第2話 過去の話
午後3時半ごろ、俺はじいさんのいる老人ホームへやってきた。入口にある受付で自分の名前と用事を伝えると、先に電話していたこともあってすんなりなかに入れてもらえた。なかにあるちょっとしたカフェテラスでじいさんを待っていると、じいさんは介護士のおにいさんに腕をひかれながらよろよろとやってきた。
介護士のおにいさんは俺に挨拶をしたあとじいさんにお孫さんがきてくれてよかったですねー、と声をかける。そして俺とじいさんに冷たい麦茶を入れてその場から離れていった。
「じいさん、ここでの生活はどうだ? ゆっくり過ごせているか」
「ああ、ゆっくり過ごせているよ。……ところで元吉、今日はどうしたんだ」
「俺は元希だよじいさん。元吉は父さんのことだろう。俺は孫の元希」
「そうだったなあ。元希、元希は元気にしているか、また野球をしてそこらへん怪我をしているんじゃないか」
また始まった。じいさんのなかでは俺は父さんの元吉で、元希はまだ小学生くらいの野球少年のままらしい。たまに調子がいいときは俺を元希だと認識してくれるんだけれど、今日はダメな日のようだ。
最初は困惑したけれど、いまでは悲しいことにすっかり慣れてしまった。俺はじいさんに話をふるがまともに会話が成立しないまま時が過ぎていく。まあボケてはいるものの顔色はいいし元気そうだから良しとしよう。そんなことを考えているとふっとあの肖像画のことを思い出し、ダメもとでじいさんに聞いてみた。
「なあじいさん、あんたの家にあった紫色の風呂敷に包まれた肖像画、あれってなんなんだ?」
「肖像画?」
じいさんはいままでどこかふわふわとした話し方をしていたのに、急に地に足のついたような声をだした。なんだ、あの肖像画はそんなにじいさんにとって大切なものだったのか?
「あの肖像画はわしが自分で描いたんだ」
「じいさんが自分で!?」
驚いた、あんなに綺麗な絵がじいさんに描けるだなんていままで知りもしなかった。しかしじいさんが描いたとなると、もしかして若いころのばあさんの絵だったとか? 俺は気になりじいさんに肖像画について詳しく聞いてみることにした。
「あの綺麗な女の人って誰なんだ? もしかして秋子ばあさん?」
「いいや、あそこに描かれたのは秋子さんじゃない。わしには秋子さんと出会う前にお付き合いをしていた女性がいてな、桜さんという名前にふさわしい花のような女性だった」
じいさんはふっと暗い顔をして左腕に着けた古ぼけた腕時計を触りながらこう続けた。
「わしたちは愛し合っておった。しかし桜さんは突然流行り病で亡くなってしまってな。わしは悲しくて悲しくて……。桜さんがくれたこの腕時計にすがりながら死んだように生きていた。そんな時わしを支えてくれたのが秋子さんだったんだ。その後わしは秋子さんと結婚して幸せに暮らしていたよ」
「そうだったのか」
二人にそんな馴れ初めがあったなんて知らなかったな。ばあさんは昔から献身的な人だったし、悲しんでいる爺さんのことが放っておけなかったんだろう。そんなことを考えていると、じいさんはなにやら顔色を悪くしながら震えていた。
「おいじいさん大丈夫かよ。なにか羽織るものを……」
「あの肖像画がこっちを見てくるんだ」
俺の言葉を遮りじいさんはそう呟いた。見てくる? 何を言っているんだ、またボケ始めてきたのか?
「秋子さんと結婚したあたりから桜さんが、あの肖像画が恨めしそうにこちらを見てくるんだ。そして毎夜毎夜夢にでてこう言うんだ。こっちへこい、一緒にしあわせになろうと」
グラスに入った氷がカランとなるのがわかるほどあたりは静かだった。いや、ここは老人ホームであたりは介護士さんたちや入居者の声であふれているはずなのに、ここだけが空間が切り離されたかのように静かだった。
「だからわしは神社の神主に頼んでもらった風呂敷に包んで奥の方にしまったんだ。それが、なんで。桜さん、桜さん、あなたはまだわしを……、違う、違う違う違う違う違う違う! 裏切ったわけじゃない!! 違うんだ」
「どうされたんですか!?」
いつもは穏やかで落ち着いたじいさんが突然発狂し、俺はどうすればいいかわからず固まっていると異変に気付いた先ほどの介護士のおにいさんが駆け付けてくれた。そしてじいさんを落ち着かせようとするが、なかなか落ち着かない。
周りにいたほかの介護士らしき人たちも何人か集まり、とにかく俺は退席するようにいわれ、じいさんは一旦保健室に連れていかれることになった。俺は介護士の方にじいさんのこと頼み、車へを戻った。
正直あの様子は尋常じゃない、いったいどうしたっていうんだ。そう考えながら車に乗ると、後部座席に置かれた例の肖像画が目に入った。
「普通の肖像画、だよな」
改めて肖像画を見るが、特に何の変哲もない綺麗な肖像画だ。しかしじいさんの話を聞いた後だとどうにも気味が悪いような気がする。しかしまたじいさんの家まで戻ると帰りが遅くなるため今夜一晩は俺の家に持ち帰ることにしよう。
そして明日にでもじいさんの家にいって返しに行けばいいさ。そんな風に考えたことを、俺は一生後悔することになる。
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