第4話

 一ヶ月前の事を「昔」と表現するには、やや過剰かもしれない。ただ、僕にとっては別だ。たった一ヶ月の間を「昔」とたとえるのに差し支えない程、その密度は濃かったように思える。

 その日の放課後。鞄を片手に部室に入ると、見覚えの無い女子が部屋の真ん中で脚を組んで座っていた。

「えっ」

 声が漏れた。それと同時、女子は片手に持っていたスマホからこちらに視線を移し、そして、眉間に皺を寄せた。

 咄嗟に扉をピシャリと締める。

「あっれぇー、部屋を間違えたかなぁー」

 中にいた女子に聞こえるよう、わざと声を大にする。ヤバい。「ぎろり」という擬音が実際に聞こえてきそうな位に怒っていた。……ように見えた。

 部室を間違えたと思ったのは事実で、部屋に掲げられたプレートを見直す。

『文芸部』

 なんだ、やっぱり文芸部か。間違えてなくて良かった。ヤバいじゃないか。部員数が僕一人だけの文芸部の部室に知らない人がいるやん。

「間違えたんなら帰れ。ここは文芸部だ」

 しかも扉の奥から強気な声が聞こえてきた。あたかも自分が部員であるかのような口振りに、困惑が極まる。

「え、えっとぉ」

 どうしよう。ここは大人しく引くべきか? 一瞬しか見ていないからあまり何とも言えないが、茶髪と黒の斑頭で、突き刺さりそうな位に鋭い目付きの人だった。つまるところ、あまり関わりたくない人種だ。「おい、聞こえてんのか!」

 激昂の声と共に、ドン、と扉が振動した。

 や、ヤバい……! 

 ここは引くべきだ……というかこの場から逃げないとやられる! 部室に引きずり込まれてバチボコにされた挙げ句、吸った煙草で根性焼きをされる! 多分おでことかにされる!

「うぉいって!」

 ガラリと扉が開かれ、切れ味抜群の視線に射抜かれた。逃げるタイミングを逸し、「あばばばば」頭が真っ白になる。

「さっきから何なんだ! やましいことでもあんのか? あ?」

「た、頼むから根性焼きは、おでこだけは勘弁してくださいぃ」

「お前! 未成年が煙草吸っていいと思ってんのか! ぶっ殺すぞ!」

「ひい! 良識があった! でも粗暴だ!」

「やましいことがなかったら言えんだろ! 文芸部に何の用だ!」

「僕は、っと、ここの、部員でっ、」

 凄まれた事による緊張と恐怖を押し込め、回らない舌を全力で稼働させた。意味がしっかり伝わったのかは自信はないし、これが今の自分が出せる精一杯だと思うと誇れるものは何もない。どっちかというとアウトだろ。

 しかし今度は「ん?」と相手の方が固まった。

 それと同時「先生! こっちです! 早く!」「誰だ! 廊下で生徒を恫喝してる奴は!」廊下の曲がり角から怒号が聞こえてきた。おそらく一連のやりとりを聞いた誰かが先生に通報したのだろう。まだ姿は見えないが、もうすぐ先生がこっちにやってくる。助かった。と、安堵したのも束の間、「チッ」女子は舌打し、僕の胸ぐらを掴むなり部室に引きずり込んだ。

「っな」

 バン! と扉を勢いよく締め、ガチャリと施錠も欠かさない。一方こちらは掌で口元を抑えつけられたが、指の隙間からは何かいい匂いがした。

「しーっ」

 人差し指を唇にあてて、女子はにこりと笑う。

 よく見れば顔立ちは整っていて、彫りの深い二重が美人の印象を際立てる。正直、こんな状況にも関わらず、ドキリとしてしまった。

「暴れたら殺す。いいな?」

 ドキドキが加速する。

「どこだぁ! 出てこい卑怯者!」

 扉の外。さっきまで僕が立っていたであろう辺りから大きな声が聞こえてきた。生徒指導の先生だろうか。この女子にひけをとらない迫力ではあるが、本当に現場がわからないのか、足音が部室を通り過ぎ、遠ざかっていく。

「ったく、まるで私が何かしたみたいに」

 現在進行形で他人の口を抑えつけている人が何か呟いた。この豪胆さは一体どこから来るのか。もしかして、今更復帰した幽霊部員とか?

「ところでお前、本当に文芸部なのか?」

 睨み付けられたが、声の張り具合にさっきまでの勢いはない。

 どちらかといえば探り探りといった様子で、騙したり嘘をついても今ならばれない自信がある。

 勿論、正直に首を縦に振った。

「何年だ?」

 人差し指を掲げた。

「一年か……私の事は知ってるか?」

 首を横に振る。入部して一ヶ月間が経とうとしているが、見たことが無い。というかこんなヤンキーうちの学校にいただろうか。振る舞いからして年上のように思える。二年生? 先輩?

「ふうむ」

 ここで、口元を塞ぐ手の力が若干弱まった。

 女子ーー先輩は思案するように「んー」と唸り、首を傾けた。何だ? やはり文芸部に何かゆかりのある人なのだろうか。

「証拠は?」

 証拠? 反芻しかけ、代わりに今度はこちらが首を傾げた。

「お前が文芸部である証拠はあるのかって、聞いている」

 先輩は、僕の反応に若干苛々した様子で言い直した。しかし、そうは言われても咄嗟に自身が文芸部員である事を示せる方法なんか思い付かない。

「どうした? やっぱり嘘なのか?」

 手の力が徐々に強まる。このままでは顎を砕かれてしまう。どうすれば。

 ふと、右手に持っていたバッグの存在を思い出した。

 色々とインパクトの強い出来事が立て続けに起きたのであまり意識していなかったが、部室に引きずり込まれた時に落としていなければ。

「んっ、んー!」

 右手を伸ばすと、そこには確かにいつもの感触があった。ビニール製で、爪で掻くとシャリシャリと音がする。バッグを指差し、先輩を見た。

「あん? バッグがどうした?」

「ん!」

「……中に何か入ってんのか?」

「ん! ん!」

 コクコクと首を上下に振る。

「取り出してみろ」

 口から先輩の手が離れた。

 逃げるなら今だ! と、思うと同時、ドォンと先輩の手が後ろの扉を突いた。

「逃げるなら今だ、なんて思ってないよな?」

「ははは、まさか」

 まさかの壁ドォンに心臓がキュッとなった。

 この人、僕の退路を断つことに余念がない。

「証拠になる、か、どうか自信はないですが」

 鞄のチャックを開け、黒色のノートパソコンを取り出した。ノートとはいえ古い型のせいか厚みがあり、やや重い。それを開いて、電源ボタンをポチした。

「……」

 起動の最中、これが何の証拠になるんだ、とか色々言われるかと思い先輩の方をチラリと盗み見た。しかし、意外なことに先輩は何の茶々を入れることなく興味深そうに画面を見ていた。

 まるで、早く起動が終われと念じているようで。

「もうちょっとで」

 起動画面からデスクトップ画面に切り替わった。 購入後も何ら設定はしておらず、青色を基調とした、メーカーのロゴが表示された画面。その右上あたりにある『部活用』と名前のフォルダをダブルクリックした。

「ほう」

 先輩の目付きが変わった。三角から丸へ。目蓋が少し上がり、なのに眼光の鋭さは一層増したような気がした。

「まだ途中ですけど」

 画面に広がる活字の群。でもそれは、見方によっては拙い語彙力の塊かもしれない。物語を動かす力なんてないかもしれない。

「小説か」

「そんな立派なものではありません。今は、まだ」

 自信の無さを裏打ちするかのように、語尾は自然と小さくなった。

 物語はまだ転んでおらず、結びには遠く及ばない。でも、先輩はどこか楽しげに微笑んだ。

「作家の卵か。好きだよ、そういうの」

 先輩のその呟きは、今もなお耳に残っている。

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