七、

 闇が優勢になりつつある道を急ぐ。クロードは相当夜目が効くらしい。ランプを掲げるフェリシスなど構いもせず、蛇が這うように道をなんなく分け入っていく。風が出てきて、雲が月を掠めては飛んでいく。葉擦れの音が波立つ。ディオンの言っていた第三工場は、村外れの川べりにあった。窓から光と話し声が漏れている。


「あれ、フェリシスも来たの」


 扉を開けてクロードを迎え入れたディオンが、機嫌良く言う。奥に何人か集まった男たちは、部外者の名を聞き咎めて眉を顰めた。しかしフェリシスは、クロードの肩越しに身を乗り出さずにはいられなかった。


「ウィルキンソンの中ぐり旋盤を動力に繋いでいるんですか?素晴らしい!」


 作業用の手袋を嵌めながら、クロードは剣呑な一瞥をフェリシスへ向ける。下がっていろ、口出しするな、という意味だろうが、壁際に寄りながら、フェリシスは並べられた工作機械に見入った。プレス、ねじ切り、研磨、どれも改良されたものだ。そしてまだ稼働してはいないが、部品の取り付け中と思われる蒸気機関。


「ヒマなら油差してくれよ、フェリシス」


 機械に触りたさそうにしているフェリシスが余程可笑しかったのか、ディオンが小布を放ってきた。フェリシスをうろうろさせれば他の男たちから睨まれるのだが、その図太さとは裏腹に、機械の細部から丁寧に清掃し、油を塗るディオンに、フェリシスは感心した。


「よくメンテナンスされているね」

「おうよ、中古機械だってピカピカにしてみせるぜ、俺は」


 そう言って機械を撫ぜるディオンは楽しそうだ。早く俺も親父たちみたいに使いこなせるようになりたい、親父たちはさ、寸分の違いなく部品を作れるんだぜ、ぴったり組み合うんだ、凄いよな。フェリシスはディオンの話を聞きながら、一台一台の刻印を盗み見る。やはり全てイングランド製だ。貴族が富を独占しているうちに、フランスの工業技術は随分立ち遅れてしまった。


「俺さ、山奥の村で生まれたんだけど、十年くらい前の寒害で作物ほとんどやられちゃってさ。納めるもの出したらすっからかんだよ。大勢死んで、みんな離散しちまって…農作物以外に何か作って売れるものがあったらよかったのに」


 爪も罅も黒ずんだ指先が、僅かに震えたように見えた。フェリシスは顔を上げて、声を掛けようとしたが、何と言ってよいか分からなかった。慰めの言葉を使う資格は無いし、気の利いた言葉は知らないし、率直に言おうとすれば、言葉にならないのだ。と、べしり、と年長の男たちの一人がディオンの後頭を叩いた。


「明日は朝から調整だ。クロードを送っていって、お前は帰って早く寝ろ」

「いやいいよ。客人がいる。みんなご苦労だったね」


 問題はとりあえず解決したようだ。機械まで触れるクロードの経歴はどういうものなのかと思う。視線で呼ばれたことに気が付いて、フェリシスはディオンに研磨剤を返すと、また明日、と言った。ディオンは若干複雑な表情をして、掌でフェリシスの頬を拭う。既に煤汚れていたが、更にべったりと油汚れが付いて、フェリシスは咎めるように鼻を鳴らし、ディオンは笑う。


「なんか弟みたいだよな、フェリシスは」

「俺の方が年上だと思うが?」

「あんたに希望がありますように」


 少しばかりの憐憫が混じったような言葉を聞き返す間もなく、扉前へ立つクロードにフェリシスは慌てて追いついた。館への道を帰るのかと思いきや、更に林の中へ進んでいく。風が枝葉をみだらに鳴らして吹きすさぶ。揺れるランプの灯に気を取られていると、雲が打ちつけ斑になった月光に、堅牢な土蔵が青く浮かび上がった。ここはどこかと問うこともままならず、クロードが重い錠前を外し、中へ入れと無言で促される。厚い戸板に押し掛かり、影よりも暗い隻眼がこちらを睨める。フェリシスは操られたように、闇の底へ足を踏み入れた。


 何も見えない。だが何かに取り囲まれているような気配がして、肌が粟立つ。心臓が警鐘を打つのに抗い、フェリシスはランプを掲げて、その奥に対面しているものを見ようとした。霜つく吐息のように薄ぼんやりと姿を現したそれに、フェリシスは声を上げそうになったが、傍らの闇から腹部を殴打され、床にのけぞった。ふいのことで受け身も取れず、頭も強かに打って立ち上がれない。殴った本人は転がったランプを拾うと、その脚でフェリシスの肩を踏みつけ、鉄の仕込まれた杖の先で、喘ぐ喉仏をゆるりとなぞった。


「こちらの条件は見せてやった」


 感情を凍らせた声が降ってくる。フェリシスは霞む視界に、その男の青白い唇が暗闇で胡蝶のように蠕くさまを探した。


「対価を」


 汚泥から火を生む人々。百とも千ともつかない銃口が今、フェリシスを覗き込んでいる。工場の機械類から、何を作っているのかは想像ができた。地獄からの呻きが問う、我々の命を、負うことができるのか。何も持たない我々の手から奪うほどの価値が、己れにあるものか。その中に、一際禍々しく燃え立つ蝕の陽が見える。


「俺の全て。足らないならば、この場で屠れ」


 殴られた時に舌を切ったのか、絞り出す声に錆が滲む。神も王もこの国を救わない。混沌を御する力は俺には無い。燃え尽きる蝋燭のように、じりじりと焼かれてもがいているだけた。だがその最後の一抹で、お前の芯薬さえ有れば、世界に業火を引き起こしてみせる。どう、と風が激しく土蔵を叩いた。フェリシスは、その隙に押さえつけられていない片腕で杖の先を掴むと、相手を引き倒したが、四肢を床に拘束する前に、頸へ針を当てられる。一体幾つ暗殺器を隠し持っているのやら、しかしフェリシスはもう構わなかった。


「契約を」

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