十二、
黒くぬめる石畳を蹴って走れば、幾つもの影がぐるぐると回る。道の角々には焚火が設けられ、男も女もその傍らでうずくまっているか、泣き枯れた吐息に怒り肩でうろついている。呼応は草原に放たれた火のように広まった。市民よ武器を取れ、とデムーランがパレ・ロワイヤルで声を上げたのは、何も情に圧されてのことだけではない。その時にはもう、ロベスピエールたちによってパリ市民委員会の立ち上げが決められており、“ヴィペール“からは暗に人員とバリケードの配置、補給について伝えられていたのだ。王の軍が鎮圧のために動けば、防衛にも人手を割かなければならないが、一般人を兵力として扱うのは難しい。日常的に権威と抗争を繰り返している不法者たちのほうが、暴力の使い方をよく知っている。
最早押し留めることはできず、流れをいかに犠牲の少なく効果的に組織するか、という段階である。こちらは圧倒的に不利なのだ。ルイ十五世広場では、竜騎兵隊が詰め寄る市民に発砲し、フェリシスはフレロンと共に両者の説得と引き離しに向かった。フレロンは軽口で、人を嗾けるのが得意なのかと思っていたが、実のところ巧みに修辞と諧謔を交えて、双方思い通りにしてしまう。開けっ広げのため信頼はされるが、指導者としての魅力に乏しいフェリシスが感心していると、フレロンはおどけて肩を竦めて見せた。まあ、その場その場ではどうにかなるが、俺にはカミーユのように大勢の心をまとめて動かすことはできんのでな。マックスは堅物過ぎるしなあ。どうやらこの三人は、単なる悪友でもなく役割分担がよくできているらしい。避難誘導と怪我人の収容に当たっていたフェリシスは、新しい黒煙が巻き上がるのを眺めてぞっとした。全く予測がつかず衝突が起こる。もしかしたら国王軍がこちら側の揺さぶりと各個撃破のために、策動しているかもしれなかった。戻ってきた斥候の伝言を聞いてフレロンが舌打ちする。
「“ヴィペール”を受け入れない奴らが、同士討ちしやがった」
闇取引を牛耳る“ヴィペール(毒蛇)”は、金と暴力で弱者を統率している。それが前面に立つことに、倫理的に承服できない者と、個人的な恨みを持つ者が反発した。結果、粛清されたらしい。
「“マリー”が派手にぶちまけた。これで“ヴィペール”は動き易くなったろうがな」
胸の焼印が引き攣れる。“マリー”、確か別れ際にクロードを気色立たせた名もマリーでなかったか。フェリシスはひび割れた喉から尋ねた。フレロンは、瞬時言い淀む。
「その、“マリー“というのは……」
「アンブロワーズの娘だとも言われてるがな。手練れの暗殺者だ」
俺も商売女たちから聞いたことがあるだけで、本性は分からん。フレロンは憐憫を滲ませながらも、関わりあいになりたくないように吐き捨てた。フェリシスが現場へ向かうと、そこは血の海だった。遺体は動脈を刃物で削がれ、または銃器で抉られ、血溜まりに伏している。遠巻きに見ている人々の顔は恐怖に青褪めているか、興奮に煮えている。見せしめだ。だがフェリシスを戦慄させたのは、吐き気を催すような鮮血の臭気ではなく、そこがあの、クロードのアパートであったことだった。建物にかけられた火は消防隊が鎮火したが、半壊し真っ黒に炭化した部屋に、人の気配を探そうとして、フェリシスは目を逸らした。クロードは必ず生きている。契約は必ず守られる。けれど、どうして今、貴方に触れたいなどと思うのだろう。
「あんた、フェリシスかい」
いつの間にか、赤い髪の女が傍らに立っていた。遺体を運び、瓦礫を片付けていたフェリシスは、麻痺したような視線で振り返る。
「あたしは代理だよ。受け渡し場所まで案内する」
日が沈みかけていることに気が付かなかった。フェリシスは女を改めて見つめる。古くくたびれてはいるが、よく洗ってあるだろうドレスに、ボンネットで纏めた赤い縮れ髪。肌は青いほど白じんでいるが、細い指先はあかぎれて染まっているようだった。
「あたしはミミ。ついてきな」
ウィジェーヌに後を頼み、踵を返したミミに続く。どこにでもいそうな下町の女かと思えば、裾を乱して走っているわけでもないのに、旋風のように動きが速い。うっかりとすると姿を見失うので、フェリシスは駆け出した。焚き火の影を飛び渡るように進む女は、そうだ、ギイの奥方だった、とフェリシスは思い出す。しかし問いを発することは叶わなかった。
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