十四、*暴力、政治・宗教的表現を含みます

 薔薇で満たされたしとねに、その女は横たわっていた。燭台の眩い光が、女の修道服を澄んだ輝きに染めている。本来棺が置かれるところへ剥き出しにされた、その神々しいさまに感嘆する刹那も無く、フェリシスは女の傍らに蹲っている影に駆け寄った。伏せられた癖毛を冷たい頬を撫ぜ、名を繰り返す。眼帯に覆われていない側の瞳がゆっくりと持ち上がり、眩しさに目を細めるようにこちらを見た。


「クロード!」


 正気が差し込むと、途端にフェリシスの手を払い除け、立ち上がる。しかし今度こそは、フェリシスも気取られなかった。後ずさった体躯を追い、外套の裾を掴み跪く。


「許可を、貴方に触れることを許して下さい、クロード」


 屈んだ肩越しにクロードの見下ろす視線を感じて、全身が戦慄く。黒の外套からは血の臭いがする。


「……神の膝元で」


 クロードの冷厳な声が降ってくる。鎖に繋がれたときの感触が戻ってきて、フェリシスは呻きを吐いた。


「この期に及んで罪など恐れません。畏ろしいのは貴方です」


 クロードは嘲笑したようだった。杖を無くしたのか、片方より幾らか痩せた踵が、僅かに床を擦って退こうとする。


「何がだ。こんな女の何がおそろしい。人殺しの技術か?組織か?それとも火薬か」

「貴方の強さが、弱さが、世界と共に貴方自身を切り裂くことです」


 人は愚かな存在です。利権のために栄誉のために保身のために、同じ人間を貶める。それでも、善くなろうとしているのです。社会を変えようとしているのです。俺は拙いものですが、そのために差し出せるなら何だって構いません。けれど今はそんな献身も揺らぐほど、貴方だけのものになりたい。貴方は許してくれますまい。


「……鍵は、マリーが持っている」


 低く震えを隠した声が、傍らに視線を促す。フェリシスはクロードの表情を窺わないまま、これまでの遣り取りにも微動だにしない女を返り見て、息を呑んだ。眠っているのではない、彼女は仮面を被っているのだ。白い白い可憐な、まだ女性にもなりきれていない、少女のような素顔を模したそれ。フェリシスは薔薇を分けて、彼女の額に触れた。ベールの縁を丁寧に辿ると、頭髪も縫い付けられているものだと分かる。その下は、思い至ってフェリシスは怖気に手を引いた。クロードは膝を折って祈るように彼女の首元に指を滑らせ、チェーンに括り付けられた鍵を持ち上げた。


「彼女が、“マリー“ですか」


 酷く潰れた声でフェリシスは尋ねた。訊きたくはなかったが、クロードのことは知らねばならないと思った。濡れたような片方の瞳を覗き込もうとするが、避けられる。


「そうだ、私の……マリー」


 啜り哭くように呟く。愛おしい言葉のはずが、クロードから光を奪っていく。死者の影が、クロードを優しく抱く。


「街の者たちは、“マリー“が生きているように言っていましたが」

「女が狂って人を殺せば皆、マリーのしたことなのさ。誰も知らない。それでいい」

「アンブロワーズの娘だと……」

「あんな男でも好いた女がいた。その娘は修道院に預けられていた」


 そして、親も分からない私を受け入れてくれた。マリーは私たちの聖母だった。フェリシスはもう一度、清純な乙女の、仮そめにまどろむ瞳を見つめた。ああ、と切なく声が漏れそうになる。蝋燭の光に滲んで、何者でもなく何者にも似た、彼女は俺のエレーヌだ。誰からも見捨てられ、墓標に何も書いてやることができず、フェリシスは変わり果てた亡骸を埋めた。何故、こんな世の中じゃなかったら、愛されるはずの人だったのに。


「……凶作が続いて暴動が止まなかった年に」


 クロードは、子どもが甘えるようにマリーの肩越しに横顔を埋め、薔薇を喰んでうっとりと言う。もうおかしくなってしまったのかもしれない。真っ黒な瞳は何も映していないようだった。


「私たちの村は襲われた。火を掛けられて、女は暴行されて殺された」


 マリーは最後まで私を守ろうとした。そして私の目の前で、こんな姿にされてしまった。アンブロワーズが焼け跡からマリーと私を探し出したとき、私だけまだ息があった。立ち上がる力も無く、フェリシスはガラスのように透けた指先を伸ばし、クロードの眼帯を解いた。火傷で歪んだ皮膚、暴行で砕けた脚、身体中に刻まれた傷跡。春をひさぐこともできなくなった女が、火を売るようになった。


「何人も殺した。そうとしか生きられなかった。それ以外に何の使いようがある」


 ウィジェーヌの父も母も、あの女も裏切った思い人も、“ヴィペール“を忌み嫌う人々も、法無き掟に背くものも、パリを取り巻く国王軍も。それが人の面を持つことなど顧みず、耳を塞ぎ、かの名を騙って断罪する。


「あれほど呪ったのに、今や神の下僕の真似事だ」


 ひっそり暮らしていただけなのに。人目を避けるような生き方が、猜疑を煽ったのかもしれない。他所からの流れ者も集まっていたから、公安の不快も買っていただろう。飢えと狂気は、生け贄を求めた。それまで同じただの村人が、『神』と『自由・平等の名の下に』同じただの人間を嬲り殺す。フェリシスは、散らばる薔薇の花弁に溺れそうになった。絶望に突かれて沈み、理性を支えていることができない。


「伝える言葉が異なるだけで」


 ただユグノーであっただけで、この国に生きることは許されない。神に別があろうものか?人に別があろうものか?フェリシスは、クロードの胸元に縋って泣いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る