十一、
パレ・ロワイヤルのパッサージュ(アーケイド)も庭もごった返している。自分の手を引いて人波を掻き分け進むフェリシスの背を、ウィジェーヌは盗み見た。日が高くなり、蠢く人肌から臭気と熱気が立ち上がる。しかしフェリシスの眉間の険が深まるばかりなのは、最早ここにいる誰のせいでもなく、火薬売りただ一人のためであることを、ウィジェーヌは感づいていた。
「カミーユ!」
一際人だかりの大きいカフェの窓辺から、押し合いへし合いして中を覗き込んでいる男たちに割り込むようにしてフェリシスは目的の人物の名を呼ぶ。なしのつぶてだ、この騒ぎの中で声が届く訳も無い。大分頭に血が上っているな、とウィジェーヌは無礼を巡って口論を始めた男たちに呆れながら周りを見渡す。口汚い応酬のなかでも腕はしっかりとフェリシスに掴まれているので、動けない。フェリシスはどうやら、クロードとミシェルに対して、ウィジェーヌを保護する責任を負っているように思っているらしかった。逆である。この賢いが隙の多過ぎる青年に、便宜を図ってやるのが、ウィジェーヌの役目だ。人々が道を開けた先を目で追うと、ドレスを軽くはためかせ、女性が一人こちらへやってくるのが見えた。
「マドモアゼル・デュプレシ」
「まあウィジェーヌ、勇敢なのはよいけれど」
声を掛ければこちらに気付いて近寄ってくる。男たちもさすがに口を噤んだ。明るい巻き毛の色に、少し丸顔だが可愛らしく上品な振る舞いは、この場に不釣り合いのような育ちの良さを思わせる。フェリシスは、ウィジェーヌとその女性が知り合いであることに些か驚いて、思わず手を離してしまった。割れた人垣の合間から見知った顔二人を見付けたデムーランが、室内から駆け出してくる。
「リュシル、ウィジェーヌ、やあ、フェリシスも」
フェリシスは何度かカミーユの主催している『自由フランス』へ寄稿しており、直接話しもしたことがあったが、特別親しいというわけではない。なので、あちらが自分の顔と名前を覚えていたことは意外だった。カフェの店内へ促されると、壁際のテーブルに二人の男が腰掛けて話し込んでいた。古いコートをきっちりと身にまとい、骨張った骨格に鋭い眼光のマクシミリアン・ロベスピエールと、鮮やかなシャツを着崩し、うりざね顔に鼻筋の通ったルイ=マリ・フレロンである。カミーユと二人はルイ・ル・グラン学院の同窓生でよくつるんでおり、しかしフェリシスには苦手な相手だった。
「同志かい、君は?」
フェリシスを認め、立ち上がりロベスピエールが手を差し出す。厚みが有りペンだこで硬くなったその手を、名乗って握り返しながら、フェリシスはまた湧き上がってくる嫉妬と卑屈を噛み殺した。有能で清廉、弁も立ち熱烈な支持者に囲まれているロベスピエールは、フェリシスにとって理想の男に近く、しかし追いつくことができない。
「おう、知ってるぞ。女たちが噂していたな、色男」
フレロンは椅子の背に寄り掛かり、ワインを呷りながら言う。既に評論家として名が通り、華やかな噂の絶えないフレロンは、フェリシスにとって関わりあいになりたくない類いの人間だ。いつも社交の中心におり、人の繋がりを利用することが上手く、あらゆる筋から情報を収集することができる。新聞記者にとっては目の上のタンコブである。
「か、彼は市場や技術に詳しいんだ」
デムーランは紅潮した頬で言う。何事にも誠意を尽くそうとするところをフェリシスは尊敬していたし、きっと彼女-身分違いの恋は巷で好まれるゴシップである-高級官僚の息女で教養高いリュシル・デュプレシも同じなのだろう。フェリシスは胸の奥にざりりと熱気が過ぎたような感覚を覚えた。今思い出したくはないのに影がチラついてしょうがない。クロード。振り切るためにフェリシスは目を上げる。
「行動に出るつもりですか」
喉の奥で笑うようにフレロンが答える。
「自己防衛だろう、王が軍を向けて、議会を潰そうとしている」
「我々は古い秩序を変えねばならん。そのためには恐らく“力”が要る」
神経質そうに腕を組み、ロベスピエールが続けた。広い額は歪められ、薄っすらと汗で湿っている様子を、フェリシスは見詰める。
「“ヴィペール”から連絡が有りましたか?」
ウィジェーヌの問いに、デムーランは少し辛そうな笑顔をつくった。
「ああ、武器を使える者を前面に出してくれるそうだ」
闇取引のネットワークが、いつの間にか随分組織化されたものだ。フレロンが皮肉と自嘲を込めて言う。だが、肝心の武器と火薬が手元に無い。
「既に廃兵院(アンヴェリット)へ向かっている者たちがいる」
止めることはできんが、芳しい状況でもない。充分な人数でなければ無駄な犠牲だろう。こちらが有利な条件は、大衆(マス)であるということだけだ。ロベスピエールの低い声は苦悩に揺れている。この場にいる大勢を巻き込んで決起すべきか、先行した者たちを助けに行くべきか、武器をどう確保するのか、男の中では今嵐が唸っているのだ。フェリシスは一歩、荒れ狂う虚無へ踏み出した。
「火薬ならここに。バスティーユを陥すくらいにはなるでしょう」
人々の目が一斉にこちらを向く。どの瞳もじりじりと火を宿しているようだ。熱い、熱い、熱い、もう耐えられない。この火を解放してくれ、この怒りで嘆きで世界を変えることができるならば。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます