第9話 『名前で呼ばれる』
昨日男子として女子にされて嬉しいこと『料理してくれる』と『お家デート』の練習をしてから、
目を合わせると、どうしてもあの時のことを思い出してしまうからだ。
あと少しで、キスしそうだったんだもんな……。
今後好きな人も彼女も作るつもりはないが、俺はいずれ誰かとそのようなことをする日が来るのだろうか。
もし来るのだとしたら、俺は…………。
昨日のことを思い出しながらも頭を横に振り、もう考えないようにしようと心に決める。
すると勢いよく教室のドアが開き、部活の朝練をしていたにもかかわらず元気な様子の
「おっすー!
「おはよう、明沙陽。生きてるに決まってんだろ。朝からなに変なこと言ってんだよ」
「いや、だってお前死んだ魚のような顔してんだもん」
「酷い言われようだな……」
「俺は心配なんだよ。親友が恋愛のせいで辛くなってんじゃないかってな」
「恋愛なんてしてねぇよ」
朝っぱらから変なことを言われたと思えば、どうして俺が恋愛をしていることになってるんだよ。
最近になって明沙陽には「女か?」とか色々詮索されるようになったが、俺は明沙陽のことを好きな胡桃沢の恋愛相談に乗っているだけだ。
別に胡桃沢に対して恋愛感情なんて持ってないし、これから抱くはずもない。
「本当かー? 怪しいぞー?」
「黙れ。まじでなんもねぇから」
「ははーん? 親友の俺にはお見通しだけど、まあ頑張れよ」
なにがお見通しだ。明沙陽の思ってることとは真逆だってのに。
結局ただ茶化されただけで明沙陽は自席に向かうが、俺は明沙陽に茶化し返す気力がないためやられっぱなしで朝のショートホームルームを迎えたのだった。
放課後、俺はやる気が出なかったため部活を休むことに決めた。
普段から休むことが少ないため先輩たちや顧問の先生には心配されたが、サボりと言われても仕方のない理由で休んだため罪悪感を覚えてしまう。
今日は胡桃沢とは一度も話しておらず、少し寂しいように思えた一日だった。もしかしたら、それも原因の一つかもしれない。
「はぁ……」
さすがにこの後に胡桃沢と練習をするとは思えないため、俺は颯爽と家に帰ることにし下駄箱へ向かった。
靴を履き替え、いつもとは違って校門にまっすぐ向かう。
すると、後ろから慌てた様子で地面を蹴って近づいてくる誰かに呼び止められた。
「
肩下まで伸びた綺麗な栗色の髪を揺らし、そう聞いてきたのは胡桃沢だ。
「休んだ」
「……え、なんで!?」
「やる気が出なかったんだよ。それだけ」
俺は正直に理由を話すと、胡桃沢は有り得ないと言いたげな顔でこちらを凝視してくる。
胡桃沢と目が合うと昨日のことを思い出してしまい、少し恥ずかしくなってきた。
それでも恥ずかしがっていると悟られないように、俺も胡桃沢を凝視し続ける。
「ほんとかなぁ?」
「本当だって」
「じゃあ、もしかして今日は練習付き合ってくれない?」
寂しそうな顔でこちらを見てくる胡桃沢。
正直練習に付き合うのもまともにできる気がしないし、断ろうと思ったんだが……。
「それは違うだろ」
なぜか思っていたこととは別の答えが口に出てしまう。
完全に無意識で、自分でも予想外だった。
「……え?」
「い、いや違う! なんでもない! 帰る!」
さすがに自分でも訳が分からず混乱してしまい颯爽と逃げることに決めるが、胡桃沢に進路を塞がれた上に両手を広げられて逃げることができない。
「待って!」
「……なんだよ」
「しようよ……練習」
制服の袖を掴まれ、俯きながらお願いしてきた。
強引に逃げることはもちろんできるが、さすがにこの状況ではしようと思えない。
「……うん、わかった」
胡桃沢と練習をするのが嫌なわけではない。
ただ目を合わせるだけでも恥ずかしくて、昨日のことを思い出してしまって練習になるかわからないと思っただけだ。
俺は頬をポリポリと掻きながら承諾の意を示し、いつも練習場所として使っていたカフェに向かったのだった。
「あまり時間経ってないけど、懐かしく感じるねーこのカフェ」
「そうだな……最後にここ来てから三日くらいか?」
「うん。もう私たちの家みたい」
「さすがにそれはないだろ」
「えー! 思わない?」
「思わない」
なんで!? と驚かれるが、このカフェに来たのは今日で四回目くらいだ。
それでどうして家のように思えるのかが不思議でたまらない。
「まあ、いいや。早速始めようか」
「おう」
今日は男子として女子にされて嬉しいこと『名前で呼ばれる』の練習をしたいらしい。
何度も言うが、こういうのは絶対練習なんていらないと思う。
「飛鳥馬くんはやっぱり京也くんって呼ばれた方が嬉しいの?」
「んー、そうだな。俺は名前の方が嬉しいかな。てか胡桃沢、お前もう明沙陽のこと名前で呼んでんじゃん」
「いいのいいの。今は京也くんが男の子として嬉しいことを試してるだけだから」
「早速名前……」
「あ、もしかして
ニヤニヤしながら茶化してくる胡桃沢。
忘れもしない四日前。
男子として女子にされて嬉しいこと『甘えられる』の練習をした時、胡桃沢が甘い声でそう呼んだのだ。
あの時はあまりの破壊力に動揺を隠せなかったが、今回はそうはいかない。
「……いや、名前の方がいいかな」
「うっそだぁ〜? 絶対京くんって呼ばれた方が嬉しいでしょ?」
「……それはない」
「京くん京くん京くん京くん京くん京くん京くん――」
「や、やめろぉぉぉおおお!!!」
「どう? 嬉しかった?」
「…………はい。なのでやめてくださいお願いします」
「じゃあこれから飛鳥馬くんのことは京くんって呼ぶね」
「やめてってお願いしたのに!?」
このままやられっぱなしで終われるか?
……否。絶対に終われない!
「……
「…………え?」
「お前が止めないなら、俺もこれから胡桃沢のこと実莉って呼ぶぞ」
「…………じゃん」
「……ん?」
「…………急に名前呼びなんて、ずるいじゃん」
頬だけでなく耳まで赤くする胡桃沢。
ここまで照れられるとは思わなかったため、俺も動揺してしまう。
そしてお互いの名前呼びは、満場一致でとりあえず保留にすることが決まったのだった。
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