六、

 眠れようか、眠れる訳がない。身体は酷く疲れているはずだが、頭の中で人々の声が嵐のように唸っている。王政を倒せ、我々には自由民権が必要だ、この惨めな生活から救ってくれ、食い物を寄越せ、税を改めろ、子供を家族を助けてくれ、どうして俺が、悲しい、憎い、憎い、憎いどいつもこいつも……その中に、あの囁きが聞こえる。今まではエレーヌの朧げなつむぎ歌だったが、この夜はあの男だ。クロード。何度も焼かれて焦げ付いた精神の中核を、冷たく凶暴な指先で撫ぜられるような、惨めで美しいあの囁き。カーテンの引かれた窓辺から、微かに朝日が差し込んでくるのを眺めながら、フェリシスはやっとうとうとし始めた。


「旦那さま、お水をお持ちしました」


 ぺたり、ぺたり、と顔に何か温かいものが触れて、フェリシスは覚醒した。ベットから驚いて背を起こすと、傍らにタライを抱えた少女が立っていた。


「おはようございます」

「おはようございます。ええと、君は?」

「アレットです。お水はこちらに、軽食はあちらに」


 眩しさに目を瞬かせているフェリシスに構わず、少女はタライをサイドテーブルに置く。檜皮色の髪は少しばさばさとしているが丁寧に結えられ、頬にはほんのりと雀斑の有る十かそこらの少女だ。だが、瞳が、とフェリシスが認める前に、開け放たれた扉からもう一人青年が顔を出した。


「旦那あ、顔洗って早く来て下さいよ。クロードが荷役でもしてもらえって。働かざるもの食うべからず、だってさ」


 からからと快活に笑うのは、昨夜質問をしてきたあの青年だった。あの時間まで警邏をしていて、今もう仕事を始めているのだから、大したものだ。


「フェリシスでいいよ、君の名前は?」

「俺はディオン。ほら急いで急いで」


 放られたパンに挟まれたチーズはまだ溶けて温かかったから、今さっき客人のために準備してくれたのだろう。しかし口に押し込み、ワインで流し込まれて、水で顔を濯ぐと、ディオンに髪を撫で付けられ、髭をあたることもできず、館から駆け出した。どうせ汚れるんだから、格好なんて関係無いでしょう、あとこれ着けて。と渡された鼻と口を覆う布については、用途がすぐに明らかになった。川べりに抜けるとは別の道を降りていくと、柵で囲われた草地に大きく穴が掘られ、堆肥が累々と積み上げられている。既に何人かの男たちが作業を始めていた。唖然とするフェリシスに、ディオンは踏み鋤を手渡すと、顎をしゃくって促す。新しく集められた廃棄物・排泄物には籾殻や藁を混ぜ、発酵が進んだものは荷車に載せて硝石丘まで運び、積み上げて、更に汚水をまぶす。これを繰り返すのだ。三往復したところで、フェリシスは厄介払いされた。決して腕っ節が弱い訳ではないのだが、体力が続かない上に、息継ぎが上手くできない。頭が痛くなり、腕の筋肉が震え出し、冷や汗が背筋をたらたらと垂れて気持ちが悪い。そんなへっぴりごしじゃあ、ノルマの半分も終わらねえよ、と男たちに呆れられ、調合小屋に置いていかれたのだ。


 調合小屋は主に女たちの職場だ。硝石丘から掘り出してきた廃土を煮詰め、上澄み液を集めて結晶をつくる。更にこの結晶を粉状に砕き、硫黄、木炭粉と混ぜて火薬に調合する。ここでもフェリシスは足手纏い以上のものにならず、結局小屋の隅でひたすら硝石結晶を臼轢きすることになった。臭いと疲れと情けなさで、意識が朦朧としてくる。


「は、いい面になったじゃないか」


 廃液の煮立つ湯気と薪の爆ぜる向こうから、片足を引き摺るように歩く音が近付いて、フェリシスは臭気がしみて涙に濁る視線を上げた。黒のスカーフで頭髪と口元を覆ったクロードが、三日月のような目でこちらを見ている。羞恥で穴に入りたくなったが、もはや何を聞き咎める気力も無い。


「おいで。話をしよう」


 アレット、とクロードが呼ぶと、女たちの一群から朝の少女が駆け出し、クロードの側に立った。凄いな、とフェリシスはぼんやり思う。アレットのクロードを見つめる瞳はとても真摯だ。たとえ、視力が宿っていなくても。


 先に沐浴場へ連れて行かれ、湯と石鹸で身体を洗う。フェリシスは心底有り難かった。イタリアに留学していた叔父の先導で、実家でも沐浴は習慣化していたのだが、パリではほとほと難しかった。安物の石鹸に桶を買い求め、水浴びできるのがせいぜいだったのだ。成る程、沐浴あとの水を含めここでの生活排水は、パリのように道に投棄されることもなく、硝石丘へ使われる。効率的だな、とやっと戻ってきた思考で身体を拭き、与えられた洗濯済みの古着を着ていると、衝立の向こうにこちらも沐浴を終えたのであろうクロードが見えた。アレットが上着に袖を通すのを手伝っている。少女は身体中に傷の有るクロードの側仕えなのだろう。しかし湿り気を帯びた香気を纏うクロードは、黒貂の如く美しい。生命力に満ちた、野生の黒。



「文句を言いにくるか、逃げ出すかと思ったが、間抜けなのか真面目なのか」


 クロードの館へ戻ったのは、日も大分傾いた頃だった。気つけにモルドワインのカップを渡され、飲み下す。臓腑はまだむかむかとするが、やっと人心地つけた。こちらをどことなく楽しそうに眺めているクロードに、フェリシスはしわがれた声で応えた。


「…いろいろな方言を話す人々が働いていますね」


 皮張りの椅子に腰掛けて、机の書類に手を伸ばしかけていたクロードは、もう一度視線だけフェリシスにくれた。長い影が床に落ちている。


「こういう仕事でも望んでするような人間が、どこから来たのかくらい想像がつくだろう」


 僅かばかりの田畑を失った者、借金の有る者、罪を犯した者、主人や村人たちから虐げられた者、健常者と看做されない者、流民。土地台帳にも教会の記録からも消されてしまったような人々が集まって暮らしている。クロードはここを纏める要なのだ。無頼者と弱者の集まりを押し並べて働かせるのは果たして容易ではない。クロードのカリスマと、ルールに背く者に対する制裁と、蜘蛛のように目を配り掬い上げる手管のなせる技だろう。それでも血の気が収まらん奴はパリへ行けばいいのさ、アンブロワーズが手ぐすね引いて待っている。ふん、とクロードは身を起こし鼻で笑う。


「クロード、見てもらいたいものがあるって、親父たちが」


 ノックして掛けられた声は、ディオンのものだ。比較的年若いせいか、使いっ走りが仕事なのだろう。


「分かった。どこだい」

「第三工場。旋盤がどうのこうのって」

「気を付けるように言っておくれ。直ぐに行く」


 慌ただしい足音が遠去かり、椅子から立ち上がったクロードに、フェリシスは咄嗟に手を貸そうとした。アレットは夕食の支度で出ている。黒いシャツとコートで覆われた外連味で気付かなかったが、大柄な方ではない。片脚が動きにくいようでも、それを補うように全身にしなやかな筋肉が付いており、火傷跡の残る指先はことのほか長く細い。なんだこれは、とフェリシスが訝しむ前に、腕を振り払われた。


「気を遣うことはない。客はお前だ」


 杖を取り、違和感に立ち尽くすフェリシスを置いて、クロードは部屋を出ていく。一日の残照が、クロードの骨が浮いて歪んだ背に降り注いで、儚げに輝いている。フェリシスはその黒い瞬きを追った。

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