第二章 黒と白

五、

 夜明けはまだ遠い。フェリシスは粗雑な板張りの壁の隙間から外を伺うが、今だ漆黒が漂うばかりだ。傍らの老馬が心配そうに鼻を鳴らす。フェリシスは首元を撫ぜてやる。川から山道を登ってきたフェリシスは、木々の向こうに傾斜を切り開いて建てられた質素な家屋の集まりを見付けた。丘の上に住んでいるのは、なるべく臭いを避けるためなのだろう。静まり返った屋根屋根に月明かりが降りかかる。山肌に時折寝ぼけた牛や羊の鳴き声が微かに響く。視線を更に上げれば、一棟石を組んで作られた屋敷がかしいで建っており、その窓辺にだけ灯りがともっていた。フェリシスは引き寄せらせるように、その灯りを目指した。あそこにクロードがいると、確信じみて感じる。爛々とみみずくのような瞳で、こちらを見ているのだ。


 すぐ夢中になって、自分の置かれた状況を忘れるのは悪い性分だ。当たり前なのだが、このご時世、小さな村にも自警団がいる。丸腰で道なりに登ってきたフェリシスは、警邏中の村の自警団に見つかり、抵抗する訳にもいかず、捕らえられてこの馬小屋に閉じ込められた。クロードに会いにきた、アンブロワーズに話も通した、ブレーズとギイに、ここに来るように言われた、と伝えると、自警団の男たちは何か相談してフェリシスを馬小屋に残し出ていった。夜明けはまだ遠い。フェリシスは老馬の体躯を撫ぜてやりながら、埃がちらちらと月光を弾いて舞う小屋内を見渡す。この丘陵に住む人々は、どんな生活をしているのだろうか。火薬を密造している、地図には無い村。


 戻ってきた男たちは、フェリシスを馬小屋から連れ出して、夜道を登り出す。両脇から腕を掴まれているので、周囲を見渡すことはできないが、土をならしただけの小道に沿って建つ家屋も、質素だがそれほど古くは見えなかった。この村自体が比較的新しいか、メンテナンスが良いのだろう。そして静かだ。星々の瞬く音さえ聞こえそうだ。パリの下町とはうって変わった様子に、フェリシスはどこかほっとする。故郷を思い出させるからだろうか。麓からの風に漂う臭いには辟易するが。


「お前、パリから来たのか」


 後ろから付いてきていた恐らく一番年若いであろう男が、乗り出してきてフェリシスに尋ねた。フェリシスを拘束している年配の男が諌めるのも聞かず、ブレーズとギイを知ってるなら悪い奴じゃないよ、などと言う。


「いや、俺はもともとサヴォワ地方の出身なんだ。今はパリに住んでいるが」

「サヴォワって何処だ」

「南の方、イタリアに近い」

「どんなところ」

「ワインやチーズの農業加工製品や織物業が盛んかな。あとは金融業…」

「金融業、って何だ」


 銀行の役割、通貨交換や手形取引について、どう説明すべきだろうか。知らないことは決して悪いことではない。事実フェリシスは硝石生産について知らないのだから、彼等と大して変わらないのだと思う。知識についても格差が有るから、人は自己判断ができすに盲信して、知らないものに対して保身的になる。思考に耽って口を噤んでしまったフェリシスを見て、青年は肩を竦めた。間も無くあの石造りの屋敷に辿り着く。自警団の男たちが磨かれた楡の扉を開けると、がらんどうのような内部は、一際暗い。


 通路には小さな灯りしか掛けられていない。石の床を踏んで擦過音が反響する。ここにはクロード一人しか住んでいないのだろうか。使用人がいる気配は無い。一歩一歩どこか深い洞窟の中へと迷い込んでいくような気分になる。その先で、死神が手招いている。角部屋の前で男たちが立ち止まると、霙のように冷たく滴る声がした。


「フェリシスだろう、置いていっていいよ。もう帰ってお休み」


 気遣いは自警団の男たちに向けられたのであって、自分はもの扱いされたのだが、フェリシスは心を奪われた。囁くような声音なのに、闇夜を震え上がらせる。蕩然と立つフェリシスの左右で男たちは若干躊躇したようだったが、雑に腕を離して、戻っていった。フェリシスは暗い廊下に一人残される。この扉の向こうにクロードがいる。ウィジェーヌが恐れ、アンブロワーズの傘下にあり、ブレーズとギイが従う、パリの影で愛しく憎しみを込めてその名を呼ばれる『火薬売りのクロード』。


「フェリシスです。お目に掛かっても?」


 扉を撫ぜ、フェリシスは逸る気持ちを抑えるために、おかしな質問だ、と自分でも分かるような発言をした。扉の向こうの人物は、読書をしていたのかもしれない、かさりと紙ずれのような音がする。


「その程度の用ならば帰れ」

「失礼!」


 無関心な声にかっとして、フェリシスは扉を押し開けた。始めにフェリシスの感覚を奪ったのは花の香りだ。窓辺に白い蔓薔薇が咲いている。そして向けられた銃口がぬめりと光る。シャルルヴィル・マスケット、一七六六短身モデルだろうか、長い腕に担がれて、まるで細い身体と銃が一体に繋がっているようだ。月光を背にした人物は全身黒づくめだった。黒色のシャツ、黒色のコート、黒色のトラウザーズ、黒い髪が昏く光を弾いて凪ぐ。片脚に問題が有るのか布張りの椅子に半身を預けている。胡桃色の痩せた肌に染みをつくる火傷痕。それを覆う左目の眼帯。タールのように、闇に澱んだ瞳。なんということだ、よくも生きているものだ、それとも人ではないのだろうか。フェリシスは見惚れて立ち尽くした。言葉を無くして動けなくなったフェリシスに、影に隠れた表情が吐き捨てる。


「貴様、硝石の肥やしになりたいか」

「クロード、火を」


 胸の奥から絞り出す、それだけでどっと汗が吹き出しそうだった。クロード、火を、貴方の火薬が欲しい。フェリシスは震え出しそうになる脚を叱咤して、一歩一歩クロードに近付く。手を伸ばして、銃口に触れた。クロードは照準を定めたままフェリシスを凝視していたが、銃口に触れた指を振り払うと、構えを解いた。


「貴族で記者だと聞いていたが」


 血色の悪い赤黒い唇が、花弁の散るように動く。正面からの素顔はまるで、継ぎ接ぎだらけの人形のようだ。しかしその筋力の強靭なことは、服の上からでも見て取れる。


「貴族ではありません、記者ですが」

「まあ、貴族には見えんな、そのナリは」


 フェリシスはここで改めて自分の様子に気が付いた。ウィジェーヌに会ったあの夜から、実はまともに身嗜みを整えていないのである。憲法制定国民議会の発足で二日間取材に忙しく、記事の書き方を巡って同僚と派手に諍い(よく有ることである)、記者の宿命か路上で揉め事に巻き込まれ、アンブロワーズの館を訪れる前に髭はあたったが、そこでブレーズに殴られ、泥道を歩き、休み無く馬を駆って、自警団に捕らえられて、馬小屋に放り込まれた。


「クロード、俺にはロクな身分も栄誉も無いんです。それでも俺に、火薬を売ってくれますか」

「それがどうした。用途を訊いている」


 クロードは腰掛け直すと、傍らの机に広げられていた書物へ視線を戻してしまった。ページを繰る手にも火傷と傷跡が見て取れ、フェリシスは息を詰める。


「バスティーユを陥とすためです」

「それから?」

「王の火薬庫です。体制は変わらなくてはなりませんが、長く凄惨な争いになるでしょう。資源をどれだけ抑えるかが鍵になると思います」

「そうだな。買うも奪うも永続きはせん」


 濡れたような乾き切ったような声で、問われたのだろうか、とフェリシスはクロードの月光に浮かび上がる横顔を見直した。今ここでいくら火薬を買って、バスティーユを陥し、王の火薬を奪ったとしても、それからの果て無い戦いに、いつの日か火薬は尽きるだろう。人民の国フランスが生き延びるためには、持続的な火薬の供給が必要なのである。それは分かるが、何故クロードが問うのか。彼は火薬が高く売れればいいのではないのか。いや、そうではないのだろう。フェリシスは、クロードが繰る書物の字列に視線を辿らせた。


「…自国で生産するか、代替品を開発するか。戦争が無くなることはないでしょうから」

「そうだ、結局誰かが犠牲にならねばならん。インドを植民地化して硝石を輸入することと、王政が人民を搾取することと、何が違う」


 青白い指先が、いらただしげに紙面を叩く。開かれていたのは、ベルトレーの化学書のようだった。


「雷銀を造るつもりなのですか」


 クロードは興味を唆られたように、視線をフェリシスに戻した。タールの瞳が、黒真珠のように光を帯びる。


「銀は高価だ。取り扱いも容易ではない。大量生産には向かないな。お前は技術に詳しいのか」

「…大学で齧りましたので。ベルトレー博士は同郷です」


 科学者ルイ・ベルトレーは、漂白剤や染料の研究で名高く、またアンモニアの組成を特定したことでも知られる。クロードは、に、と薄い唇をしならせ声も無く笑ったようだったが、継ぎ接ぎの皮膚は表情を容易に見せなかった。本を閉じ、腕を組んでフェリシスを睨め上げる。


「あちら側の角部屋が客間だ。使うといい」


 取引は明日だ。上手く競り落としてみせろ。なんという魔性の男だ、フェリシスはそのどろりと黒ずんだ血のように陰惨で甘美な声音にくらついた。震えを隠して動けなくなっていたフェリシスを、クロードは手元の杖で叩き出した。

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