四、

 月光が霞のように格子窓から零れてくる。奇妙な部屋だった。黒檀のアームチェアと、白い天蓋布の降ろされたベッド、高級なものなのだろうが家具はそれしかない。しかし、花の芳香と、血生臭さが混じったような匂いがうっすらと漂っている。ブレーズは腕を組み、首を捻った。


「おい、ギイ、クロードは何処行った」


 部屋の隅で座っていたらしい影がのっそりと動いた。入室してからも気付かず立ち尽くしていたフェリシスは、驚いて振り返る。その頭上に影がどんどん伸びる。痩せてのっぽで色白、蝙蝠のような長い前髪が目元まで覆う青年が、傍らに現れた。


「採掘場に行くって、言ってた」


 薄暗い部屋にやけに映える紅く薄い唇が、場違いに陽気に答える。青白く乾いた肌に高い頬骨、細く尖った顎、蜘蛛のように長い手足。んん?と小首を傾げ、フェリシスを指さした。


「誰?」

「アンブロワーズの親父が寄越したんだ、捌くなよ」


 ずい、と長身を屈めフェリシスを覗き込む。暗さも手伝ってそれでも表情は伺えないが、フェリシスは怖気が走った。前髪の隙間から、蛭に舐め回されているような視線を感じる。首筋近くに鼻を近づけ、くんくんと嗅ぐ。


「うん、分かった。よろしくね」

「ええと、よろしく…?俺はフェリシス。君は」


 醸し出す凄絶な雰囲気とは全く噛み合わない、舌足らずで朗らかな声音。フェリシスは途惑いつつ、恐らく同年代か少し年上に見える青年に応えた。


「オレは、ギイだよ」

「クロードは“採掘場“だと言っていたね。俺が会いに行っても構わないだろうか」


 ブレーズとギイは顔を見合わせた。ブレーズは明らかに眉を顰めている。できるだけ誠実そうに、フェリシスは付け加える。


「あまり時間が無いと思う。なるべく早くクロードと話がしたい」

「お前が連れていけ、ギイ。親父からの預かりだ、無下にもできん」

「ええ、ヤダよ、明日仕事も有るし」

「お前よりもミミの方が腕がいいんだから、女房に任せとけ。旦那、馬を借りてきな」


 抗議の声を上げ続けるギイを無視し、ブレーズはフェリシスを急かす。フェリシスが知っている限り、火薬の原料は硝石、硫黄、木炭だ。採掘場というのは、このいずれかを製造している場所なのだろうが、それとも別の意味が有るのか。いずれにせよ、火薬の闇流通か、クロードという人物に関わる要所ならば、見聞きしておいたほうが後々交渉材料になり易いだろう。記者根性も若干顔を出す。ブレーズがギイのだらんと垂れた腕を引っ張りしゃがませて、何か耳打ちをしている姿が背後に見えたような気がしたが、フェリシスは馬を借りるために、酷く軋む階段を滑り降りた。



 馬で駆けるのは好きだ。しかし、今回は月明かりがあるとはいえ夜道、しかも相方がかれこれ二時間は喋り続けている。パリを出るまでも一騒動だった。現在は戒厳令下に近い状況で、城壁の守りは固いのだが、抜け道は有るものだ。ブレーズが馴染みのフランス衛兵に賄賂を渡すのを、フェリシスは見て見ぬ振りをした。フランス衛兵が民衆側に寝返るのではないか、という噂はかねがね有るのだが、それは信義によるものでもないらしい。走り出してからというもの、ギイは話し続けている。ギイの本職は精肉業、可愛い奥さん、通称“ミミ“がいるが、子供は無い。ブレーズはああ見えて娘が三人、女房とはケンカばかりで、鍛治職を継がせようにも息子がいない。それなりに興味深く相槌を打ちつつフェリシスはしかし、警戒を解くことができなかった。一つには、声を立てれば夜盗に見つけられ易くなるからだが、より奇怪なことに、このギイという青年はよく喋るが、肝心なことは全く伝わらないのだ。


 田畑を抜け、林に入って随分経つが、フェリシスはこの林があまりにも静かなことに今更気が付いた。生き物の気配はする。風向きが変わったのか、あの独特な獣臭さがする。しかし、鳴き声や藪を分けて動き回る音はしない。異臭は次第に鼻につくようになり、フェリシスは馬の背で揺らされて気分が悪くなってきた。


「もうすぐ川に出るよ、そうしたら山道を上がっていってね」


 前を駆けるギイが振り向いて言う。ぱさぱさと前髪が跳ねているが、それでも表情は分からない。白い肌に紅い唇が闇に映える。


「みんな丘の上に住んでるから。クロードの館は一番高いところ。俺はここまでだよ、あそこには行きたくない」


 ミミを一人にしておくのも心配だし。夜明け前にはみんな川に水を汲みに下りてくるから、何かあったら助けてくれるよ、多分ね。ギイが話しているうちに小川の辺りに出る。月光を散らして流れる水面は可憐だが、フェリシスはやっと息を吐いて、問いを挟まずにいられなくなった。


「有り難う。それにしても、この林何かおかしくないか?匂いも音も」


 ギイは馬の手綱を返して、小首を傾げた。やはりぞっとしない青年だ。長時間馬を駆っているというのに、息の一つも上げていない。パリを出る際に大きな革袋を馬に括り付けていたが、“商売道具“なのだと言う。持ち歩かないと、気になっちゃって、と本人は屈託無いが、精肉業者と知った今、あの中身は何だというのだ。


「そう?まあ採掘場が近いからねえ」

「一体、採掘場とは何をするところなんだい?丘の上には大勢住んでいるの?」


 相手の口調につられて、質問も子供にするような言い方になってしまう。ギイは笑ったようだった。


「採掘場、って言ったら硝石でしょ。フェリシス、硝石どうやって作るか知らないの」


 知っている、というか聞いたことはある。黒色火薬の主な原料である硝石は水に溶けやすく、高温多湿な地域では自然鉱床ができない。しかし領地獲得戦争が激化する中、各国の硝石需要は高まる一方だ。硝石は人工的に作ることもできる。家畜小屋や古い家屋の床下などから集めた土を濾過して煮詰め結晶化させると硝石ができることは、古くから知られていたが、今や細々と古土を集めるだけでは足らなくなった。つまり大量生産が必要なのだ。土と藁・穀殻に人畜の排泄物を混ぜたものを積み上げて、バクテリアの分解を促し、硝酸カリウムを生成する。これを硝石丘法という。


「…俺はサヴォワの出身なんだ。硝石は、イタリアから輸入できる」

「オレ、あれ苦手なんだよね。血の臭いなら平気なんだけど」


 じゃあね、またパリで。ギイは大きな口でにい、と笑うと、長く節くれだった指をひらひらと揺らして踵を返し、行ってしまった。フェリシスは一人川辺で夜空を仰ぐ。自分は短慮なのではなかろうか、そのうち知らぬ間に足元を掬われて、ぽっくりいきそうな気がする。だが、いや、もう決めたのだ。水音に視線を戻し、エレーヌと彼女の弟妹たちと共に、染め上がった布を洗ったことを思い出す。あかぎれのできた小さな青い手が水面に遊ぶ。声にならない声が呼ぶ。進め、どこまでも、人の一生が辿り着ける最果てまで。それが、後に遺し犠牲になった者たちへの償いでもあるのだから。フェリシスは手綱を引いた。

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