十三、
サン=ジュヌヴィエーヴの丘には、無秩序に建てられた家々がひしめき合っているが、その頂付近は、ぽっかりと闇に沈んでいるように見える。パリの守護聖人、サン=ジュヌヴィエーヴを祀る教会の建設を、ルイ十五世が命じたのは1755年のことである。それから何度も設計の変更や資金問題で中断・延期し、今だに完成されていない。パリの騒乱が激しくなるにつれ業者たちも散り散りになり、建設現場には人が寄り付かなくなっていた。
迷路のように入り組んだ小道をミミに付いて進む。住人は皆、室内で息を潜めているようだった。この状況では無理もなかろうが、界下のざわめきが幻のような異様な静かさだ。天堂に近いからか、それとも地獄かな、とフェリシスは考える。路地が開けて、無造作に置かれた建材に足を取られそうになった。ランプを持ってこなかったために視界が悪いが、歩いてきた方角からしても、けぶって先の見えない壁にしても、フェリシスは平伏すように暗い天を仰ぐ。
「パンテオン…」
決して完成されないサン=ジュヌヴィエーヴ教会、外観から、イタリアのパンテオンになぞらえてそう呼ばれる建物は、放置された組み足場で地上に縫い付けられているガリヴァー(巨人)のようだ。得体の知れない重量で押さえつけられ、息苦しくなる。
「ミミ!」
相変わらず気配もなく、影から滲み出すように長身を現した男に咄嗟に目をやって、フェリシスは嗚咽を飲み込んだ。両肩から下ぐっしょりと鮮血に塗れて、ナメクジように紅い跡をつけながら這いずるように近付いてくる。だらりと垂れた腕に掴まれているのは、新月を鈍く返す、子どもの大きさほどはある肉切り包丁だ。先刻の惨殺はこの男の仕業だろう。ギイ。フェリシスは吐き気を堪えて、ひょろ長い四肢に呟いた。
「見張りもう飽きちゃったよ」
血みどろの口元に不釣り合いな陽気な声音でギイは言い、ミミに纏わりつく。普通の女性なら一目で卒倒しそうな風体で絡まれても、ミミは軽く笑って受け流す。
「クロードは?」
「下だよ。フェリシス一人で来いってさ」
ふうん、とミミは意味ありげな流し目をフェリシスにくれた。袖を捲り上げた白い腕が滑るように動き、闇夜に映える。ギイが自慢するだけはある、良い女なのだろうな、とフェリシスは場違いな感想を浮かべた。
「いつもは上での受け渡しなのにね」
「マリーがいるからじゃない?運ぶの大変だったよ」
もうさあ、スープの出汁にでもしちゃえばいいのにね。ギイがブツクサ言うのを横目に、ミミは建物へ歩み寄ると、嵌め込まれた鉄格子門を引っ張った。軋んで開かれたその足元には、地下へと続く暗い階段が口を開けている。
「クリプト(地下聖堂)だよ。クロードはその先にいる」
壁に掛けられたランプに火を入れ、フェリシスに渡しながらミミは言う。出てくるまでには運搬用の人手と車を用意しておく。灯されたランプに半身を照らされたミミとギイは、まるで悪魔に作られた一対の土人形のように、無慈悲で儚く見えた。受け取って頷き礼を言うと、フェリシスは階段に向かって踵を返す。ここは地獄の入り口なのだ。しかしどんな苦悶に感傷に晒されようと、今フェリシスの心を占めているのは、革命の火に架けられた、ただ一人であったのだ。
白の漆喰で塗りこめられたクリプトの通路を、あてどなく進む。手持ちランプの光は、遠くまで届かない。設計図の写しなどあろうはずもないし、この多数の遺体安置室が並ぶ入り組んだ構造は、確かに密造火薬を貯蔵するのに都合が良いだろう。逸る足音が反響して、死人が啜り泣く声のように聞こえる。冷えた空気が首元を撫ぜる。人ではならざる者たちの意思が透明に沈殿している。その中に微かに、薔薇の香りがした。
あの部屋の薔薇だ。フェリシスは、眠りを妨げないよう気を付けつつ、匂いを辿る。やがて、瞬くような光の漏れ出す一室が目に入った。心臓が凍えているのか焼けているのか分からない。震えそうになる脚を叱咤して歩を進め、壁に手を掛け、その名を呼んだ。
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