第三章 白と黒

九、

 星々が流れていく。天辺が朝日を映して鉛色にけぶる。フェリシスは先を駆けるクロードのコートが風を孕んではためくさまを見ながら、遅れてついてくるウィジェーヌに気を逸らした。地平の向こうには狼煙が立つようで、心臓がきりきりと責め立てるのだが、変革の戦端に身を置きたいという思いと、手を取った人々一人一人を守りたいという感情が、酷くせめぎ合っている。ウィジェーヌはクロードを恐れているのだと思っていた。事実彼はクロードと距離を取りたがる。それでもフェリシスを心配してあの村まで来てくれた。


「少し休もうか」


 クロードが馬の足を緩めて言う。柔らかそうな黒の短髪が、こちらを振り向く。数刻前、自分を鎖に繋いで嬲った同一人物とは思えない。とはいえ、クロードもやはり、ウィジェーヌを気にかけているのだろう。あの痩せた身体で何時間も馬を駆っているのだ。木陰に馬を寄せると、ウィジェーヌが追いついてきた。フェリシスはクロードが下馬するのに手を貸そうとするが、冷ややかな視線を返される。


「紳士なのは結構だが、自己管理もすることだ」


 馬の背後から縮こまるようにこちらを伺っているウィジェーヌを脇目に、フェリシスは肩を竦める。


「好きにさせてもらいますよ、許可したのは貴方です」

「ウィジェーヌ、これをお食べ。お前もだ」


 クロードは馬に括り付けていた鞄から小包を取り出して、フェリシスに渡す。アレットの手作りだろう、保存が効くように固めに焼いたヴィジタンディーヌ(フィナンシェ)だ。ご自分でウィジェーヌに分けてあげればいいでしょう、と言ってやりたくなるが、フェリシスは受け取って踵を返した。ウィジェーヌはクロードを恐れているのだと思ったし、クロードにとってウィジェーヌは庇護し、また制御する弱者の一人に過ぎないのだと思っていた。だが、どうもウィジェーヌが本当に畏れているものは違うらしい。近付いたウィジェーヌの顔が青褪めて、息も浅くなっていることに、フェリシスは僅かに眉を顰める。


「疲れているだろう、少し食べて休んだ方がいい」

「ごめん、足手纏いで」

「君は君の仕事をしているよ。俺がウィジェーヌの歳には、そんなに器用じゃなかった」


 親の歓心も得られず、街で仲間の輪にも入れず、無能な自分に館の図書室で隠れて泣いていた。フェリシスはあの頃を思い出して、心中苦笑いする。焼き菓子をひび割れた掌にそっと乗せる。


「クロード、ごめん」


 もう片方の手を伸ばし、フェリシスの服の裾を握ったまま、ウィジェーヌはぎゅうと目を瞑って、乾涸びたような声を絞り出す。父さんのことも、母さんのことももういい、俺たち、クロードに酷いことをしてしまった。フェリシスは驚いたが、縋ってくる枯れ枝のような肩を抱いてやる。クロードは、こちらをタールのような無感情な瞳で見ていた。


「俺の父さん、を、処罰したのは、クロードなんだ」


 細く汚れた指先がぶるぶると震えている。落ち窪んだ眼窩から、今にも大粒の涙が溢れ出しそうだった。仕方無かったんだ、父さんは働き先が見つからなくて、悪い借金を作ってしまった。娼婦として街に立たなければならなかった母さんを殴って、遂に金を盗んだ。父さんがクロードに撃たれて、母さんもセーヌに跳び込んでしまった。俺はクロードが怖い、それを思い出すからだ。だけど、クロードだけが悪いんじゃない。


「フェリシス、俺があんたをクロードに会わせたのは、助けてくれると思ったからだ」


 あんたは優しい、昔の父さんと母さんみたいだ。それで何でも知っている。だから、クロードも救ってくれるだろうと思った。俺は、俺たちの罪滅ぼしがしたかった。そのために、フェリシスを利用した。クロード、あんたは気付いているんだろう?


「……私の業の深さを、分かったような振りをするな」


 倒れた古木が地中に沈んで、朽ちて石になっていく音のような声だ。固く冷たく、どんな感情も届かず静かな。ウィジェーヌの身体がびくりと震え、力無くフェリシスから手を離す。フェリシスはクロードを仰ぎ見た。今更、クロードの何を知ろうと、己れを代価にすることに否やは無い。だがどうだ、そのために貴方に会ったのに、今はその身が火薬であることが惜しい。


 朝焼けが雲を透かして天上から田畑へと降り注ぐ。美しい我々の国土。誰もが、互いを守るために闘っているはずなのに、やがて憎しみに変わってしまうのは何故なのか。弱い者同士が奪い合う、人は犠牲の上でしか生きられないのか。その汚辱を呑み込んだ影のようなもの、罪の数だけ傷を負ってなお倒れないもの。堕天のように陽の光を禍々しく染めて立つ、クロードにフェリシスは手を伸ばした。

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