのスピードは日本有数。


 飛び出すか、待ち構えるか。河崎英五は一瞬迷う。

 その躊躇を真吾は見逃さない。その決定力も国内屈指だった。


 真吾は利き足の左で、ゴールネットに優しくボールを蹴り込んだ。


 1-4。


 観客席の静謐が破られるのは必然。


 彼らが否定しようとしたルーキーによって、過去形に逆接の接続詞が続けられようとしていた。

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