十、

 大気がざわざわと震えている。フェリシスはクロードの視線の先を辿った。木々と牧草地の向こうから、行軍の気配を感じる。パリは既に恐慌の渦中だろう、フランス衛兵隊ばかりでない、スイス人連隊、ドイツ騎兵連隊までが招集されていると言う。自国民に対して仰々しいことだ。執政者であるならば、議論と政策で守るべきであろう相手を、威嚇しようとは。初夏の空を映して琥珀に瞬く地平に、パリの新城壁(フェルミエー・ジェネロー、徴税請負人たちの城壁)が見えてくる。と、前方から重い蹄の音が駆け上ってきて、フェリシスは身構えた。


「間に合った。やれやれだなあ、おい」


 興奮気味の馬を馴らしつつ、目の前に憚ったのはブレーズだ。短躯だが強靭な上腕と、筋肉が歪に盛り上がった背には長柄の得物を担いでいる。白いものが混じり始めているこわそうな無精髭をわしりと掻き、クロードとウィジェーヌを庇うように馬体を乗り出したフェリシスを、酒に焼けた目でしげしげと見た。


「ま、死んでねえなら何よりだ。とっとと入城してくれ」


 守衛所もロタンダ(徴税所)もめちゃくちゃだ。市場裏の小門を開けておくよう頼んだが、時間の問題だろう。馬の首を巡らしまた駆け出すブレーズに、クロードとフェリシスとウィジェーヌが続く。大分遠回りになる畝の道を抜け、掘立て小屋が壁に寄り掛かるようにしてまばらに建つ間に分け入ると、鉄格子の門を取ってつけただけの通路が現れた。門の錠前は外されている。のではなく、引き千切られていた。皮膚の厚い太い指先で触れてブレーズは舌打ちをする。


「貧乏人が出てったって、怪我するだけだって言ったのによ」


 恐らく掘立て小屋の住人たちの仕業だろう。ここが市場裏の門であるならば、彼らは売れ残りや廃品を得て暮らす者たちだ。腐敗した汚水の澱んだ通路を通ると、市場の倉庫脇に出る。ストールに売り物は何も無い。表通りを怯えた目で足速に通り過ぎる者と、殺気立ってそれを押し除ける者。


「デムーランの奴が、パレ・ロワイヤルに人を集めてやがる」


 肌を刺す不穏な空気に目を見張っていたフェリシスは、ブレーズの言葉に我に返った。カミーユ・デムーラン。弁護士にして記者、『自由フランス』の発行人で、体制変革を先導するグループの一人だ。彼らならば、苦悶と憤怒に疲弊した大衆をも組織化できるかもしれない。だが。


「契約分の受け渡しは、サン=ジュヌヴィエーヴで今夜」


 凍った刃のような声がフェリシスの耳朶を打つ。タールのような隻眼の奥が、燃えたぎっていることをもう知っている。フェリシスはクロードに振り向いた。


「お前はあちらと上手くやれ。火を無駄にするな」


 この混乱状況で、武器と火薬を、使用法を知っている者に公正に給付して、前衛に配置する、ということは至難の技だ。デムーランたちと合流して、一刻も早く作戦を立てなくてはならないだろう。国王軍の到着も直ぐだ。しかしフェリシスは逡巡する。


「クロード、女たちが揉めている」


 セーヌに向かって進んでいると、もう一騎駆け寄ってきた。アンブロワーズの館で会った、あの少年だ。チャコールの髪に緑のスカーフを巻き、腰には鉈を佩いている。背後でウィジェーヌが、ミシェル、と名を呼び馬から飛び降りた。


「よくやった、ウィジェーヌ。お前はそのままフェリシスと行動しろ。“毒蛇(ヴィペール)“は前線に立つ」


 子供らしかぬ鋭い視線でウィジェーヌを見下ろし、それからフェリシスを睨め付ける。信用されていないのだろう、が、その胆力にフェリシスは感心する。


「待機命令を受け入れずに、先走りした者たちがいる」


 ミシェルの淡々とした、しかしよく通る声が告げたことに、クロードは頷きかけたが、刹那身を翻した。フェリシスは何が起こったのか分からなかったが、瞬時にブレーズが前に出る。振りかざしたものは、長大な柄の金槌だ。あれで殴られたら、簡単に骨の一本二本は砕けるだろうと思われる、重量も振り幅も異常な代物だった。


「鍵を出せ、悪魔!」


 割れたガラス瓶をクロードに投げつけたのは、あの娼婦だった。あの娼婦、と言ってもフェリシスは記憶にあるような気がするだけで、過去に通り過ぎた数多の娼婦たちのうち、誰だったかははっきりしない。汚れの染みて破れた裾のドレスに、振り乱した髪、汗で崩れた白粉、異様に赤い唇が呪詛のように捲し立てる。


「この女だよ、こいつが火薬を独り占めしてるんだ!」


 道の中央で行く手を阻み、髪を掻き毟るように、がなり立てる。クロードはブレーズを制すると、女を静かに見据えた。


「指示があるまで避難しているように決めたはずだ」

「そうやって、あの人も見殺しにしたんだ!ウィジェーヌ、あんたもだろう」


 ウィジェーヌが蒼白な悲鳴を飲み込む気配がして、フェリシスは思わず肩を引いた。女は見知らぬ男がクロードに従っていることに気が付いて嘲笑う。


「新しい情夫かい?そいつは死人と寝ている女だよ」


 ブレーズが姿勢を戻して後退し鼻を鳴らす。裏切ったのは男の方だろうがよ、と呟く。フェリシスは凪いだ夜の海のように佇むクロードを見返した。昏い歓喜が底から湧き上がる。そうだ、この執着は正しくないのだ、俺はクロードの性別も嗜虐も細切れの肉体も、そして罪深いのであろう過去も内包して、あの泥沼の中に縺れあって沈んでしまいたいとすら思っている。あの人間の、熱く爛れた灰塵を愛しているのだ。アレットがクロードに寄せる思慕や、ウィジェーヌの畏敬や、ブレーズやディオンの向ける友誼でもなく、共に燃え尽きてしまいたい。


「鍵を寄越さないと、あんたの“マリー“がどうなっても知らないよ」


 厚く塗った白粉でも隠しきれない痩けた胸元の皺を揺らし、女は狂乱して笑う。一呼吸も吐かず、石火の如くクロードは駆け出した。ブレーズも手綱を引くが、呆然としているフェリシスにやれやれと捨て台詞を吐く。


「お前はパレ・ロワイヤルだ。契約は必ず守られる」


 パリの喧騒はますます大きくなっていたが、フェリシスはただ黒に心奪われて、再び痛み出した肋骨を握って懺悔した。

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