八、

 ざわりざわりと天を掻く木々の合間から、ガラスを砕いたような星々が見える。遠近がよく分からず、浮遊しているように感じるのは、半分寝ているか意識が朦朧としているからだろうか。しかし身動ぎすれば繋がれた鎖が鳴って、全身がぞわりと軋む。契約を取り付けた代償に、あの強靭な脚で鳩尾を蹴り上げられ、杖で引っ叩かれた挙げ句、土蔵の門扉に鎖で繋がれ放置された。処罰は甘んじて受けなければならないだろう、クロードの怒りを買った自覚はある。だが自分の場合、ハッタリでもかまさなければ、クロードの本性に触れることは叶わない。あちらにとっては家畜と同程度の対象にすぎないのだろうが。初夏とはいえ山林の夜は肌寒いが、凍死することもあるまい。さらさらと、暗い川底の砂が光を散らすように、フェリシスは再び眠りに落ちていった。


「旦那!フェリシス!」


 呼ばれて口元に水を溢される。暖かいが細い腕が自分を抱いている。これはパリの匂いだ、と気付いてフェリシスは重い瞼を上げた。


「ウィジェーヌ?」

「あんたがここにいるって聞いて、早馬を代わって貰ったんだ」


 まず飲んで、と水筒を渡される。ふらついて視点がぼやけるが、一口二口と水を含んで、次第にウィジェーヌが心配そうに覗き込む顔が見えてきた。周りの闇が墨染めのように溶け出しているのは、夜明けが近いからかもしれない。


「鎖は外したけど……立てる?」

「有り難う。鍵はどうしたんだい」

「オレ先にクロードの館へ行ったんだよ。クロードに何したの?フェリシス」


 何をできる訳でもない、だから自分を売ったのだ。実家の金だけでなく、新聞に書くことだけでなく、俺にできることならば、この村とクロードのために何でもしよう。あの火薬を得るためにはそれでも不足であろうが、殺されなかったのだから、取りあえず保留されたのだと思いたい。クロード、乾いた血のこびりついた唇で名を辿り、立ち上がろうとするフェリシスに、ウィジェーヌは赤切れた手を伸ばして支えようとした。


「ごめんな、オレが余計なこと言ったから」


 フェリシスに肩を貸しているつもりでも、身長差と筋力差があり過ぎて、こちらがへばりついているようになりながら、ウィジェーヌはぼそりと呟いた。フェリシスは胸部と頬づらの痛みに眉をひそめたまま、目を瞬かせる。


「何を謝る、礼を言うのは俺だよ」

「…あんたが火薬を欲しいなら、そうなればいいなって思うけど、でも、オレたちのことなんて、知らない方が身のためだ」


 フェリシスが危険な目にあう必要なんてないのに、オレが引き入れた。あんたは平穏に生活していけるだけの生まれと運に恵まれているのに。フェリシスは俯いたウィジェーヌの、本来は明るい色なのであろう頭髪を撫ぜた。


「俺は結構楽しいが」


 落ち窪んだ大きな目が少し潤むように見開かれて、まだ声変わりもしていないはすっぱの声が、非難めいて途惑って答える。


「何言ってるの!?そんな怪我して」

「硝石の作り方や、誰が作っているかなんて考えたこともなかった。村の運営や、地下のビジネスや、新しい工業技術や…争いの後に、本当に役立つのは、そういうものだろう?」

「よく分かんねェけど、あんた相当オメデタイね」


 半分安心して半分呆れて、微妙に染まった頬でこちらを見上げてくる少年に、フェリシスは笑いかけたかったのだが、何分殴られた顔面が痛む。情け無く表情を歪ませるフェリシスの腕を引いて、ウィジェーヌは傍らの木に手綱を括り付けていた馬を呼ぶ。


「フェリシス、パリに帰って」


 火薬を手に入れる前に、パリへ戻る訳にはいかない。問いかけようとするフェリシスを遮って、ウィジェーヌはつかえを吐き出すように言った。


「ネッケルが罷免されたんだ。暴動が始まる。オレはそれを伝えにきた」


 しまった、早過ぎる。まだだ、国王の軍がパリを包囲する前に、火薬を運びこまなくてはならない。フェリシスは上がった鼓動に痛む胸を押さえて、ぜい、と息をついた。ウィジェーヌから手綱を受け取ると、よく鍛錬された馬の背に身を跳ねる。ウィジェーヌを抱え上げようと腕を差し出したところで、林の奥の暗い道から、酷く凶暴で魅惑的な声が響いた。


「お前の馬はこちらだよ。私も今から発つ」


 黒のコートで騎乗するクロードの背後に、もう一頭馬を引いてディオンが立っていた。そのディオンの手を握って、唇を噛み締めているようにしているのはアレットだ。ウィジェーヌはディオンに駆け寄ると、フェリシスがパリから連れてきたその馬の首を撫ぜてやり、軽く跨がる。気を付けろよ、とディオンがウィジェーヌに声をかけているところを見ると、二人は知り合いなのだ。アレットが視線を上げた。


「ご無事で、クロード様」


 震える声は情愛を含んで、木々のざわめきの間に響く。ディオンは少女の肩を抱いてやりながら、フェリシスに振り向いた。


「待ってるから、クロードを宜しく頼む」


 馬のいななきを宥めて、クロードは割れた鏡のような瞳でこちらを見下ろす。


「全て差し出すならそれらしく、役に立つことだ」


 飲み込んだ紅が、喉で焼ける。三騎は、パリに向かって駆け出した。

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